「死は一つの目覚め」

 薄暗い病室に機械の規則的なビープ音が響く。

  循はベッドに横たわりながらまだ癒えない傷の疼きを感じていた。 ジェノエッジ・バイオサイエンス社と監察局の襲撃から生き延びたものの、彼女の体は限界まで追い込まれていた。身体中に包帯が巻かれ、痣と切り傷が残る。それでも循は生きていた──環が命を懸けて自分を逃がしたからだ。

 ベッドサイドに置かれた水のカップを見つめながら循はぼんやりと彼の顔を思い出す。 無表情の裏に隠された優しさ、緊張感に満ちた場面でも冷静に対処する彼の姿は循にとって心の支えだった。 彼がいなければ今の自分は存在しないだろう。目覚める度、彼と共に作っていくはずの未来が浮かんでは消えていく。

 ──だが、何日経っても彼の姿は戻らなかった。

 監察局に捕らわれたのか、それともジェノエッジの実験材料にされてしまったのか。 考えたくはなかったが、循の心には不安が募るばかりだった。

 そんなある日、病室のドアが静かに開いた。 入り口に立っていたのは、冷ややかな微笑を浮かべる女性、フレデリーク・マリだった。彼女の長い黒髪の内側と同じ、鮮やかな青の双眸が循をじっと見つめる。


「元気そうで何よりだ」


 フレデリークは優雅な動作で椅子に腰を下ろし、ゆっくりと話しかけてきた。

 ベッドの傍に置かれたパイプ椅子は彼女の指示で運ばれたものだと聞いている。フレデリークはこうして循の見舞いに何度も訪れていた。

 ──そう、私はこの人の部下にあの惨劇の後に助けられたから。

 循にはあの襲撃の後の記憶が殆ど残っていない。環が命懸けで自分を逃がしてくれた記憶は朧げに残ってはいるのだが、気付いたら彼女に拾われていたというのが現状だ。一つのセクターを統括する代表が自分を知っていて、自分の功績を買ってくれていた……そして何より彼女はこうして自分の治療に手を貸してくれているのだ。

 現在、循はフェノム・システムズが抱える医療施設に入院している。勿論、出来過ぎた話だとは思ったが──今は頼る当てもなく、身の安全を保障してくれるというのであれば何だって掴まなければならない。


「……環の件、何か進捗は有りましたか?すみません。フレデリークさんにはただでさえお世話になっているのに」


 循は抑えた声で問いかける。

 循がこの施設で意識を取り戻した時、真っ先に口にしたのが環の名前であった。循が会話が出来るようになってからここでは早かった。

 フレデリーク自ら病室を訪れ、循は彼女に環を捜索するように要請した。そして彼女は部下を使い捜索に当たらせると快く了承した。

 循の胸には小さな期待が有った。自分がこれだけ良い待遇を受け、傷が完治した暁にはフェノムへ来るようにと言われているのだから……当然環のような優れた技術者も同様かそれ以上の待遇を受けることになるだろう。

 ──場所は違えど、再び共に同じ未来を視ることが出来るかもしれない。


「残念だけど。もう二度と会うことはないでしょう」


 今日はそれを伝えに来た。

 フレデリークの目が一瞬揺れたように見えたが、彼女は無表情でそう答えた。

 循は心臓が冷たく締め付けられる感覚がした。循が彼女の言葉が意味するものを理解するのに時間はかからなかった。

 そんな…… 嘘でしょ……?環は丈夫だからきっと何処かで……。

 循はシーツを握りしめ、震えた声でつぶやいた。


「彼は貴女のために命をかけた。彼はジェノエッジに捕らえられ、その命を落とした。残酷なことだ。 だが、それは貴女を守るためだった。貴女により価値があると思ったからそうしたのだろう。彼の死が無駄にならないようにしなさい」


 そういうところが本当にこの国の人間らしいな?

