九
どれだけ時が過ぎたのか。
薄い意識の中で、俺は温かさを感じていた。
温かくて、心地が良い。
耳をすませば規則正しい心臓の鼓動の音が聞こえて、それに安心する。
こんな風に感じるのは久しぶりだった。
どれくらいぶりに、こんな感覚を味わっただろうか。
もうずっと忘れていた感覚。
ずっとこのままでいたい、でも……。
この心地よさの正体を知りたくて、俺は閉じていた目を開いた。
目を開いても、頭がぼんやりとしていて、俺は自分の状況が分からずにいた。
しかし、どうやら誰かの腕の中に抱かれているらしいことが分かる。
一瞬、花凛の顔が頭を過るが、そんなはずは無い。
俺は、相手の胸に張り付いていた自分の顔をもそもそと上げてみた。
そして、心地いいと感じていた物の正体を知る。
呼吸が止まりそうになる。
俺の目には、俺を抱きしめたまま眠る隣人の男の顔が見えた。
嘘だろ。
そう疑いたくなるが、確かに俺は隣人の男に布団の中で抱きしめられている。
俺は、出来るだけ自分の置かれた状況を知りたくて、男に抱きしめられたままに首を回して辺りを見回した。
白い和紙の様な物が張られた丸い形のぼんぼりの様な間接照明が照らし出す部屋の中の様子は家具も無く、がらんとしていた。
ここは、こいつの部屋だろうか。
状況から察するに、俺はこの部屋で、隣人の男と狭い布団でずっと二人で眠っていたようだった。
つまりは、泊まらせてもらったということだが、しかし、なぜそうなったのか、さっぱり分からない。
俺は、視線を男の顔に移す。
良い夢でも見ているのか、男は微かに微笑んでいる。
全く、呆れた男だ。
こっちは笑える状況じゃねーってのに。
なんつう恰好で寝てるんだっての。
この体勢はどうしたら良いのか。
俺は身じろぎをした。
すると、男は、「うーんっ」と声を上げて寝返りを打って俺から離れた。
体が解放された俺は、男を起こさない様に注意しながら上半身を起こした。
今は何時だろうか。
時間を知れる物が辺りにないので分からないが、カーテンから漏れる光も無いし、部屋は暗い。
まだ夜のはずだ。
さて、どうするか。
このまま黙ってここを抜け出すか。
それはマズい気がする。
この部屋の鍵が開けっ放しになってしまう。
じゃあ、この男を起こすか。
俺は、男の顔を見る。
男は気持ちよさそうに眠っている。
起こすのも悪い感じだ。
いや、話はそうじゃない。
そもそも、俺は、この部屋を出てどうする。
自分の部屋に帰るのか。
それはとても気が進まない。
部屋にはあのゴトウさんがいる。
あいつのせいで、俺は、ここ一週間散々な目に遭っている。
うーむ。
「…………こいつ、ポカリくれたし、悪いやつじゃ無いよな」
うん、せっかくだ。
このままここで、有り難く眠らせて頂けばいい。
久しぶりにぐっすりと眠れるチャンス到来なんだ。
そのことに比べたら、よく知らない男の隣で寝るくらい、何でも無いことだ。
俺は一人頷くと、布団の中に入って男に背を向け、目を瞑った。
今日はここに泊ってやろうと思い切ると、眠りは直ぐに訪れた。
眠りの縁で、心地いい温かさが再び俺を襲う。
それに抗うことは眠りに落ちた俺にはもう不可能だった。
朝、気持ちよく目が覚めた。
久しぶりによく眠れた。
体が凄く軽い。
昨日の酔いも全く残っておらず、さわやかな朝とはまさにこのことと言えた。
隣を見れば、隣人の男の姿はもう無かった。
俺は布団から半身を起こした。
伸びをして、敷布団からそろりと出る。
素足でフローリングを踏むと床のヒヤリとした感覚に体が震えた。
俺はすぐさま布団に戻りたくなったが、しかし、この部屋の主がもう起きているらしいのにそうはいくまい。
がらんとした部屋の扉を開けると、これまた殺風景なリビングに出た。
家具といえば、窓際にある二人で使えるくらいの折り畳み式のテーブルと、これまた二脚の折り畳み式の椅子。
そして、部屋の端に白い色の棚が一つと、壁際にアルミニウムの中サイズのスーツケースが三つ置いてあるだけだ。
テレビなどの娯楽的な物は一切見当たらなかった。
そんな部屋の中で、部屋の主は折り畳み椅子に座り、折り畳み式テーブルに肘をつけてぼんやりと外を眺めていた。
「えっと、おはようございます」
俺がそう声を掛けると、部屋の主、隣人の男は顔を俺の方へ向け、気だるげに、「おはよう」と言った。
俺は、ためらいながらも男の側へ寄る。
近づくと男が椅子に座ったまま俺を見上げた。
俺は、その男の顔を思わずじっと見てしまう。
明るいうちにこの男の顔をしっかりと見るのはこれが初めてだ。
こうして見ると、この男、呑気そうな雰囲気はあるが、目鼻立ちの整った中々の良い男だ。
年齢は俺より上だろうか。
「あの、泊めてもらったみたいで、ありがとうございました。何か、服まで貸して頂いた様で」
頭を掻きながら素直に礼の言葉を述べてみる。
俺は上下黒のスーツを着ていたはずだが、今は、上は白い長袖のティーシャツ、下は黒のジャージを履いている。
どうやら俺が眠っている間にこの男が着替えさせたらしい。
確かにスーツで眠るのもどうかと思うので別に構わないが、着ていたシャツまで着替えさせてくれているというところが、何というか、この男……まぁ、うん、良く言えば面倒見のいい男だ。
男は、俺の顔を見上げながら、「お礼なんていいですよ。俺が勝手にしたことです。あ、服は皺になるといけないので、そこに畳んで置いてあります。あなたの持ち物もそこですから」と、そう言って顔を横に向けて指をさした。
男が示す方を見ると、床の上に俺の鞄の隣に茶色い紙袋が置かれているのが見える。
その中に俺の洋服が入っているのか。
わざわざ畳んで紙袋にまで入れて置いてくれるなんて気が利くな。
うむ、この男、面倒見のいいのに違えない。
しかし、まるで、妻帯者の友人の家に泊った時の奥さんの行いの如くな気の利き方なのが気になる所だが。
「ありがとうございました」
俺が頭を下げると男は「別に。よく眠れました?」と訊いてくる。
それに対して、俺は得意の愛想笑いを浮かべて答えた。
「はい、お陰様で。あの、俺、実は昨夜のこと、全く覚えて無くて。えーっと、それで、ですね。どうして俺がこちらに泊らせて頂くことになったのか、出来れば聞かせて頂けるとありがたいんですが」
「ああ……そうですか。まぁ、座ったら」
そう言って男は、彼の正面にある空いた椅子を俺に勧める。
「はい」
俺は素直に示された席に座った。
椅子の座り心地は硬くて冷たくて最悪だ。
まぁ、折り畳み椅子に座り心地なんて期待などしていなかったが。
俺が座ると、男は立ち上がり、「ちょっと待ってて」と言ってキッチンへ向かった。
俺は、ダイニングからキッチンに立つ男の背中を眺める。
男は姿勢よくキッチンに立ち、カタカタと音を立てて何やらやっている。
俺はそれを黙って見守った。
しばらくするとキッチンからコーヒーの良い香りが漂って来た。
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