男がくるりとこちらを向く。

 俺は見ていたことが何となく気恥ずかしくて、男からそれとなく視線を外す。

 男は長四角の白い盆を両手で持ってテーブルに戻った。

 男は丁寧な手つきで盆をテーブルの上に置いた。

 盆を見るとコーヒーの注がれた白いカップが二つとミルクの入った小さな白い陶器のミルクピッチャーと飴色の角砂糖を入れた小瓶、ふわふわのクロワッサンの盛られた白い皿が載っている。

 男は盆からカップを持ち上げると俺の前に置いてくれた。

「コーヒー良かったらどうぞ。砂糖とミルクはご自由に。クロワッサンも。朝食に良かったら食べて」

 男に言われて、俺は礼を言いつつブラックでコーヒーを一口飲む。

 うむ、美味だ。

 だが、今はコーヒーをゆっくりと味わっている場合ではない。

「あの、コーヒー、美味しいです。それで、ええっと、俺はどうしてここに?」

 これを聞かずにはいられない。

 俺には、この男の部屋に何故泊ることになったのか、是非とも知っておく必要があった。

 なぜって、バー・カルナバルでの失態もある。

 考えたくもないことだが、万が一でも、この男の前でカルナバルでの様な醜態をさらしたのだとしたら、弁解の一つでもしなければならない。

 俺が真っ当な人間であることをこの隣人に疑われる様なことは俺のプライドが許さないのだ。

 切実な悩みを抱える俺に対し、男の方はのんびりとしたものだった。

 男は、ああ、それね、と言うと、クロワッサンに手を伸ばして話し出した。

「俺、また外で座ったまま眠っちゃったみたいで。それで、なんだか肩が重たくって目を開けたらあなたが、俺により掛かっていて。そう、あなた、俺の肩に頭を乗せて眠っていてね」

「え、あんたの肩に俺が頭を?」

「うん、ビックリしたね」

 俺もビックリだ。

 俺は、外で、あろうことかこの男の隣で眠りこけて……そこは分かっていたが、ミイラ取りがミイラに、とはよく言ったもんだ。

 しかし、男の肩に頭まで乗せてしまっていたのか。

 俺としたことが、何てことだ。

「すいませんでした。いやぁ、俺も疲れていたんでしょうねぇ、はははっ」

 乾いた笑い声が思わず漏れる。

「別に構いませんよ。あなたのこと、起こそうとしたんですけど、揺すってもくすぐっても全然目が覚めなくってね。参ったよ」

 くすぐったんですか。

 何やってんだよ、あんたは、とは言えない。

「す、すみません」

「別に。それで、あなた、寝言を言いだして……」

「ね、寝言? な、何て?」

 俺の心拍数が一気に上がる。

 俺は、とんでもないことを言ってなければいいと心の中で祈りを上げる。

「はぁ、ウチに帰りたくないって言いました」

「うっ、そ、それで?」

「はい、それで、このままにもしておけないなって思って、俺の部屋に連れて行ったんですけど。本当はあなたの部屋に返した方が良かったのかも知れなかったですけど、帰りたくないって言ってるし、勝手にあなたの鞄を漁って、あなたの部屋の鍵を探すのも気が引けて」

「そうですか。あの、それで?」

「はい?」

「いや、話はそれだけですか?」

「それだけと言うと?」

「いや、おれ、あなたに、何かもっと変なこと言ったり、したりしませんでした?」

 訊かれて男は、うーん、と声を上げて顎に人差し指を当てる。

「別に何も無かったですけど。……ああ!」

 男が突然上げた大声に、俺は心臓が口から出そうなくらいに驚いた。

 一体何だ。

 まさか、女王様か。

 バー・カルナバルでの地獄が再びやって来るのか。

 男の次の台詞を俺は固唾を飲んで待つ。

 男の口が動いて出てきた言葉は……

「あなた、めちゃくちゃお酒臭かったですよ」

 俺は一気に脱力した。

 何だよ、それ。

「そ、そうですか。すみませんでした」

「いいえ、別に」


 どうやら、この男の前で、バー・カルナバルでの様な失敗は無かったようだ。

 良かった。

 ひとまず安心した俺は、クロワッサンに手を伸ばした。

 クロワッサンを口に入れるとサクッとフワッとしていて驚くほどに美味かった。

 これはコーヒーとの組み合わせが絶妙だ。

「美味しいです、これ」

「そうですか、良かったです」

「……あの、俺、あなたに挨拶、ちゃんとして無かったですよね。改めまして、隣に越してきた、片葉双一です。よろしくお願いします」

 ぎこちなく俺が言うと、男は手に持っていたカップをテーブルに置き「俺は甲斐涼(カイリョウ)です」と、左手を俺に差し出してきた。

 また握手か。

 握手が好きな奴だな。

 俺は戸惑いながらも左手で握手を交わした。

 甲斐……悪いやつでは無いのだろうが、ブンブンと腕を振られながら握手をされると、やはり今後の関わり合いは考えたくなるな。

 握手が終わると、甲斐が俺に、「ああ、そう言えば」と、話しかけて来た。

 俺はあれこれ心配することを止めて、クロワッサンを遠慮すること無く口にほおばりながら甲斐の話を、「何ですか?」と訊く。

「あなた、寝言でウチに帰りたくないって言っていたけど、何でなんです? 自分の部屋に帰りたくない様な理由が何かあるんです?」

「ううっ、そ、それは」

 訊かれて、クロワッサンが喉に詰まりそうになった。

 俺は慌ててコーヒーでクロワッサンを流し込む。

 クロワッサンを喉に詰まらせることはしなかったが、いきなり飲んだコーヒーにゴホゴホとむせた。

「大丈夫ですか」

 甲斐が言う。

 俺は、かすれた声で大丈夫ですと答えた。

 俺が部屋に帰りたくない理由、それは花凛にも聞かれたことだが、とても答えづらいことだった。

 だってそうだろう。

 部屋にいる幽霊の嫌がらせに困っていて帰りたくない、だなんてどうして言える。

 そんなこと言った日には頭がおかしいと思われるのがオチだ。 

 考えていたらあの部屋での地獄が思い出される。

 ああ、何だか嫌気と寒気がしてくる。 

「どうしたんですか、顔色が悪いですけど。部屋で何かマズいことでもあるんですか?」

 甲斐は俺の顔をジッと見て言う。 

 部屋でマズいこと。

 俺の顔色が悪いとしたら、原因は部屋でマズいことがあるという正にその通りだが、それを正直に話したらそれこそマズいことだ。

「俺の部屋のことなんて、あなたには関係の無いことですよ。あの、俺、コーヒーを頂いたら直ぐに帰りますから」

 冷たい口調でそう言ってしまった俺は、甲斐の視線から逃れるようにカップを手に取る、が中はすでに空だった。

「コーヒー、お代わりありますけど、飲みますか?」

 甲斐がそう言う。

 俺は、つい、「はい」と答えてしまった。

 お代わりを頼んでは、直ぐに帰ることが出来なくなってしまう。

 俺は何をやっているんだ。

 甲斐は立ち上がり、キッチンへ向かった。

 そして、コーヒーピッチャーをもって戻って来た。

 甲斐が立ったまま無言で俺のカップにコーヒーを注ぐ。

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