第19話 話としての箸休め
アキが目を覚ますとそこは職場であった。
アキは見慣れた白い床に蹲るような姿勢のまま目を固く瞑っていた。瞼が
このような感覚は二度目だ。瞼は重いが身体は何処も痛くないし、不快感も無い。例えるならば眠気の残る出勤前の時間のようだ。それほど穏やかで変哲の無い目覚め──自分の傍で先輩が倒れていることを除けば。
「先輩、大丈夫ですか?」
ぼやけた視界の端には白い床に映える黒髪──さらさらとした癖のない髪がだらしなく床の上で散らばっている。
アキの隣で環がうつ伏せに倒れていた。とはいえ環の体勢はアキに足を向けていて、アキからは数メートル離れている。ベルトコンベヤに向けて前のめりになるような体勢だ。微かに呼吸が聞こえてきた。
アキはゆっくりと上体を起こすと静かに立ち上がり、環の傍にしゃがみこむ。
「……平気だ。死ぬのは前任者ぶりだな」
「私達さっき死んだんですか?」
「多分な。死ぬタイミングとしてはお前が先だったんだろう。だからお前の方が俺より目覚めるのが早かった。モノは無いんだな」
「私が目覚めた時にはありませんでしたよ」
環は思いの外、復帰が早かった。
アキが環の肩に手を掛け、数度揺すってみると小さく呻く。早朝に無理やり起こされた時のようなその程度の気怠さで揺する側も揺すられる側も緊張感が無い。環は弱々しく左腕を上げると自分を揺すり続けるアキの手を控えめに払い、そうして漸く床に両腕を付いてうつ伏せの姿勢から起き上がる。
然しながらまだ立ち上がって席に戻ったり、ベルトコンベヤの前で立っていられるほどのコンディションでもないのか座ったままアキに応対した。
目覚めたばかりの頭は冴えない──アキの質問は単純だ。自分達は先ほど流れてきた「何か」に殺害された。普段であれば死んでいようが、殺した物の姿形は覚えているものなのだが……今回ばかりはすっぽりと記憶がその存在の形で切り抜かれている。
二人で死亡している間に記憶操作が行われた可能性も無きにしも非ず──然しながら自分が知っている記憶操作と言えば一定期間に行われた記憶を消去するというものである。環はしっかりと自分が死ぬ間際の事を覚えていた。
半狂乱、或いは発狂……普段の自分ではあり得ないような高揚感に囚われ、思ってもみない言葉を口走っていた記憶が確かにあるのだ。そうして自分は何かを仰ぎ、ベルトコンベヤに吸い寄せられるようにして手を伸ばしていたはずだ。
「死ぬ前の事を覚えているか?」
「いえ、全然。先輩はどうなんですか?」
「それが不可解でな。気が狂ったのは覚えているんだが、原因のモノだけが思い出せない。凄まじい高揚感だったな。薬物中毒者を思い出す」
「うわあ……先輩でその状態なら、私も相当やばかったんじゃないですか?」
環には生前の記憶について一つ覚えがある──自分の場合はいくらかここに並ぶ物に耐性が有るのだ。傷付き倒れることもあれば、気が狂うこともある。然しながら常人であれば一瞬で命を奪われるような事態であっても自分は都度生き残ってきた。或いは死ぬまでが遅かった。身体的に頑丈ではあると自負している上、大した絡繰りではないがその理由も当然握っている。こればかりは他人に教えることでどうにかなる問題ではない。
話は記憶の話に遡る──身体の耐性とは別に記憶の有無には個人差があった。前任者は身体こそ弱いものの自分同様、生命活動が途切れる直前までの記憶を持っていた。然しながらアキはそうではなかった。ある意味で耐性が無いというべきか。ペアで仕事をしているのだから自分が覚えていてやればいいことなのだが。
あれこれと生前の記憶について考える環の隣で、アキは彼の言動に引いていた。……彼からすれば日常茶飯事なのかもしれないが、自分より頑丈な人間が狂ってしまうような事態に自分が無事だったとは到底思えなかったのだ。
環の性格を考えればこちらがどうなっていたかと尋ねれば躊躇いなく答えることは想像に容易いのだが──現状、何らかの錯乱状態に陥った自分の姿を見たであろう環がこちらへの対応を変えない以上は黙っているのが賢明かもしれない。
二人の人間が死亡するというそれなりに衝撃的な事が起きているというのに……トイレを出た後にスカートが捲れた状態で教室に戻ってきた時のような感覚で考え居てるあたり、自分も環に負けず劣らず麻痺してきている。
「そんなことはどうでもいい」
「私はどうでも良くないんですけど」
「問題は何も覚えていないことだ。記憶があるのに姿が思い出せない」
「透明だったのかもしれませんよ」
アキと環の間には時折こうした微妙な感覚のずれがある。
恐らく環が醜態を晒し、自分がそれを揶揄ったとて彼は動じないのだろう。環はアキの様子についての質問には素っ気ない返答をするものの、透明だったのではという指摘には首を傾げている。無関心なトピックには悉く無関心なのは相変わらずのようだ。
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