襲来
朝のことを思い出し、ハンナは唇を噛んだ。
なぜ、あんな風に突き放してしまったのか。ずっとずっと待っていたんじゃないのか。明日帰ってきたら謝ろう、いや、帰ってくるのだろうか。ハンナは微かに涙を浮かべ、胸を押えた。
なぜ、素直になれなかったのか。いつもこうじゃないか。
胸が痛み、ハンナは強く歯を噛み締める。いつも何かが足りない。こんな自分は大嫌いだ。ハンナは、ふと窓の方を見上げる。窓には、17になっても大人になり切れていない少女の顔が映っていた。
次に会ったときに必ず謝ろう。そう思った時だった。突然、土砂降りのような音がし、少し経って鳥が大量に飛び立った音だと気づく。胡麻を空に撒いたかのように、一瞬で鳥が空を覆い尽くす。
ハンナが唖然としていると、悲鳴が遠くから聞こえる。怒鳴り声がそれに続く。顔を上げ、外を見る。街の方が妙に明るい。橙色の光が、闇の中で煌々と輝いている。
まさか火事? それにしても大きすぎる。
城は街から離れた丘の上にある。周りは畑で囲まれているので、炎には弱い。
ハンナが畑の方を見た時だった。草むらを何かがかき分けてくる。重量があるのか、何かが通った上は草が押し倒されている。目を凝らしてみると、黒い何かが城の方へ向かってくる。その夥(おびただし)い数にハンナは言葉を失う。それらは門の松明を蹴散らし、門の中へ消えていく。炎が作り出した影は異形そのもの。
獣なのに炎を恐れない?
ハンナは無意識に身体を抱いていた。全身の毛が逆立ち、肌が泡立った。
ガラスの割れる音がし、悲鳴が聞こえる。ハンナは、父から貰った両手剣を構え、廊下に飛び出す。何も考えず、ただ衝動的に。
慌ただしく二階へ降り、父の書斎へ向かう。暗い廊下を歩いていると、足裏に冷たい感触。咄嗟に足を引っ込めると、それはどこかから流れ出てきたエール(アルコール度数の低いビールのような物、当時は一般的な飲料)だった。ロウソクで照らすと、真っ暗な闇の中、液体が廊下中に零れているのが見えた。
「な……なんで」
廊下に広がるエールを避け、壁に沿って歩く。ふと、肩に何かが刺さる。はっとして、ロウソクを向けると、幼少期に姉妹の背丈を壁に刻んだ印。はんな、みな、ぐれーす、と姉妹の名前が書いてある横に、一本の筋が刻まれている―はずだった。姉妹の背丈が刻まれていた場所には、刃物で引っ掻いたような、異様な傷。まるで、剣で壁をやたらめったらに切り裂いたかのよう。
「な、な、なによ……これ」動悸が激しくなり、うずくまってしまう。
「ハンナ!」低い女性の声がし、ハンナは我に返る。
振り返ると、鎧を着たグレーテの姿。髪をまとめ、剣を持ち、弓を背負っている。その瞳は騎士の者。一瞬でただ事ではないと理解できた。
「グレーテ姉さん……」ハンナは震え、歯が嚙み合わない。
グレーテは鋭い視線を外に向け、
「化け物は見た?」
ハンナが頷くと、
「化け物が城に入り始めている。ミナを連れて、父さんの書斎へ」はっきりと迷いのない声。
「ミナはどこに?」
「ミナは乳母の部屋に居る。頼んだ」
「グレーテ姉さんは?」
グレーテは優しく微笑み、ハンナの肩を触り、「外なら大丈夫。父さんが来てくれるから」
「私も……」ハンナは剣の柄を握り締め、言う。
グレーテは見たこともない眼つきでハンナを睨み、
「絶対にダメ。あんたが来ても足手まといになるだけ!」
ハンナはうつむき、歯噛みした。父に仕える騎士と同程度の実力があるグレーテに対し、ハンナは努力を誉められたことはあっても実力は素人に毛が生えた程度だ。
