第10話 七色の翅
「これって例の虫ですよね」
「例の虫だな」
環とアキはベルトコンベアに乗って運ばれてきたトレーを見下ろした後、二人で顔を見合わせた。二人はトレーの上に乗った虫のことをよく知っていた。
戦争をしていようが、異常気象が頻発しようが。この虫は何処の区でも幅を利かせている。もしかしたら人間が絶滅しても生きているかもしれない……そう思えるような虫である。
見るからにゴキブリだ。然し二人がその名前を呼ばなかったのは単に不快だからといった理由ではない。理由はその色にあった。
それにしては小型な……近いもので言えば小さく細長い身体はツヤツヤと照明を反射して七色に輝いている。両者何方も手に取る勇気は持てなかった。トレーに触れると事すらも躊躇ったのは実はまだ息があり、此方に向かって飛んでくるかもしれないという懸念があったからだ。
然し手に取ってあらゆる角度から照明に透かしてみたら綺麗だろうと考えたのは同じなのか、二人は位置を譲り合いながら虫の周りを歩いて反射の具合を見下ろした。
「お前、虫は大丈夫な方なのか」
「地元が自然の多い地域でしたし。窓を開けると大小さまざまな虫が飛んでくるんですよ。夜のコンビニなんか凄いんですから」
「ただこれに関しては虫が好きでもダメな人間は多いと聞く」
「ああ、私の地元でもダメな人はダメですね。私はスーパーでバイトしていた時に出勤する度見ていたので一々騒ぐわけにもいられなくなっちゃいました」
アキの言葉に環は言葉を詰まらせる。虫を見て取り乱すほど苦手というわけではないが、生活の一部として受け入れられるほど環は虫という存在を受容出来ていない。
これは環だけでなくこの国で生活する大半の人間がそうであろうが……アキの地元というのは如何程のものなのか。想像するだけで身体が震えていた。
環の心境を余所にアキは虫の話題を続ける。アキは17歳にしていくつもアルバイトを転々としてきた身だ……人間関係に馴染めないだとか、飽きたとかそんなろくでもない理由でこの年で職を転々としている。決して褒められた話ではないが、同年代の中では経験豊富な方だと自負している。少なくとも仕事に関しては。
「スーパーの何処に出るんだこんな虫。厨房か」
「倉庫と厨房です。厨房で皿を洗ってると天井から落ちて来たりします。悪いとおかずを作る機械の中から飛んで来たりします」
「最悪だな。……対処法は?」
「食器洗剤をかけると死にます」
環は以前世話になっていた人間から飲食店のキッチンで働いていた際のことを聞かされたことがある。厨房が汚く、一度キッチンで働いたらとても外食をしようという気は起きない……といったありきたりな体験談ではあったが。食品をメインで扱う場所以外でもこうして被害報告が挙がることを考えるとどうにも逃げ場が無いようだ。
とはいえ現場で虫と対峙した人間が落ち着いているのはその人物もアキも変わらない。
環はほんの好奇心から対処法を聞いたことで、更に深く後悔することになる。
アキ曰く彼女が働いていたスーパーの厨房の床はタイルやコンクリートで出来ていたようであり、ホースによる放水で掃除が楽に行える環境であったという。虫が湧いた際には業務用の洗剤を虫に噴射し、動かなくなったら片付けるのだとアキは淡々と語った。生きている間は目を背けているのだろうか。
この仕事で目にしている物の方が余程醜く、悍ましいだろうに──淡々と虫を処理出来る一般人も、虫の湧く職場も。環を怯えさせるには十分な話であった。
「でも不思議とこういうカラフルな色だと恐怖心は湧かないんですよね。捕まえられることはあっても、殺そうって発想にもならないと思うんです」
「確かに」
「昔、教科書で青いゴキブリを見ましたけど。発見当時はテレビのニュースにもなったって話ですよ。これもその仲間なんですかね……でも新種だったら青より大騒ぎされるでしょうからやっぱり宇宙人絡みの虫なんでしょうかね?」
同じ存在でも配色次第で印象が変わる──というのは人間のパーソナルカラーだとかそういった話にも言える事だが、虫でこれを実感するとは思わなかった。
環はアキの言葉に頷く。僅かな恐怖心こそ抱けど、さっさとこれを隣の部屋に流してしまおうと思わないだけの興味をこの虫に対し抱いている自分がいるからだ。
「敵性兵器の影響って虫も受けるんですかねえ」
「かもしれないな」
「放射線の影響で巨大カマキリが出たって噂も大昔に有りましたけど、有耶無耶にされてそれっきりらしいですし。これもそういうものっぽいですよね」
「ああ」
アキの言う青い害虫のことは知らなかったが、珍しいものであれば何処かの研究機関で標本にでもなっているだろうということは容易に想像出来る。七色ともなれば彼女の言う通り、自分のような者の耳に入る程度にも大々的に報道されたであろう。
この虫の事は何も分からない。個人や組織に関わらず、ただ誰が捕獲したとして新種として報告した方が圧倒的な利益を産むことは確かである。
そうなっていない以上は何かしら訳ありなのだと結論付けた。アキもまたそれ以上特に何かを指摘することもなかった。
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