十三

 この後、俺達は何事も無かったかの様に、しかし、特に話す事も無く黙ってコーヒーを飲み、クロワッサンを食べた。

 甲斐は俺にコーヒーのお代わりを勧めたが、俺はそれを断り、甲斐の部屋を出た。

 外は晴れていて、雲一つ無い。

 俺は、直ぐに自分の部屋の玄関の前に向かうと、拳を握り絞めてそこに立つ。

 甲斐、こうなったら、やつの土下座を必ず拝んでやる。

 燃え上がる気持ちを抑えきれず、勢いよく玄関扉を開けた。

 扉を開けると一気にどんよりとした空気が辺り一面に漂い出す。

 ゾクゾクとした寒気が俺の体を襲う。

 俺は舌打ちをすると靴を脱ぎ、荷物を床に置いて、わざと音を立てて廊下を進み、リビングへと向かった。

 リビングの扉を開けると、「しくしく」と湿っぽい泣き声が聞こえる。

 その泣き声は途絶えることなく続く。

 リビングは、まだ引っ越しの片づけが終わっていない為、いまだに段ボールで溢れている。

 他の部屋の片付けも同様に済んでいない。

 本来ならばすでに片付いているはずであったが、しかし、ゴトウさんのせいで片付けなんかできる様な状況では無かったのだ。

 まとわりつくようなしくしくと響く泣き声に耳を塞ぎたくなるのを我慢して、俺は声を出した。

「おい、出て来いよ、ゴトウさん!」

 と、言ってみても、ゴトウさんは姿を見せない。

 しくしくと泣き声がどこからともなく聞こえてくるだけだ。

 毎日この調子だ。

 ゴトウさんとの約束を守らなかった俺に対してゴトウさんがしたことは、毎日、一日中、この部屋で泣いていることだった。

 部屋の中でずっと男の泣き声を聞かされる羽目になった俺は、泣き声のせいで夜もろくに眠れず、日中も部屋でゆっくりすることが出来ず、心身共に参っていたのだった。

 されていることと言えばただ泣き声を聞かされているだけなのだが、しかし、地味なことだが正直辛い。

 帰ればゴトウさんの泣き声を聞かされると思ったら部屋に帰る気にもなれず、つい花凛を頼り、バー・カルナバルで失態を演じ、隣人甲斐の世話になってしまった。

 引っ越ししたばかりで金も無いので部屋を引き払って別の部屋に、何てことも出来ない。

 全く、地獄だ。

 泣きたいのはこっちと言うものだ。


「ゴトウさん、姿を見せろよ」

 リビングの中を見回してそう言ってみる。

 しかし、やっぱりゴトウさんの姿は無い。

 だが、姿は見えずとも泣き声は聞こえているからここにいるのは確実だ。

「おい、いるんだろ。話がある。出て来いよ!」

 大声を張り上げて言ってみるとゴトウさんの泣き声がより一層大きくなった。

 ちくしょう。

 うざいぜ。

 部屋から出て行きたくなるのを我慢して俺はなおも、姿を見せない幽霊に話しかけた。

「あんたにとって悪くない話だ。出て来いって!」

 頼むから出て来てくれ。

 こちとらいい加減、叫び疲れた。

 俺は天を仰ぎ、一人掛け用のソファーに、ドサリと音を立てて腰を下ろした。

 そして、俺は、はて? と思う。

 泣き声が止んでいる。

「悪くない話って何ですか?」

 急に耳元で声がして、ソファーを飛びのいた。

 俺が座っていたソファーの横に、ゴトウさんの姿があった。

 相変わらず透けている。

 ゴトウさんの目は涙に濡れていた。

「話しって何ですか」

 眼鏡をずらし、目をこすりながらゴトウさんは言う。

 ゴトウさんの目からは次から次へと涙が溢れて出ている。

「いや、話したいけど、あんた泣き止めよ。あんたがそれじゃ、話もできねーよ」

「ううっ、だって、自然と涙が出てくるんですよ。君が約束を破ったせいで、僕の心は滅茶苦茶です。君は泣き止めと言うけれど、もう、泣く以外に何も無いじゃないですか」

 そう言ってゴトウさんは鼻を啜った。

 ああ、男が約束を破られたくらいでメソメソと。

 イラつくことこの上ない。

 だが、今は我慢だ。

 ここでイラついては折角姿を現したゴトウさんを逃してしまう。

 イラつくのは話が済んだ後だ。

「その約束のことで話があるんだよ。だから泣き止めよ」

「そんな、言われて泣き止めるくらいなら初めから泣いたりなしですよ、うううっ」

 ゴトウさんはそう言うと、大声で泣き出した。

 あーっ、もう、めんどくせーおーとーこーだーなぁー。

「なら、そのままでいい、聞けよ。あんたの約束守ってやるよ」

 単刀直入に俺は言った。

「ふぇ?」

 間の抜けた声を上げて、ゴトウさんは涙を流したまま、眉を寄せ、俺の顔を見る。

「片葉君、今、何て?」

「だから、約束、守るって」

 ゴトウさんは口をあんぐり開けたまま動きを止めた。

 ゴトウさんはピクリとも動かない。

「おい、大丈夫かよ。どうしたんだよ」

 俺がそう言うと、ゴトウさんはやっと口を動かして、「だ、大丈夫です。あの、もう一度言って貰えませんか。ちょっと、君が何を言っているのか理解できなくって」と、眉間に手を当ててそう言った。

 俺は、ため息を漏らしてからゴトウさんの耳に口を近づけて「約束、守ってやる。あんたの心残り、晴らしてやるよ」こう言ってやった。

「そんな、うっ、嘘」

 ゴトウさんは目をパチパチさせる。

「嘘じゃねーよ。本気で約束守るから」

「どうして急に、そんな」

 どうしても何も、理由はあの甲斐だ。

 あいつ、人のこと、クズとかゲスとか散々言いやがって。

 あいつの土下座を見ないことには俺のプライドが許さない。

「事情が変わったんだよ。とにかく、約束は守るから。片思いの相手のこと知りたいって言うなら調べてやるし、その相手にあんたの気持ちを伝えることにも協力してやる」

 ゴトウさんは信じられないという様な顔をして俺を見ている。

 ゴトウさんの目つきは完璧に俺を疑っている目だ。

「何て言ったらいいか。あの、本当に良いんですか? 後になってやっぱり止めるとか言い出さないですよね?」

 やっぱり疑っている。

 俺のことが信用ならないということらしい。

 だが、それも仕方のないことだ、俺は一度、ゴトウさんとの約束を破っているのだから。

「もし、今度、俺があんたの約束を破る様なことがあれば俺のことを取り殺すでも何でも好きにすればいいさ。俺は、絶対に約束は守るから、心配するな」

 ゴトウさんとの約束を守って成仏させて、絶対に甲斐に土下座させてやる。

「本当に、本当、ですね?」

「ああ、本当の本当だ」

「信じていいんですね?」

「ああ、もし俺がお前を裏切ったら遠慮なく取り殺してくれ」

 不安そうなゴトウさんに、俺は深く頷いて見せて言った。

 するとゴトウさんの目から涙が一つ流れた。

「ううっ、信じます。ありがとうございます。嬉しいです。嬉しいです。ううううっ」

「ちょっ、約束守るって言ってるんだから、もう泣くなよ。あんたの泣き声にはもううんざりしてんだよ」

「ううっ、だって、だって、嬉しくて、つい泣けて来て」

「嬉しいなら泣くなよ」

「はい」

 ゴトウさんは満面の笑みで言うと、服の袖で涙を拭った。

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