バー・カルナバルでの、花凛による恋愛座談会は三時間半にも及んだ。

 ママも途中で加わり、他の客も巻き込んで、座談会は大いに盛り上がったが、俺はへとへとだ。

 今、俺は自宅のマンションの前にいる。

 今の時間は深夜二時。

 終電を逃がし、引っ越しで金を使ってしまいタクシーを使えるほど財布が潤っていない俺はマンションまで徒歩でやっとの事たどり着いたのだった。

 マンションのロビーでうろ覚えのオートロックの番号を打ち込み、なだれ込むようにエレベーターに乗り込み、部屋のある四階まで上がった。

 エレベーターから降りると、よろよろと廊下を進む。

 ああ、早くシャワーを浴びてベッドで休みたい。

 何だか酷く頭が痛い。

 飲み過ぎた。 

 眉間を抑えながら俺の部屋409号室の近くまで来て、俺は首を傾げる。

 俺の部屋の前で人が座り込んでいる様に見えるんだが、幻か。

 こんな幻を見るなんてやっぱり飲み過ぎただろうか。

 しかし、近づいてみると、どうやら幻では無いらしい事が分かった。

 緑色のジャージ姿の黒髪の男が俺の部屋の前で確かに座り込んで、眠っている。

 男は、眠りながらも左手にコンビニ袋をしっかりと握り締めていた。

 この男は何者なのか。

 何者にしても、邪魔である事には違えない。

「あの、もしもし。すみません。あのぅ」

 俺は男に声を掛けた。

「ううんっ」

 男は小さく声を漏らし、身じろぎする。

 しかし、目を覚ます様子は無い。

 目を覚ますどころか、こいつ、むにゃむにゃと言っていやがる。

 何だかイラついて来た俺は、多少乱暴に男の肩をゆすり、男の耳元で、「もしもし! もしもしっ!」と怒鳴ってやった。

 本当は蹴りでも入れてやりたいところだが、それは我慢してやった。


 男の肩を揺らし、声を掛ける事、数分。

 いい加減、本当に蹴りを入れたくなって来たところ、男がやっと目を開いた。

 男はあくびを一つすると、目をこすり、俺を見上げた。

「んっ……はい? 誰ですか?」

 キョトンとした顔で男は俺にそう言う。

 それは俺の台詞ですよ。

「俺は、あなたが今、座り込んでいらっしゃる所の部屋に、今日、引っ越してきた者ですが」

「え」

「いや、あなたが俺の部屋の玄関扉の前に座っているんで中へ入れないんですけど」

「えっ、えっ?」

 男は首を回して部屋のナンバープレートを目で確認する。

 男の顔がみるみる青ざめる。

「す、すみません。間違えました」

 そう言って男はゆらりと立ち上がり、俺に深々とお辞儀をする。

「いえ、大丈夫ですよ」

 俺は愛想笑いを浮かべた。

「本当に申し訳ありませんでした」

 男は、また俺にお辞儀をすると、「じゃあ」と言って、俺の隣の部屋、408号室の玄関扉まで蟹の様に横移動して玄関扉の前へ立った。

 なるほど、隣人であったのか。

 俺は自分の部屋の鍵を鞄から漁りながら、何となく横目で男の方を見た。

 男は隣の玄関扉の前でぼうっと突っ立っている。

 そして、そのまま扉の前に座り込んだ。

「え、あの?」

 狼狽える俺の声を無視して、男はあろうことか、そこでまた眠った。

「マジかよ」

 俺は思わず口に出してそう言った。

 こいつは何なんだ。

 本当に隣の部屋の住人なのだろうか。

 なら、普通、自分の部屋に入るだろう。

 部屋の外で寝るってなんだ。

 理解できない。

 ああ、この男を見ていると、飲み過ぎでズキズキする頭が何だかさらに痛む気がする。

「み、見なかったことにしよう」

 俺は自分の部屋の玄関扉を開けると静かに中へ入り扉を閉め、鍵を掛け、ついでにチェーンを掛けた。

 体から一気に力が抜ける。

 頭が痛い。

 俺は玄関扉にもたれかかった。

