三
部屋でシャワーを浴びて濡れた髪もそのままに、俺は寝室のベッドへと身を沈めた。
引っ越しを機に家具などを新しく買い替えた。
このベッドも新しくした物の一つだ。
こだわって買ったベッド、寝心地は中々だ。
新しくした枕もふかふかで、同様に新しいシーツも気持ちがいい。
俺はやっと落ち着いた気持ちになった。
疲れと酔いのせいか、何だかとても眠い。
明日は仕事も無い。
俺は昼間まで寝てやるつもりで目覚ましをかけずに重い瞼を閉じた。
どれくらい眠っていたのだろう。
妙な寒気を感じて目を覚ました。
辺りはまだ暗い。
何だか喉が渇いて仕方がないのだが、酒のせいだろうか。
仕方ない、何か飲み物でも飲もうかと、起き上がろうとする、が、しかし、何故か、俺の体は動かなかった。
一体どういう事だろうか。
一生懸命体を動かそうとしても、どうしても体は動かない。
体に力が入らないというのでは無くて、何か、締め付けられるような感覚だ。
これは、まさか、俗にいう金縛りという奴ではあるまいか。
と、仕事柄、そうは思っては見たが、金縛りなんて、何てことは無い。
要は睡眠麻痺と呼ばれる現象だ。
金縛りは心霊現象の一つとされているが、実はそんなことは無く、睡眠の際の全身の離脱と意識の覚醒が同時に起った時になる現象だ。
睡眠麻痺はストレスや疲れが原因とされていると聞く。
だから、きっと、引っ越しの疲れでも出たのだろう。
それにしても、金縛りなんて初めて経験する。
結構辛いものだ。
何だかすすり泣く声まで聞こえてくるが、コレも疲れから来る幻聴だろう。
泣き声は俺のすぐ近くで聞こえる。
小さく鼻をすする音まで聞こえる。
幻聴とは言えうるさくて堪らない。
耳を塞ぎたいが、体は動かないので無理だった。
俺は、苛立ちを紛らわす為に、幻聴だと分かっていながら、静かにしろ、と念じた。
すると、念が効いたからなのかは知らないが、泣き声が静まる。
俺はホッとしたが、それもつかの間だった。
今度は腹の当たりが重たく感じる。
何かが俺の腹の上に乗ってでもいるふうだ。
寒気がより一層強まり、鳥肌が立ってきた。
こうなると、流石に焦りを感じたが、何とかしたくても体が動かず、どうする事も出来ない。
俺はせめて、ただ一つだけ自由になる目を大きく開けて、状況を掴もうとした。
重みを感じる腹の方を目で見てみる。
すると、霧のように黒い影が見えた。
それを、目を凝らして、もっと良く見ようとする。
黒い影はだんだんと形を作っていく。
黒い影が形を作っていくに従い、体に感じる重みも増していくような気がした。
たまらず、おれは黒い影から目を逸らしたが、黒い影は俺の腹から顔の方へとずるりと動いた。
これでは、目を逸らしたところで意味がない。
黒い影が俺の顔を見降ろしている。
俺は思わず呻いた、しかし、金縛りのせいかその声は外へは漏れなかった。
黒い影は俺を覆いながら、どんどん形を作っていく。
顔の輪郭が現れて、目と鼻と口と髪が現れて、黒い影は人の形に変わっていく。
一体どうなっているのか、考えるまでもない事だ。
これは夢だ。
夢に違いない。
こんなどうしようもない夢なら早く覚めて欲しい。
目を見開いている俺の前で、黒い影は完璧に人の形になっていた。
眼鏡を掛けた、優男の姿が俺の目に映っている。
そいつはじっと俺の顔を見ている。
見覚えのない男だ。
夢の中とは言え、知らない男に至近距離で見られているというのは不愉快極まりない。
しかも、俺の上に乗っていやがるし。
不機嫌になった俺は、優男を睨みつけた。
すると、優男はハッとした顔をして、「あの、君、もしかして、僕のことが見えているんですか」と言った。
見えていますとも。
俺は、何とか返事をしようとしたが、声が出なかった。
体も動かないので頷く事も出来ない。
仕方が無いので唯一動く目をパチパチさせて優男に合図を送った。
すると、優男は、ああっ、と声を漏らし「金縛りに掛かってるんですね。すみません、そんな事するつもりじゃなかったんですけど。今解きますから」と言う。
俺の体から一瞬、ガクリと力が抜けて、そして、縛り付けられるようだった体が自由になる。
さっきまで感じていた喉の渇きも嘘みたいに消えた。
金縛りが解けた。
俺は、首を上げて改めて、俺の体に覆い被さっている男を見てみる。
年齢は若そうだ。
襟足で切りそろえられた黒い髪に、白い顔。
