「過去からの呼び声」
ガラス張りの窓に添うようにして誰かが立っている。天井から床まで全てがガラスだ。窓の向こうでは夜景が見えるが、このフロアがいくらか高い階層に位置しているのであろう。この部屋からは地上の光を見下ろす形に近い。
黒髪に青い瞳。腰までを覆い隠すほどに長く癖のない黒髪は照明を反射し、時折光っているようにも見える。黒髪の内側は鮮やかな原色の青――俗に言うインナーカラーというものだろうか。ここまで綺麗に染毛出来るものなのだろうかか。色の境界に視線が吸い込まれそうになる。襟足は耳を隠すほど長いのだが、それでも髪の隙間から垣間見える金属……耳の面積を侵食するようにピアスが複数嵌め込まれている。
貴金属だ。この人物はアクセサリーの類をよく好んでいるのだろうか。今まさにポケットから取り出した右手にも指輪が複数嵌っている。デザインは控えめながら、薬指を除いていくつかの指に。
爪にはインナーカラーと同じ青のマニキュアが艶々と映えている。ラインストーンのようなネイルパーツの類は無し。ネイルとしてはいくらかシンプルなデザインだ。
相手は女性だから、服はスーツと呼称すべきだろうか。形としては所々刺繡のような意匠が施された背広のようだ。その上からロングコート。裾の一部に服と同じ刺繡がされている。
「環、環と言ったか。実の名前では無いんだったな。その名前を与えてくれたご友人は君の未来をよく案じていたのだろうね。変わらず自分のしたいことが出来るようにかな。或いは躓いても始まりに戻ってこれるように、だろうかね?」
一区にはそういう路線の列車があるのだよ、乗ったことはある?
青年は押し黙っていた。これが冗談の類であることは理解出来るのだが、相手と自分の関係性を考えれば些か悪趣味だ。気の利いた返答も出来ないし、皮肉で返せたところでそんな度胸も無かった。
「私の部下にな。家に帰る時間を惜しんで次の“出勤時間”までその列車に乗っているやつがいたんだ。同じ所を回っているだけだからな。出勤時間の数十分前になると最寄りに下りてまた顔を出すという。いつも何処か遠くへ行きたいと言っていた」
「それは……何処かへ行ったとはとても言えないのでは」
「そうだな、降りてすらいないから。でも私は案外人生なんてものはそんなものだと思うよ。旅行番組を見て、行った気になって、何も経験せずに死ぬ」
「はあ」
「冗談だ。ウロボロスのことを考えたまえ。始まりも終わりも無い完全なものだよ。色々とめでたい意味があるんだろう」
青年は漠然と自分に名前を与えた人間の事を思い出していた。これもまた女性だ。距離感が近く、大雑把でこのようにずけずけと踏み入るような物言いをする人物ではあったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。喧嘩っ早く取っつきにくい人間性であったように思う。いつも誰かの為に怒ってくれるような人間だった。
嫌いな人間から与えられた名前なんて名乗らない。
女はくつくつと笑っている。青年の名前の話だろう――輪の形。めぐって端のないこと。意味こそ教わっていたが、青年は特に違和感もなく受け入れた。特別縁起の悪い名前だとも思わなかったし、親しい人間からの贈り物であったから。
深い意味を考えるまでもなくただ抱えているだけでよかった。今日まで自分の一部のように扱ってきたものが、こうして他人に貶されるのは気分が悪い。もっともこの人間は貶しているつもりなど無いのかもしれないが。
「今日、君を呼んだのはそのご友人とコンタクトをとることが出来たからでね。君も話したくて堪らないだろう」
女が青年の方に視線を向け、目を見開いて笑った。この女にはたちまち身体を石化させてしまうような力がある。青年の身体は強張り、まるで蛇に睨まれたように体をぴくりとも動かせなかった。
迫力もさることながら、話の内容に理解が追い付かなかった。青年の友人は長らく音信不通であった彼女は自分がこの地に来てから一時期世話になった人間だった。同じ場所で研究をした。それだけではない。青年にこの国の常識を教えて、街へ連れ出し、彼女以外の友人を作った。青年にとっての第二の故郷を作ったような人である。
別れることなど考えてもいなかったが、国は彼等を放っておかなかった。
望めば友人と共に生きることも出来たろうに、彼女は彼女の信念の元に権力に攫われる前に青年の前から姿を消してしまった……というのが彼にとっての友人の最後である。決して円満な離別ではなかったと青年は考えている。
然しながらもし友人が無事で生きているなら必ず自分に連絡を寄越すだろうという確信めいた気持ちがあった――わざわざ企業の重役を通して連絡をするようなことがあるだろうか?同じ所属になったというのであれば、嫌でも自分の耳に情報は入っていたはずだ。自分の知らない間にそれほど出世したというのであれば尚更。
青年の中で嫌な予感が沸々と沸き立ってくる。
「傍に居るからね、すぐに会わせてあげよう。きっとご友人も君に会いたがっていることだろう」
「彼女は無事なのか」
「無事とは言えるんじゃないか?お陰様で様々な業務フローを改善することが出来たよ。ついておいで」
女は青年の横を通り過ぎ、先に部屋の入口まで歩いて行った。大理石の床を踏みしめる革靴の乾いた音が無音の室内に木霊する。女は先に部屋を出て行ってしまった。
青年は一人取り残された部屋で得体の知れない不安に苛まれていた。
擦れ違った際の香りがまだ残っている。レザーノート。動物的な匂いではない。皮を加工する際の有機溶剤やシンナーなどの化合物が混ざり合った匂い。
青年は初対面の時から、この女の香水が嫌いだった。
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