朔の夜
月のない夜だった。
凪いだ海面は、墨汁を撒いたように真っ黒で、吸い込まれそうなほど静かだった。
地平線に、ぽつりと大地が見えるぐらいの沿岸部に、大型船が停泊している。
全長二百メートル、巨大な白亜の豪華客船は、とあるアメリカの実業家の持ち物ということになっている。
今夜は沖合で停泊して、翌日港に入る。
そして『竜』がくる前に出港し、日本海を南下する予定であり、入国管理局からは迷惑な金持ちの道楽だと思われている。
そんな巨大な船からは、ロープが海面に落とされている。
波と共に揺れる細いロープを、海面から突き出た手が掴む。
そして、海面に浮上してきたのは、短髪の女性だった。
吹き付ける潮風が濡れた肌を冷たくなぞる。
ぶるりと身を震わせた水着姿の女性は、するすると器用にロープを登り、船上に降り立つ。
軽く頭を振るい、海水を落とす彼女へと、タオルが手渡される。
彼女はそれを無言で受け取った。
「お疲れ様です、
「……
低いハスキーな声が男の名を呼ぶ。
不明は感情のうかがえない笑みを浮かべる。
仕立てのいいワンピース型の民族服を着ており、豪華客船の甲板にいてもおかしくはない服装だが、彼の背後にいる軍服の男たちのせいで、ひどく浮いて見えた。
否、彼らだけではなく、この船の各所には、最新鋭の銃火器で武装した兵士たちが見張りに立っている。
「どうでしたか?」
「聞くまでもない。俺がこの程度の仕事をとちるわけないだろ」
「それはなにより」
揶揄するような不明の口調に眉を顰めた海呑だが、この同僚に何を言っても無駄だと分かっているので、口をつぐんだ。
元より無口な彼女の変化に気づいていないのか、気づいた上で無視したのかは分からないが、不明は背後の兵士から上着を受け取り、海呑に渡した。
「どうぞ、風邪をひきますよ」
「俺がこの程度で――――いや、貰おう」
また馬鹿にされていると思った海呑だが、不明の連れている兵士たちの視線に気づいて上着を羽織り、前を閉じた。
そして2人は並んで船内に向かい、その背後を兵士たちがついて行く。
「しつこく問うようですが、仕込みは?」
「…………くどいな。お前の言う通りにした」
今度は苛立ちでは無く、愉悦が色濃くにじんだ声だった。
海呑は自分の仕事の重要性が分かっているから、何度も聞く不明の気持ちも分かったのだ。
だがそれでも、普段から掴みどころのない不明という男の人間味のある言動は愉快だった。
「そうですか。なら、貴方の役割の大半は終わりですか」
「そうだな」
お互いに視線は躱さず、言葉だけが行き交う。
別に二人のやり取りが険悪なわけではない。だが、底のない穴の真横で踊るような、心が竦む恐怖を、背後の兵士たちは感じていた。
それは、彼我の間に横たわる階級と生物としての力の差がもたらすものだった。
豪華客船として作られた船の床は、彼らの足を柔らかく受け止める。
上官への報告に向かっていた二人と付き添いの兵士たちは、廊下の先から向かってくる人物に気づく。
兵士たちの顔に浮かんだのは緊張だ。タイミングが不揃いな敬礼がそれを表す。
一方、不明は手間が省けたとでも言いたげに、わざとらしく親し気な笑みを浮かべる。
海呑はどうでもよさそうにしかめっ面を崩さない。
「これはこれは
まるで舞台役者のようにふるまう不明へ、春少佐と呼ばれた老人の背後に控えていた青年が眉尻を吊り上げる。その口から怒声が放たれるよりも早く、穏やかで落ち着いた言葉が、場に染みわたった。
「ならば、たまの散歩もいいものだ。君たちの顔を見るに、仕事は成功したようだね」
「ええ。何の問題も無く」
「ふふふ、頼もしいよ。流石は我が国が誇る『
老いて皺だらけの瞼が震え、双眸が不明と海呑を見る。