赤い縁の眼鏡を掛け、胸にポケットの付いた黒い長そでのシャツにピタリとした黒のジーンズ姿の優男。
やはり、こんな男に見覚えは無い。
優男は俺の体に乗ったまま、珍しい物でも見る様な顔で俺の顔を覗き込んでいる。
「お前は何なんだよ。泥棒か?」
夢と分かっていてもつい聞いてしまう。
「やっぱり僕のことが見えるんですね。自分のことが見える人に会ったのは初めてです」
嬉しそうに優男が言う。
しかし、俺の方は嬉しくとも何ともない。
むしろその逆、夢の中でこんな見知らぬ男の姿を目にしたからと言って、喜ぶことは何も無い。
ウザいだけだ。
「とにかく、俺の体から離れてくれ。つか、あんた、何で人の体の上に乗ってんだよ」
「す、すみません。君から心地の良い気を感じて。そうしたら、君の体に吸い付く様に乗っていたんです」
「何だよそれ。いいから早くどいてくれよ」
俺はウンザリとそう言った。
「はい、すみません」
優男は申し訳なさそうな顔をして、俺の体から離れると、ベッドの端に正座をした。
願わくば、ベッドからも降りて欲しいものだ。
俺はため息を一つついて、上半身だけ起こし、ベッドの横にあるサイドボードの上に載った煙草を一本抜きとる。
ライターで煙草に火をつけ咥えて息を吐き出すとふわりと煙が部屋に広がった。
煙草の味が夢とは思えないほど苦く感じる。
「で、お前は何なんだよ。泥棒なら悪いけど取る物は何も無いぜ」
引っ越したばかりで財布はすっからかんだ。
「泥棒じゃありません。僕は、あの、霊です」
優男がそう答える。
「はぁ? 霊だって? そんなのいる訳ねーだろ。寝ぼけてんのか、あんた」
思わずそう言ったが、寝ぼけているのは俺の方だ。
何ちゅう夢だ。
霊と来た。
まあ、さっきまで黒い煙でいた事からも、こいつが普通の人間ではない事は確かだろう。
だが、霊か。
この俺が霊を見るなんて、エセ拝み屋何て仕事をしている報いなのか。
しかし、案ずる事無かれ、コレは夢だ。
夢から覚めればこの男ともおさらばだ。
「あんた、本当に霊なのか?」
念を押して訊いてみる。
優男は大きく頷いた。
「はい。自分でもいまだに認めたくないですが、本当に霊です。一年前に、僕はこの部屋で死んだんです。それからずっと、成仏出来ずに僕は、ここにいるんです」
自称霊の優男は悲しそうな顔をして俯いた。
「この部屋で死んだって、どうしてまた。病気か何かか?」
不躾に俺が訊くと、優男は首を激しく横に振った。
「違います、餅を喉に詰まらせて死んだんです」
「はぃ? 冗談だろ?」
「本当です。凄く苦しかった。僕、死んでから、こうして霊になってしまって……仕方なく、死んだ後の自分の体を外側から見ていたんです。死後から二週間近くたってから僕の遺体は発見されたんですけど、そのころには遺体は見られたものじゃなくなっていました」
眉を下げる優男。
「何だよ、それ、二週間たってから遺体を発見って変死じゃねーか。それに、おかしいだろ。普通、二週間もあれば、あんたと連絡が取れなくなって、家族とか友達とか、会社の人間とかがおかしいと思って様子見に来たりするだろ」
「はい、変死ですね。警察も部屋に来ましたけど、でも、事実は単に餅を喉に詰まらせただけですし。発見が遅れたのは、友達の方は良く分からないですけど、会社は……僕の勤めていた会社、ブラック会社でして、社員が急に連絡が取れなくなってそのまま辞めるってことがしょっちゅうの会社でしたから、無断欠勤で特におかしいと思う人なんていませんから、いちいち様子なんて見に来ないですし……。家族は……いませんし。近隣住民の方が、僕の部屋から異臭がするって警察に連絡したらしくて、それでやっと僕の遺体は発見されたんですよ」
何とも、とんでもない話だ。
俺は返す言葉に困った。
「そ、そう。えーっと、家族はいない、か……まぁ、あんたの死体の発見が遅れた事情は分かったよ。そんなに若いのに餅を喉に詰まらせて死んだんじゃあ、成仏も出来ないよな。その……何て言うか、辛いな」
俺の口からはやはり、気の利いた台詞は出て来なかった。
この男、こんな若いうちにそんな風に亡くなって、成仏も出来ずに現世をさ迷わなければならないなんて、これが現実だとしたら俺ならばやっていられない。
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