黒川龍斗の煙たい日々

K.night

第1話 黒川龍斗の煙たい日々

「宗教は人に正解を与え、芸術は人に違和感を与える。」


 深夜二時だというのに、珈琲のいい香りと煙草の香りがする洋館であった。30畳はありそうなバカ広いダイニングに、映画でしか見たことがないような両側にある大きめの階段。その真ん中に大きなステンドクラス。そのダイニングの端にあるミニキッチンからその男の声は聞こえた。


 黒川龍斗、65歳。プロレスラーから画家へと転身したという不思議なその経歴の男はその精悍さを、油絵具で汚れた服で隠していた。伸ばしっぱなしにしている白髪を軽くまとめベレー帽をかぶっている。


 黒川は深夜の若い訪問者に向かって冒頭のセリフを述べた。声が小さい割には低いためよく聞こえる声だった。


「どういうことですか?」


 青年は答えた。


「それが、宗教画か、ということに関しての答えだよ。」


 黒川は吐き捨てるようにいった。


 その絵はまさに、黒川が今着手している絵だった。西洋の墓地から女性を掘り起こして、男性が抱きしめている。大きく、全体的にセピア調のその絵は確かに宗教画のようにも見えた。とても精密なその絵は、キャンパスよりも大きく見えた。


「その絵が君に何かしらの答えを出すものであれば宗教画だが、そうでないなら、ただの芸術作品だ。」

「はあ。」


 青年は気の抜けた返事を出した。今日初めて、組織の殺し屋に依頼をしに行く、という大きな仕事をボスに任されて、意気揚々と来てみた。しかし、迎えたのは無駄に大きな洋館と絵、そして鍛えあげた青年の筋肉にいとも簡単に捻りつぶされそうな老人しかいないと来たものだから、まったく気が抜けてしまったのである。



「帰れ。」

「はい?」

「その話にはのらない。次はもう少し芸術の話ができるようになってからにしろ。」

「いや、困ります。報酬も・・・。」


 青年は先を続けることができなかった。スッと、音がしただけであった。黒川が持っていた珈琲に波紋すらできなかった。


 けれど、間違いなく黒川の拳は青年の内臓奥深くに衝撃を与えた。


 青年は声を出すことさえ叶わなかった。


「ここで、吐いたら命ないものと思え。」


 青年は初めて間近で見る黒川の瞳に恐怖した。瞳の奥が深い。組織の中でも"それを行ってきた人物”にしかない眼光であった。


 殺される。彼はうまく動かない足を何とか動かし、洋館の重い扉を開き出ていった。


 少し遠くで吐瀉する声が聞こえたが、黒川は気に留めることもなかった。


 まったく、あいつも年を取ったもんだ。若いもんの躾までやらせるようになったか、と黒川は思った。


珈琲をソファのサイドデッキに置くと、寝ていた黒猫が黒川に気づき、ふいと視線を向けて、大きく欠伸をした。


 赤い首輪をつけたその猫の名はクリムト、という。


 黒川は絵の具汚れだらけの作業着のポケットからシガーケースを取り出し、手巻きの煙草に火をつけた。


 黒川の夜は短い。彼は絵の前で次にどこへ筆を置こうか考えだした。


 黒川の住むこの洋館に、風呂はない。彼は銭湯かミニキッチンのお湯で体を拭く。


 彼が殺しをするのは、人の家でゆっくり風呂に入る時だけであった。

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