第34話 茶筒
環とアキは互いに同じ方向を見ながら異なる物を見ていた。アキは如何にも面白くないといった様子で物のシルエットを。環は環で明後日の方向を見ている。
アキは最近流れてくる物が退屈な品物──何処にでも有り触れた物品、尚且つ何の異変も抱えていない物には心が動かなくなっている。そういった場合には一言二言環と何方が記録をするか会話し、作業として始末する。これには環も助かっているのだが、アキからすると退屈で仕方がない。
そうして彼等の気持ちを他所に目の前に流れてきたのは何の変哲もないシンプルな白い茶筒であった。飾り気の無いそれは一見すると何処の銘柄とも考えられず、安物の容器だけが運ばれてきたパターンかと開ける前から好奇心を損なわせる。
第一開けろという作業指示は来ていないのだからこのまま流しても問題は無いのかもしれない──言葉にせずとも意見が一致する両者。先にアキが茶筒を手に取る。その折に僅かに彼女の興味を刺激する要素があった。
「先輩これ重いですよ、ずっしり口きり一杯入ってます。まるで何処かの家の棚から取ってきたみたいですね。今は丁度御中元のシーズンでしょ。ああ、先輩の故郷にはそういう行事ありました?うちは有ったんですけど……」
環はアキの言葉を最初ほどしか理解出来なかった。
御中元とやらは親友から聞かされていた上、以前の職場にも夏場になると控室にいくつか届いていた記憶がある。シーズンになると社員にそれを分配することもあった。それは問題ではない。
環の隣でアキが茶筒を開けたのだ。茶筒を本体の蓋を開けた時から仄かに漂う香りで嫌な予感はしたものの、彼女がプラスチック製の内蓋を開けた際にその予感は現実となる。
「悪いが、早急に片付けてくれないか」
自分が口を開かなければやれこの匂いは高級品じゃないかと矢継ぎ早に話していたであろうアキを黙らせてしまった。アキはショックを受けているというよりかは環らしくない動揺っぷりに疑問を感じているといった様子である。
匂いの所為で彼女の言葉が頭に入ってこなくなった。これは一種の錯乱状態だ。
アキの手元にある茶筒の中身、その匂いは環にとって馴染み深い物であった。茶褐色の茶葉に混じって際立つヤグルマギクの青い花弁。紅茶のシャンパンとも表現される華やかなアールグレイは環の意識を一瞬にして過去へと引き戻した。
これは思い出という綺麗な響きでは片付けることが出来ない。自分の傷に爪を立てるような、痛みの引き金を引いてしまうような代物。
先日の夢が香りを伴って現れたような悪夢──ここにはアキと自分の二人しかいないというのに。あの女の影が匂いだけでちらつくのだから相当だ。目を閉じれば自分が椅子に縛られるようにして腰かけ、目の前にフレデリークがいて……二人きりで他愛のない会話をしながらこの茶を啜る。あの女とはもう会っていないというのに。限定的とはいえこの香りを嗅ぐ度に思い出してしまう。
環は手で払い除ける仕草をしながらアキから視線を逸らす。
「これで匂いはマシになりましたか。先輩、紅茶苦手なんですか?」
「とても」
環の要請に応じてアキは茶筒の蓋を締めてやる。その気になればこの部屋には自分が持ち込んだ電気ケトルがあるのだからそれでお茶にしてもよかったのだが、環はすっかり怯えている様子だ。彼を追い詰めてまですることでもないだろう。「お茶」ぐらいなら普段の白湯でも出来る……アキはどうにも落ち着かない環を横目に茶筒をベルトコンベヤに置くと一人で自席に戻っていった。その間にいくつか環に問いを投げかけるも放心状態に近い、落ち込んだような様子であった。
「匂いがキツいってことですか。私も昔、他でバイトしていた時に休憩室の中に充満しているコーヒーの匂いが苦手だったりしたんですけど。家族が家で淹れるものや店でやってる試飲の香りなんかは全然平気だったんですよね」
「そうなのか」
「紅茶は出してるところ見たことないんで怖がらなくて大丈夫だと思いますよ」
匂いはマシになった。紅茶は苦手。
普段から口数は少ない方の環だが、今回は特に投げやりな返答である。
アキが何処まで考えているのか不明だが、話題を変えようとしてくれているのだろう……今はそう思いたい。普段であれば軽く流してしまうような日常会話ではあるが、今回はあえてその話題に乗ることにした。
特定の匂いに苦手意識を持つことについては同意見で、自分はそもそも嗜好品の試飲をやっている店を見たことがない──親友が何度か駅や商業施設の中に他区からの輸入品を売る店の店頭でコーヒーの試飲をやっていると言っていた覚えがあるのだが、アキの口からも聞くとなればそこそこ大規模なチェーン店なのかもしれない。「店の前を通るといい匂いがする」と言っていた記憶が有るし、彼女はそこの豆を買って何度か職場に持ってきた。
生憎自分は飲み物に拘らないタチだ──嗜好品自体は故郷にも存在したし、それを嗜む者もいた。当然各々に好みや拘りがある。然しながら環の場合は飲食物にそれほど拘りが無かった。強いて言えば「どうでもいい」の中に何個か「嫌い」があるだけ。環は自らが退屈な人間だと自負している。
「場所と結びつくのかもしれないですね。通勤中に好きな音楽を聴いているとその曲の事をかえって嫌いになるなんて話もあるんですよ。あとは好きな事を仕事にすると元々趣味だったのに仕事以外でやりたくないってぐらい嫌いになるなんて話もね。自分の好きなこと以外でモチベーションを上げるってのも至難の業ですけども」
「言われて見ればそうだな。他の物はそこまでじゃない」
「でしょう。嫌いな事物の『象徴』になる物があると良くないんでしょうね」
環は今回、シール係に回ることにした。
記録は恐らく今正にキーボードを叩くアキがやっているのだろうし……今の状態ではまともな記録が出来る自信が無かった。そもそもアレを口にしたり、匂いを嗅ぐことが無かったとしてもその状態を文字に起こすだけで精神的に来るだろう。今回はアキの気遣いとして素直に受け取るべきだと環は一人頷く。
彼女の言う事はごもっともだ。器用に文字を打ちながらこちらと会話を続けるアキ──こいつは時折的を射たことを言う。「悪用すればこれから別れる恋人相手に致命傷を負わせられそうですよね」という悪趣味な余談も含めて。
フレデリークは断じて自分の恋人ではない、もっともそのような関係になった覚えも無ければそれらしい行いもしたことはない……と考えているが、向こうが何を考えているか分からない。アキの言葉に環は少し背筋が寒くなった。
「思ったんですけど。先輩が嫌いな紅茶がピンポイントで出てくるってのはどういう事なんでしょうね。先輩って運無さそうだから単にその延長線上ってことですかね」
超天文学的な確率、それとも誰かの悪意?
アキは他人事のように呟くとベルトコンベヤの前に立ち尽くしている環にシールを貼るように指示を出した。記録終了だ。いつもと比べて手早く終わっているあたり恐らくはこちらへの配慮なのだろうが、アキの言葉は一々棘がある。傷付けるつもりはなさそうだが、どうにも当たりがきつい時がある。
環は深く溜息をついた後、茶筒に貼る為のシールの束を抜き取ろうと制服のポケットに手を伸ばす。自分の腕にびっしりと鳥肌が立っていることに気付く。
どうやら自分が考えている以上に相当追い詰められているらしい。
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