「でも、グレーテ姉さんが行かなくても良いじゃない!」
「父さんが来るまで持たせないと。大丈夫、心配しないで」グレーテは鉄仮面をかぶり、その顔は隠れてしまう。一瞬だけ見えた泣き笑いのような表情。恐怖と不安を無理やり押し殺した姉の顔。
グレーテは素早く下の階へ降りていく。
「いかないで……」膝が笑い、動けない。しかし、ここに居ればミナは殺されてしまう。
拳を握り、震えを殺す。私ならできる、私ならできる。
ハンナは自分の膝を叩き、「動け!」
転びそうになりながら、乳母の部屋を目指す。少し進むと、廊下の奥で何かを引っ搔く音が聞こえる。かりかりかり、と耳障りな音がした。
音の方を見ると、闇の中に異形の塊。ハンナは咄嗟に口を塞ぎ、息を殺す。
怪物はハンナには気づかず、壁を引っ掻いていた。闇で姿は良く見えなかったが、成人男性の背丈程もある球体、と言うことだけは分かる。その足元には、騎士の死体。おそらく真正面から戦ったのだろう。鎧が丸くへこみ、剣は折られていた。
自分の実力では絶対に勝てない。ハンナは実感した。
静かに廊下を渡り、ミナの部屋に逃げ込む。扉を開けると、鼻をつく刺激臭がした。何かが腐ったような、胸が悪くなるような嫌な臭い。
部屋にはミナと乳母が居た。そして、二人を取り囲むように怪物が数体。
怪物の身体は粘液で覆われ、全身が棘で覆われていた。棘は粘液が突出し、氷柱のような形を形成しているだけで、常時形が安定しない。眼や鼻どころか、顔や身体に相当する部位はない。粘土をこねて作った塊から棘を生やしただけのような醜悪な姿。暖炉の炎が、怪物を照らす。ぬらぬらとした表面が怪しく輝いている。
「ハンナ!」ミナの声に、怪物がぶよぶよと震える。
「こいつは私を狙ってる。ハンナと一緒に逃げて!」ミナは震える声で乳母に言う。乳母は恐怖で我を失っているのか、ぼんやりとしている。
そんなのは駄目だ。ハンナは思う。心臓が狂ったように鳴っていた。しかし、妹を守らなければ。
「こっちだ!」ハンナは震える声で叫ぶ。しかし、怪物は微動だにしない。
「ハンナ! お願い、行って!」ミナが泣きながら言う。
ハンナは思い切り奥歯を噛み締め、剣に込める力を強める。
私がミナを守らなくてどうする。父と必死に訓練しただろ。ハンナは震える太ももを叩き、怪物に向かって剣を突き出す。
剣は怪物の身体に突き刺さったが、そのまま微動にしなくなる。砂利の混じった泥に剣を突っ込んだような鈍い感触。
「う……ぐ」ハンナは必死に抜こうとする。ゆっくりと怪物の体表の棘が伸びるのが見える。
まずい、そう思い、身体をかがめた瞬間、耳に熱い衝撃。身体が勢いよく床に転がる。一瞬、意識が飛んでいた。頬が温い。ふと、横を見ると髪の束が落ちていた。
咄嗟に頬を触ると、ぬるりとした液体。そして、耳に電撃が走ったような痛み。
「あ……ああ」ハンナはうずくまり、動けなくなる。
ばき、と音がし、剣が真っ二つに割れ、床に転がる。怪物が怒るように体表の棘をびくびくと震わせる―剣がわずかに付けた傷は、瞬時に閉じ、再生。
頭が真っ白になり、恐怖と絶望で視界が揺れた。
「こっちだ、ドロドロども!」ミナの鋭い声で我に返る。その顔には強い覚悟。
怪物はミナへと距離を詰めていく。
「みんなをお願い」ミナの懇願する声に、ハンナは胸を突き刺されたような感覚になる。
ミナは、怪物を誘導するように部屋の隅へ走る。乳母が怪物の輪から解かれ、ミナだけが囲まれていく。乳母が隙を見て、逃げ出し、ハンナの手を強引に引く。