 しかし、あの男、思わずほっといて来てしまったが、大丈夫だろうか。

 いや、余計な事は考えるな。

 俺は何も見なかった、そう決めたはずだ。

 余計な関わり合いはごめんだ。

 あいつがどうなろうと知ったことでは無い。

 一度は起こしてやったんだ。

 二度寝するあいつが悪い。

 そう、悪いのはあいつであって、俺では無い。

 だが。

「…………」

 あのまま放っておくっていうのはさすがに人でなしであろうか。

「……………………」

 もしも、あの男が隣人であった場合、あのまま放っておいて風邪でも引かれたら根にもたれはしないだろうか。

「………………………………」

 いや、あの様子だ、俺のことなど覚えてはいるまい。

「…………………………………………くそっ!」

 俺はチェーンを乱暴な手つきで外し、鍵を開け、扉を、音を立てて開いた。

 扉から首を出して隣の様子を覗くと、男がまだ座り込んでいた。

 外の空気は大分冷えている。

 このまま放っておいたら、あの呑気そうな男も風邪くらい引くかもしれない。

「あーっ、くそっ!」

 俺は頭を掻きながら男の側まで行く。

 男は気持ち良さそうに寝息を立てている。

「呑気なもんだぜ。……あの、もしもし? もしもぉーし!」

 俺はしゃがみ込み、男の肩を揺する。

 ガクガクと男の首が揺れる。

「おい、朝だぞ! 起きろ! 朝!」

 朝じゃねえーよ! と自分でも思うが、起きない相手に言う台詞のセオリーだ。

「ううっ、んっ、あさ?」

 セオリー通りに男が目をパチパチさせて寝ぼけ眼に俺を見る。

 俺は、ため息を男に吐きかけた。

「朝じゃないですけど起きて下さい。こんな所で寝たら風邪を引きますよ」

 俺の台詞に男は辺りをキョロキョロと見回す。

「あっ、ああ……ここ、外だ。コンビニ行ったら何だか疲れちゃって、途中から記憶がないや」

 とんでもない事を男は言う。

 大丈夫か、この男は。

「あの、起こしてくれてありがとうございました」

 男はそう言うと、よっこらしょ、と立ち上がった。

 そうして、左手に持っているコンビニ袋を右手に持ち変えると、左手を俺に差し出してきた。

「え、握手ですか?」

 握手するシーンじゃ無いだろうと思うが、俺は拒む事も出来ずにとりあえず男の手を取った。

 男の手は大きくて冷たかった。

 握手が終わると沈黙が訪れる。

 男の目を見ながら、俺は何だか気まずい気持になる。

 男同士で見つめ合っていても仕方がない。

 俺は、このまま部屋へ帰ることにした。

「あの、じゃあ、俺は行きますけど、大丈夫です?」

 俺が言うと、男は、「あ、はい、俺の部屋、ここなんで」と、コツリと408号室の玄関扉を手で叩く。

 この男、やはり隣人であるらしい。

 こんな変わり者が隣人か。

 地味に落ち込むな。

「あ、じゃあ、俺はこれで」

 俺が速やかにこの場を立ち去ろうとすると、「あ、ちょっと待ってください」と、男に呼び止められた。

 男は、コンビニ袋をガサゴソ漁り、ペットボトルを取り出すと俺に差し出す。

 思わず受け取ってしまったが、何なんだ。

「あの、何ですか?」

「ポカリです」

「それは見れば分かりますけど、何でこれを俺に?」

「ああ、あなた、お酒臭いですよ。良かったらそれ飲んで酔いを醒まして下さい」

「え、あ、ああ、そうですか。ありがとうございます」

「いえ、じゃあ、おやすみなさい」

「あ、おやすみなさい」

 俺は自分の部屋へと戻る男の姿を見送った後、片手にあるポカリを見た。

「…………」

 あの男、まあ、悪いやつではないみたいだな。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る