リビングにて。

 座っている一人掛け用のソファーの柔らかさに少し冷静さを取り戻していた俺は、両手の指を絡ませて試合前のボクサーの様に俯いていた。

 俺の前にはゴトウさん。

 ゴトウさんはさっきから俺が話し出すのを不安な顔を浮かべて待っている。

 話がある、とゴトウさんに言ったものの、何て話していいか分からずに頭を捻っていた俺だが、お気に入りのソファーの座り心地の良さのお陰で落ち着いてゴトウさんに何を話すべきか考えることが出来た。

 俺は顔を上げて静かに口を開いた。

「甲斐のことは諦めろ」

 俺の言葉にゴトウさんは大きく目を見開く。

 その後、ゴトウさんは何度か瞬きを繰り返す。

「な、何でですか?」

 やっと、という感じでゴトウさんが話した。

「何でも何も無い。あんなとんでもないやつのことが好きだとか、あんたどうかしてる」

「は? 何ですか、それ?」

「あいつはケダモノだ。あんなやつよりも他にマシな男がいるだろう。何なら俺があんた好みの男を見つけてやるからそいつのことを好きになれよ」

 そうだ。

 カルナバルの客でも斡旋してやればいい。

 そう思った。

 甲斐のやつに比べたらカルナバルの客の方が数億倍マシに思えた。

「どうして急にそんなこと言うんです? 昨日、甲斐さんと何かあったんですか?」とゴトウさん。

「何かって……」

 俺は言葉を詰まらせた。

 まさか甲斐にキスされた、何てゴトウさんには言えない。

 言いたくも無い。

 俺の中で昨日の甲斐との出来事は記憶から抹消したいほど最悪な出来事だ。

 キスなんてご無沙汰だったのに、何で男と……甲斐何かとキスせねばならなかったのか。

 全くの不意打ち。

 すました風を装って、あの男、とんだケダモノだ。

「片葉君、どうしたんです? だんまりしちゃって」

 ゴトウさんは俺をまるで不審者を見る様な目で見ている。

 俺は一つ咳払いをすると、「どうもしない。兎に角あいつのことは諦めろ。あの男、ろくでもないぜ」と真顔で言った。

 ゴトウさんは首を傾げた。

「何なんです。それ? 片葉君に何でそんなことが分かるんですか? 甲斐さんと何があったんですか?」

「断じて何も無い! 俺の第六感がそう告げているんだ! 良いから甲斐のことは忘れろ! 今すぐに!」

「そんな……無理です。諦めるなんて……そんなこと……だって甲斐さんのこと、まだ何も知らないのに、片葉君の第六感なんか信じて諦めること何かできる訳ないじゃないですか! 死んでも好きな相手ですよ!」

「そう言ったって……そうだ。あんた、死んでるんだ。死んでるってのに生きてる人間相手にどうするんだよ。死んでちゃ、何にも出来ないんだぞ! 虚しいだけじゃ無いか!」

「そんなこと、分かってますよ!」

 まるで悲鳴の様なゴトウさんの叫びに俺は口を閉じた。

 俺は静かにゴトウさんの顔を見る。

 ゴトウさんは涙目だった。

「甲斐さんのことが知りたいんです。それで、僕って言う人間が甲斐さんを思っていたことを知って欲しい……甲斐さんに死んだ僕のことを好きになって欲しいとか思って無いです。ただ、甲斐さんを知りたくて、気持ちを伝えたくて、それだけなんです。片葉君が何で甲斐さんを諦めろだなんて言い出したのか、昨日甲斐さんと何があったのか、言いたくないならそれで良いです。でも、約束……守って下さい。僕にとって一生の約束なんです。お願いします。諦めろだなんて言わないで、僕に力を貸して下さい」

 そう言った後、ゴトウさんは床にしゃがみ込んだ。

 いきなりどうした、と俺が思った瞬間にはゴトウさんは床に身を伏せて土下座をしていた。

「この通りです。お願い……します」

 消え入りそうな声でゴトウさんは言う。

 俺は慌てた。

「ちょっ、土下座何て止めろよ! 何考えてんだよ、あんた!」

「甲斐さんのことだけ考えてます」

 土下座したままゴトウさんは言う。

「そ、そんなにあいつが好きかよ? 何にも分からない相手に何だってそこまで……」

「そんなの僕にも分かりません。一目惚れですから」

 一目惚れ。

 そんなのある訳ない。

 有り得ない。

 そう思うのに、それをゴトウさんに言えない。

 何で、あんなやつの為に土下座なんか……。

 ゴトウさんを見つめながらぼんやりと思い出す。

 甲斐。

 俺はあいつの土下座が見たくてゴトウさんの恋愛に協力することを決めた。

 俺は、はっとする。

 そうだ。

 甲斐。

 あいつの土下座姿を必ず見てやると決めたんだ。

 あの変態野郎が俺の前にひれ伏して謝る所が見たい。

 みっともなく俺にひれ伏している甲斐の姿を想像する。

 それは何とも気持ちが良かった。

 あいつの土下座を見ればあのキスのことだって帳消しに出来る気がした。

「分かったよ」

 俺の台詞にゴトウさんの体がピクリと動く。

「あんたが満足いくまで付き合うから。だから顔を上げてくれ」

 俺が見たいのはこんな幽霊の土下座じゃ無くて、あのケダモノの土下座だ。

 ゴトウさんが顔を上げて俺を上目遣いに見る。

「本当……ですか?」

 ひっそりとしたゴトウさんの問いに俺は静かに頷いた。

 俺を見るゴトウさんの目がキラキラと輝きだした。

「うわぁ! ありがとうございます!」

 ゴトウさんはすっくと立ちあがり、あろうことか俺に抱き付いた。

 げげっ! と思ったその瞬間。

 不思議なことが起った。

 それを俺は上手く説明できない。

 何て言うか、自分の体が自分の物じゃあないみたいな感覚が訪れたのだ。

「あれ?」

 そう声を出したのは俺の口だが俺じゃあない。

「なんか変だ」

 俺の声でそう言ったのも俺じゃない。

 俺は自分の手を見ている。

 でも、その俺も俺じゃ無くて。

 俺であるが俺じゃないものは走り出した。

 俺の感覚がそいつについて行く。

 俺の体は真っすぐに洗面所に向かい、そして鏡の前に立った。

「何か……僕、片葉君の体に入ってる? ていうか僕が片葉君?」

 そういうお前は……もしや。

「ゴトウさんか?」

 俺は試しに声を出してみた。

 その声は外へは響かなかったが俺の体を乗っ取っているであろうそいつには聞こえたみたいだ。

「片葉君?」

 俺の口が俺の名前を言う。

「やっぱりゴトウさんか! おい、俺の体、どうなってるんだよ! 何でゴトウさんが俺の体に!」

「うわっ、大声出さないで下さい。頭の中に片葉君の声がガンガン響きます」

 ゴトウさんは俺の体を使って頭を押さえる。

 ゴトウさんが押さえているのは俺の頭であって俺がそうしている訳じゃあ無くて……何なんだ、これ。

「どうなってるんでしょう?」

 俺の声でゴトウさんが言う。

「知るか! こっちが聞きたいわ!」

 叫ぶ俺。

「だから、騒がないで下さいよ。片葉君の声が頭に響いてうるさくてうるさくて」

 ゴトウさんか俺で俺は俺で。

 本当に何が何だか。

 例えるなら意識だけが此処にある様な?

 ああ、訳が分からない。

 項垂れたくても俺には項垂れる体が無いのであった。





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