「死んでしまいます!」乳母は強引にハンナを部屋から出そうとする。ハンナは引きずられ、よろよろと立ち上がる。
「や……やだ」ハンナは嗚咽しかけながら、ミナの方に手を伸ばす。妹は恐怖に震え、涙を流していた。
ハンナは乳母に手を引かれ、部屋から抜け出す。扉が閉まる寸前、妹の名前を叫んでしまう。姉の声に、ミナは小さく微笑む。
「やだ……」ハンナは乳母に連れられ、父の書斎へ入る。乳母が本棚の特定の場所を押すと隠し扉が開き、二人は中に入る。鈍い音を立て、扉が閉まる。
乳母の瞳は恐怖で震え、焦点を結んでいなかった。ハンナは縮こまり、耳を押える。一部が削げ、血が止まらない。
すぐに書斎の方から音が聞こえ始める。どん、と大きな音がし、恐怖が全身を駆け巡る。ガラスが割れ、何かが床に叩きつけられる音がした。ハンナは口に手を当て、声が漏れないようにする。
かりかりかり、と本棚を何かが搔きむしる音。
情けなく、涙がこぼれ、嗚咽が漏れそうになる。しかし、手で強引に抑える。血の濃厚な臭いが鼻を衝く。
何時間経っただろうか。一瞬、意識が途絶える。闇、汗の嫌な臭い。ハッとし、眼をしばたたかせる。ハンナは強烈に覚醒し、呻く。喉がカラカラだった。
「ミナ……グレーテ姉さん」ハンナは呆然としながら、隠し扉に手を掛ける。
「いけません!」乳母が駆け寄り、肩を掴む。
「行かないと……」ハンナはそれを振り切り、強引に扉を開いた。
書斎は、嵐が来たように荒らされていた。怪物は居らず、朝日が部屋を照らしていた。
ハンナはふらふらとミナの部屋に入る。ミナは確かにそこに居た。ハンナは、床と壁を二度見し、喉の奥から絞り出すように呻き声を上げた。
ミナは確認するまでもなく、死んでいた。身体は無数の棘で壁に固定され、宙に浮いていた。殴られたような衝撃。気が付くとハンナは床に倒れていた。全身から力が抜け、地に落ちていくような異様な落下感がした。
嘘だ……
「ねえさん……」ハンナはふらふらと一階へ降りる。
何かが焼ける臭い。一階に降りると、居間のガラスがすべて割られ、庭が見えた。騎士が何人か居り、亡骸を並べていた。
騎士の一人が気づき、駆け寄ってくる。
「姉さん……グレーテは?」
騎士が顔を歪める。騎士の顔は煤と血で真っ黒に汚れていた。
「グレーテ!」ハンナは叫び、布が掛けられた死体たちへ向かう。布が小さいため、手足が隠れていないものも多かった。
「いけない!」騎士の制止を振り切り、死体の布を取る。しかし、知らない男だった。
「ここだ……」聞きなれた声。振り向くと、父が腹を押え、倒れていた。となりには布。
「父さん……」
父の横の布を見る。グレーテは小さな布ですっぽりと覆われていた。呆然とし、ハンナは父を見た。
父は娘の姿を見て安心したのか、静かに横たわり、ゆっくりと息を吐いた。その顔は異様に青い。ハンナは父に駆け寄り、その腹を押えた。腹部はどす黒くなり、温かい血と共に命が出ていくのが分かった。
「ハンナ……」父はポケットから何かを取り出し、「これを」
それは鍵だった。それを呆然と受け取り、
「死なないで……」ハンナは大粒の涙を流し、懇願する。
父は優しくハンナの頬を撫で、
「すまなかった……」そう言うと、父は息を吐いた。その瞳から急速に生気が失われていく。
「父さん……」
何度その名を呼んでも、父はもう答えなかった。
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