予兆
誰かの話し声がする。ハンナ・ケンプフェルトは急速に覚醒し、ベッドから身体を起こす。濃厚な闇の中、城の一階から話し声がする。三階(ここ)まで届くとは相当な大声だ。
城門の方だ。こんな夜遅くになんだろう?
ハンナは華奢な体を震わせ、伸びをする。鮮やかな金色の長髪が揺れ、大きな青い瞳がぱちぱちと瞬く。ろうそくに火をともし、カーテンを開くと、玄関から一人の中年男性が現れ、馬に乗って城を出ていく。
父さん、こんな時間なのに仕事なのかな? それとも朝のことで私と一緒に居たくないのかな?
地方の中領主とは言え、暇をしている姿を見たことは一度もなかった。いつも仕事ばかりの厳しく冷たい父親だった。母親が生きているときはそうでもなかったと聞くが、ハンナは母の顔を思い出せない。
街の方へ消えていく父の姿を見ながら、ハンナは大きなため息をつく。小動物を思わせる童顔がみるみる曇っていく。
なぜ、あんなことを言ってしまったのか。ハンナは朝のことを思い出していた。
朝、姉のグレーテと妹のミナと食事を採っていた時だ。姉(グレーテ)は朝が弱く、いつも通り全く頭の働いていない様子であった。(妹)ミナは一人で話しながら、時折、朝食をスプーンで弄っている。ハンナだけが黙々と食べていた。そんな時だ―
「ただいま」父親が居間に現れた。その顔は少しやつれ、白髪も増えた様子だ。
ハンナは微かに顔がほころんでしまうのを抑える。
「父さん!」まだ十四歳のミナは父の肩に手をかけ、歯を見せて笑った。
「お帰りなさない」ハンナは微かに照れながら、父親の朝食を用意する。その手が緊張で微かに震え、汗ばむ。
父親はテーブルに着くと、ハンナの用意した朝食を無言で食べ始めた。ミナが話しかけ続けていたが、父親は生返事を繰り返すばかりであった。元々、無口な人であったが、母親が死んでから、さらに無口になり、仕事に没頭し始めたという。今では数週間、家を空けることもある。
「みんな話がある」父親が口ひげに付いた食べかすを落しながら言った。
ハンナは慌てて、姉の肩を叩く。グレーテはぼんやりと父の方を向いた。しかし、まだ寝ぼけている様子だった。
「グレーテはまだ寝ているようだな」父親は無表情に言う。慣れているのだ。
「はなしって~?」ミナが緊張感のない声を上げ、父は静かにため息をつく。
「ハンナ、城から少し離れた場所に入ってはいけないと言っていた場所があったな」
ハンナは自分の名前を呼ばれ、びくりとした。顔が紅潮するのが分かる。数年前まで城に併設された父の仕事場に足を運ぶことも多かった。そこで、父の仕事を手伝ったこともあるし、ある程度、自由に見て回っても許された。しかし、その中で、父の許しがないと絶対に入ってはいけない部屋があった。
「以前、数回だけ入れてもらったことのある、あそこですよね?」
「その鍵を渡したい。お前たちにも私の研究について話す時が来た」
研究―
ハンナはその言葉に苦い物を感じる。おおよそ20年前、マガイと呼ばれる化け物が国を襲った。その被害は大きく、数百人が死んだと言われている。マガイとの戦争は数年間行われ、ほぼ完全に駆逐されたと言われている。事実、その被害も数年に一度聞くかどうかだ。しかし、王はマガイに怯え、その対策に金と人を湯水のように使っている。父親もその研究に携わる一人だ。
「お前にも知ってほしい」
父の声に、ハンナは我に返る。
父が自分に話しかけている。ずっと、ずっと、ずっと待ち望んでいた。
動悸が早くなり、喜びが身体を駆け抜ける。しかし、口に出たのは―
「いえ、私は……」
ハンナはこぼれ出た言葉に自分でも驚く。そして、そこに込められた感情の強さにも。
動揺しつつ、横目で父を見ると、その瞳は哀しみで満ちていた。
「そうだな……」父は微笑み、嘲るように言った。そんな表情は初めて見た。
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