第2話 黒川の珈琲

 「割り切れないものにこそ、"生”がある。」


 その男はそういった。






  タワーマンションの一角。当たり前のように帰りまで送り届ける高級車。


 高藤英人はすべてを手に入れた。彼の指がエンターを押すだけで、億の数字が動く。


 子供も孫もすでにいる。このマンションの一角に住んでいる家族はいるが、自分と一緒に住む者は今はいない。


 すべてを手に入れると残るものは何だろうか。


 カードキーをかざさなくても、家の鍵が開いていた。入ってみると、広い玄関にかすかに湯気の名残があった。


 愛人の誰かが来たのだろうか。何人かいる愛人の誰かに、家のカードキーを渡したかどうかも彼はもはやどうでもよいことであった。


 リビングへの扉を開くと、煙草の煙の香りがした。


 勝手に拝借されたガウンを着た黒川の姿を見た瞬間、高藤は本能的に走り出したが、黒川の方が数段俊敏であった。


 がっちりと首に回された腕に、もはや叫び声をあげることさえ叶わないと高藤は把握した。


 ジョボリ。


 情けなくも、高藤は小便を漏らした。その瞬間、自分はまだ生にしがみ付きたいことを思い知った。


「か、金ならいくらでも。」

「いるわけないだろう。」


 そうだろう、と高藤は思った。こういう人間にも高藤は出会ってきた。先ほど見えた黒川の目。金や女などでは動かない、野生の男の眼であった。


 強くなる腕。よもや自分が男に抱きしめられ死ぬことになると、果たして今までのどこで思ったことがあろうか。


「こ、こんなところで、こんな・・・。」

「割り切れないところに生がある。」


 黒川は言った。


「甘んじたな。」


 そうであろう。今の自分は空虚であった。すべてを手に入れた、となると残るものは空虚なのだから。


「最後に、覚えていて欲しいことはあるか?」


 この男にか。そう思った。自分を殺すだろう男に覚えていてほしいものなど、果たしてあるのだろうか。


「・・・珈琲は豆から挽くんだ。」

「はあ?」

「テイクアウトだの、コンビニなどばかばかしい。珈琲はな、自分で豆から挽くんだよ。そ、それが男の嗜みってもんだろう。」


 存外馬鹿なことを言った。けれど、今の自分の脳裏に出てきた走馬灯は、毎朝自分で入れる珈琲の様子であったのだから仕方ない。


「了解した。」


 ゴリッと低く鈍い音が黒川の腕の中でした。だらしなく落ちた高藤の上に、着ていたガウンをバサリと被せた。


 幸い高藤の小便は自分にかからなかったようだ。二度風呂は趣味ではない。


 男には振り上げた拳の落としどころがわからない奴が大勢いる。


 ましてや、高藤のように高く上がってしまったら、殊更落としどころはわからなかっただろう。


 さも、いいことをしたと言わんばかりに、黒川は陽気に着てきた服を身に着け、煙草に火をつける。ミルはあるが、珈琲豆が見当たらない。煙を巻きながら探してみれば、冷凍庫に豆があった。


 深煎りが好みだったようだ。さて、これだけは覚えていてやろう。


 豆を取り出してみれば、冷凍庫の奥に凍った文を見つけた

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