四
いつまでこうしていたのか分からなくなって来た頃。
俺は何とか甲斐から逃れることに成功した。
俺の髪も服も甲斐から離れる為に大奮闘で動いたせいで滅茶苦茶になっていた。
決め技から抜け出すプロレスラーを本当にリスペクト出来た。
俺が離れた瞬間に甲斐の額がゴツリと硬い玄関扉にぶつかる。
痛そうな音を立てたにも関わらずに甲斐はまだ目を覚まさず、また座り込んでしまった。
「やっ、やってられるか!」
俺は身をひるがえして自分の部屋へと引き返した。
そんな俺をウキウキとしたゴトウさんが待っていた。
「お帰りなさい」
陽気に言うゴトウさんを無視して俺は乱暴に靴を脱ぎ、部屋の中に上がる。
俺の後をゴトウさんが付いて来る。
「片葉君、どうしたんですか? 何か髪とか服とか凄い乱れてる」
「知るか!」
「あの、片葉君。甲斐さんは?」
甲斐の名前を口にした時の弾んだゴトウさんの声にイラッと来た。
「知るか!」
そう叫んで寝室の扉を開いた。
「か、片葉君、何怒ってるんです?」
訳が分からない、という風なゴトウさんに向かって俺は言う。
「あいつの話は今はしたく無い!」と。
「な、何で?」
呆気に取られているゴトウさんに背を向けた。
「俺、今から寝るから! 部屋には入って来るな! 一人にしてくれ!」
言い切るとそのまま扉を閉めた。
ゴトウさんが俺の背中の後ろでどんな顔をしているのかは知らない。
シンッと静まっている部屋の中。
俺は最速で歩いてベッドにダイブした。
布団の中は冷えていてい心地悪いことこの上ない。
寒さに震えながら、俺は自分の唇に指先で触れた。
まだ、甲斐の唇の感触が残っている。
俺は唇から指を離すと布団を頭まで被った。
忘れよう。
そう思った。
甲斐とのキスのことは全部記憶の彼方に葬るんだ。
そう決めて、強く目を閉じると眠りが訪れるのを待った。
しかし、いくら時間が経っても眠りに付けなかった。
甲斐とのキスの記憶を時々思い出しながら、慌ててそれを打ち消して……。
そうしているうちに眠れない夜が明けた。
寝不足のせいもあって非常に機嫌悪いまま、俺は寝室から出た。
「片葉君」
ゴトウさんが天上でゆらゆらと揺れている。
その顔は心配げだった。
そう言えばゴトウさんは寝室には言われた通りに入って来なかったな、何て思う。
「あの、お早うございます」
遠了がちに掛けられた言葉を俺は無視した。
「片葉君、あのっ……」
無視されてもめげずに俺に話し掛けるゴトウさんに俺は「洗面所、行って来るから。ついて来るなよ」と言って言葉通りに洗面所に向かった。
洗面台に向かって見た鏡に映る自分の姿は最悪だった。
目の下には薄っすらとクマが出来て髪の毛はグチャグチャで、機嫌の悪い顔をしていて、しかも疲れている。
「くそっ!」
苛立ったまま、水道の蛇口を捻ると冷たい水が勢いよく蛇口から出た。
俺は流れる水を両手で受け止める。
あっという間に手の中に水が溜る。
その水を唇にかけて唇を拭う。
それを何度も繰り返した。
甲斐とのキスを忘れたくてそうした。
あのキスの感覚を消したくて。
でも、苛立ちが勢いを増すばかりでちっともキスの感覚は消えなかった。
気が付けば洗面台は水でビショビショで鏡まで水で濡れていた。
「あーっ、くそっ!」
水道の蛇口を力いっぱいに捻るとタオル掛けから真白なタオルを引き離して顔を思いっきり力を込めて拭く。
濡れたタオルは思い切り洗濯機の中にぶち込んだ。
俺は吐き出せるだけのため息を付く。
あんなに一生懸命唇を拭っても全然スッキリしなかった。
全然忘れられない。
あいつ。
甲斐。
一体全体どんなやつだよ。
もう一度ため息を出すと俺はやっと洗面所から出た。
ゴトウさんが廊下にいた。
ゴトウさんが俺が出て来るのを、ここで、ずっと待っていたことは明白だ。
「片葉君、あっ……あの。どうした……」
「ゴトウさん」
ゴトウさんの話を遮り俺は口を開いた。
「な、何ですか?」
頼りないゴトウさんの声。
「真面目な話がある。聞いてくれ」
そういう俺をゴトウさんは息を呑み見つめる。
「大事な話だ」
俺が真顔で言うとゴトウさんは深く頷いて見せた。
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