 フレデリークの声は抑揚がなく、彼女はまるで何でもない出来事のように語った。

 循は言葉を失った。 目の前が暗くなり、息が詰まる。 環が自分のために死んでしまった――それが現実なのだ。嘘だと言ってほしい。悪い冗談だと否定してほしい。

 然しながらフレデリークは言葉を否定する気配はない。


「どうして……どうしてそんなことに……」

「それがこの国だから。私達はいつも何かを失う。それが現実だろう」


 ──だが、その喪失を無駄にしてはいけない。生きる者が糧にすべきだ。

 循は震えながら視線を逸らした。フレデリークは立ち上がり、窓の外を見つめる。その横顔は冷たいものだった。いつでも無表情の人間には慣れていたと思っていたけれど、それとは比べ物にならない。まるで夜の海のようだ。眺めていると気が狂ってしまいそうになる。

 彼がいないこの世界に何の意味がある?私一人で何が出来る?

 循は目の前が真っ暗になるのを感じた。


――――――――――――――――――――


 それから数日が過ぎても循は病室のベッドからほとんど動かなかった。

 体は回復しつつあったが、心はすでに折れていた。 食事もまともに取らず、時間がただ過ぎ去るのを待っているだけの毎日。 リハビリは進まず職員達が訪れる度に循は無言で目を閉じた──環がいない。 彼はもう戻ってこない。

 その事実が循の意識を重く包み込み、あらゆる感情を奪い去っていく。 フレデリークの言葉が冷たく響き、彼女の心を更に深い闇へと引きずり込んでいた。

 循が無気力であることを施設の職員……もとい代表は許しているようだ。無理に循をリハビリに連れ出すこともせず、かと言って追い出すわけでもなく。三食用意し、定期的に採血を行い、職員から服薬介助を受けた。

 それがどのような薬かは分からないが、少なくとも最近は数が減った。考えることの出来ない頭で、考えることを失った生活で漠然と自分の生活の変化を眺めていた。

 ──そうしてある日、フレデリークが再び現れた。今度は微笑みではなく冷徹な顔をしていた。


「気分はどう?私は金も時間も惜しむつもりはないよ」


 今日だってこうして君に会いに来ているのだから。

 循は反応しなかった。 彼女の声が遠く響くように感じ、頭に入ってこない。


「環は死んだ。 だが、貴女には彼の死を無駄にしないための力がある。まだ出来ることがあるはずだ。……たった一人を救う為、活動していたわけではないのだろう?当初の目的を思い出すといい」


 フレデリークは静かに語り続けた。

 彼女の言う通りだ──自分は不審死で家族を喪った。不審死による悲劇から人々を解放する為にここまで来たはず。そして何より環はその人生において不意に現れた協力者に過ぎない……それでも自分を見捨てず、尽くしてくれたのは彼だけだった。

 循は目を閉じ、環の顔を思い出す。静かな声と強い決意。いつでも無表情で何を考えているか分からない──たった一人の親友。

 その瞬間。循の胸の中に何かが壊れた音が響いた。

 循の体に電気のような衝撃が走る。その刹那、彼女は何かが狂っていることに気づいた。視界がぐにゃりと曲がる。体内に何か異常なものが混ざり、自分の意識が歪んでいくようだ。全身を中から掻き回されるような不快感と痛み……それらを超えた先でまるで自分の肉体が自分の物ではないような錯覚に陥った。


「何……これ……」


 循は叫びながらも、声が擦れ、徐々に動きが取れなくなっていく。

 ──まだ出来ることがあると言っただろう?

 フレデリークは冷静に言い放ち、部屋を後にした。入れ替わるようにして職員達が部屋の中へ雪崩れ込んでくる……どうして私に武器を向けるの?

 循の体は徐々に異形へと変化していく。徐々に霞んでいく視界、薄れる意識の中で彼等の様子は朧げにしか確認出来ない。大声で叫んでいるのに彼等が何を言っているのかまるで理解が出来ない。こうして意識は闇に飲まれていった。

 最後の瞬間、循は親友の顔が頭の中に浮かんだ。

 ──それが、循が見た最後の景色だった。

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