その瞳には、柔らかな物腰には似つかわしくない力強い光が宿っていた。
春少佐は、魔素を吸っていない常人だ。しかし実戦の中で指揮官として手柄を上げ、常人としては極めて異例の少佐という階級にまで上り詰めた。
そして今回の作戦では総指揮を執る男だ。
片や慇懃無礼、片や無関心。とても上官へと向けるものでは無いが、春と呼ばれた老人は満足そうに頬を震わせた。
「では、私は夜風に当たって来るよ」
春少佐は、老人ながらもしっかりとした足取りで、上階へと階段へと消えて行った。
その背後を険しい顔をした青年が追う。
きっちりと軍服を着こんだ真面目そうな顔立ちをした青年だ。
彼は階段へと足を掛けたところで、くるりと振り返り、不明と海呑を睨みつけた。
「…………己の立場を忘れるな、不明特別中尉、海呑特別中尉。本国でどうであろうとも、ここではお前たちは少佐の部下なのだ」
ひっ、と息を飲む声が聞こえた。恐怖に耐えきれなかった兵士の一人の声だ。
両者の力と名を知る彼らにとっては、眼前の光景は『竜』がにらみ合っているのと同じだった。そして『竜』の如き怪物たちは、一介の人間に気を使いはせず、思い思いに言葉を交わし合う。
「もちろん、忘れていませんよ。途刃特別中尉殿」
何一つ揺るがぬ笑みに、揶揄するように階級で呼ぶ不明に、途刃と呼ばれた青年は眉をしかめ、その手を腰に帯びた剣へと向かわせる。
「……次は無いぞ」
だが、柄に手をかけることはなく、途刃と呼ばれた青年は軍服の裾を翻し、去っていった。
その途端、こらえきれなくなった兵士の一人が、腰を落とした。
真っ青な顔で汗を流す彼の側にいた不明はしゃがみ込み、懐から花模様の手ぬぐいを差し出した。
「大丈夫ですか?ふふっ、すみません、大人げなくはしゃぎ過ぎましたね」
「…………い、いえ、恐縮です」
不明の私物を受け取ることはできず、軍服の袖で顔を拭った彼は、青白い顔で首を振った。
拭っても拭っても汗は途絶えない。
袖は水分で黒く染まっていき、伏せられた顔は強張っている。
「彼も私たちと同じ【
「い、あ、その、」
答えられない質問に、兵士は言葉を詰まらせる。
そして逃げ場を探すように視線を上げて、その目に気づいた。
まるで女性のような顔立ちの中に浮かぶぽっかりと空いた二つの黒い月。
笑顔に彩られているのに、何も感じない艶のない瞳に。
兵士は悲鳴を噛み殺す。
それを不明はじっと見ていた。
彼らを乗せた船は、さざ波に揺られている。
明日になれば、彼らは北海道へと向かう。
超級の戦力といくつかのたくらみを乗せて。
□□□
同刻、彼女は空を見上げていた。
迎賓館の窓は大きくあけ放たれ、そよ風にカーテンの端が浮かび上がる。
異国の地で見上げる空に月は無かった。
それが少し残念で名残惜しそうに窓枠にかけられた指が、緩く握られる。
視線を下げると、夜でもぽつぽつと明かりのついたビル群が見えた。
この地は日本でも都会の方ではない。
それでも故郷を超える人の気配と文明の息吹に、何度目とも知れない感嘆の息を漏らす。
柔らかな夜の風に揺られる彼女は、白かった。
真っ白いドレスに顔を覆い隠す同色のヴェールは穢れを知らず、朝日のように清廉とした美しさがあった。
豪奢な迎賓館すら色あせるほど、純粋な美を纏う女性は、ヴェールの奥で瞳を細める。
黄金の輝きを宿す双眸は、夜景から焦点が外れて、いずこかを見る。
そして彼女は僅かに頬を動かす。それは微笑みにも見えた。
「白木様……」
その声に込められた感情を聞いたものはいなかった。
逢瀬を待ち焦がれる少女のように、女性は夜風に身を任せた。
□□□
次回更新日は、2024/4/27(月)です。
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