第19話 夏の夜
「さくら、いったいどうしちゃったの??!」
食堂に入るなり、葵から大声が飛んできてびっくりした。葵の肩は小刻みに震えていて、今にも手に持っているフライパンを投げてきそうな勢いだ。
幸い、店内に客はおらず、子どもたちも今日は祖父母に預けて出かけているそうだ。
「ど……ど、どうしちゃったって何よ?私、何かした?」
葵の目の奥が少し揺れて、さくらは動揺してしまう。
外ではセミがうるさいほど鳴いているが、薄暗い店内はシンとして、どこか冷たささえ感じる。
葵は目線を落として、静かに作業の続きをはじめた。
重い沈黙に、無駄な言葉を発せられなくなる。首筋を冷たい汗がツーっと伝っていく。
「……さくら、ご飯はちゃんと食べてるの?」
「そんな、お母さんみたいなのやめてよ。ちゃんと食べてるし、会社も行ってるし、別に犯罪に手出してるわけでもないでしょ?いたって健全よ」
「じゃあ、なんで私からの連絡放置してたの?」
「それは……最近ちょっと忙しくてさ。色んな人からお誘いの連絡来るもんだから」
葵は何か言いたげだが、ぐっと堪えて言葉を選んでいる。……ハッキリ言えばいいのに。さくらは少し苛立ってくる。
「言いたい事あるなら、ハッキリ言ってよ。気に入らないんでしょ?私がSNSでキラキラ生活を繕ってるのが」
葵は、一瞬顔を上げてキッとこちらを睨んだ。悲しそうに、いや残念そうに……。葵の表情からは色んな感情がくみ取れるようで、何も読み取れない。だが、意を決したように大きく息を吸って言葉を吐き出した。
「さくら、もう港区で遊ぶのはやめなよ」
「なんで、葵に口出しされなきゃいけないのよ。独身の女が好きなように遊んで何が悪いの?」
「自分でも分かってるでしょ?このままじゃさくらの生活も心もボロボロになっていくだけだよ」
「ボロボロなんかじゃない。私は今が最高に楽しくて幸せなの。葵に何が分かるの?」
「分かんないわよ。それを見せびらかして、何が楽しいの?ついこの前、結婚して良いお母さんになりたいって言ってたさくらはどこに行っちゃったの?」
「サトルさんと結婚するわ」
「……その男が元凶なのね……。さくら、あなたが弟のために小さい頃から色々我慢してきたのは知ってる。だからこそ、さくらはちゃんと愛されて、幸せな家庭を持ってほしいとずっと思ってた。そんな港区で遊んでる男のために変わらないで、さくら……」
もう葵は目に涙を浮かべている。
そんな、葵に泣かれたら、私が悪いことをしているような気分になってしまうじゃないか。私は何も悪くないのに。サトルさんは、私を助けてくれたのに。
「葵は何も分かってないよ。別にSNSに見せてる私がすべてじゃない」
「それはそのままお返しするわ。SNSの世界がすべてじゃないでしょ?」
……。
しばらく二人とも無言になった。先に口を開いたのは葵だった。
「もう、さくらが変わってしまうなら私はさくらには会えない」
「それが言いたくて連絡してきたのね。いいよ、絶交で。じゃあ。」
「さくら……」
葵はまだ何か言いたげで、指先をそっと伸ばしていたが、無視してさっさと立ち去った。薄暗い店内は、外から見ると余計に暗く見えて、葵の姿はもうハッキリと見えなかった。
沈みかけたギリギリの夕日の光が、強く視界に刺さる。反対側の空はもう暗く、コントラストが昼と夜をくっきり分ける。まだ沈みたくない、と太陽が最後のあがきをしているように見えた。
---
「はぁー」
さくらは、大きく口から息を吐いた。その小さな音は、混雑した電車の車内に吸収されて、消えていく。夏の電車内の空気は、ほんとに最悪だ。もわっと纏わりつく色んな匂いから逃げられない不快感。嫌な空気を払拭するように、スマホの画面をひたすらスクロールする。
SNSアプリを開こうとして、指が止まった。今日は、なんだか見る気になれない。疲れているのか?こんな日こそ、パァっと飲んで騒ぎたい。それが私じゃないのか?
胸のざわつきが、波のように寄せては返し、だんだん大きくなっていく。
『サトル、仕事終わった?お疲れ様』
あまり返事は期待せず、でも我慢できずにサトルにメッセージを送信した。
『さっき、葵と喧嘩しちゃった。喧嘩っていうか絶交?笑』
あっ。すぐ既読になって驚いてしまう。だが、なかなかメッセージは返ってこない。
もしかしたら、このまま既読スルーかもしれないと、一抹の不安に揺れる。
『え、絶交?何かあったの?』
数分して、短い返事が返ってきた。すぐに、短く返信をする。
『なんか、私が楽しそうにしてるのが気に食わないみたい』
また既読がついて、しばらく時間が経つ。
重いだろうか。引かれただろうか……。送ったメッセージを取り消そうか迷って、出した指先をまたひっこめる。
サトルは何と言うだろうか。謝って仲直りしろと言いそうなタイプではないが。そうなんだ、と軽く流されて終わりだろうな。それじゃ私に全然興味ないじゃないか。少しは気を遣って、大丈夫?くらい言ってくれるだろう……。そんな自問自答を繰り返す一瞬は、とても長く感じた。
だが、返ってきた返事は一言だった。
『今日ちょっと忙しくて、ごめん』
……あぁ、面倒なんだな、と思った。
悲しい、を通り越してしまったのか。心の底に溜まった塊が、灰色の煙となって立ち上ってくるようだ。それは苛立ちに変わり、憎しみに変わっていく……。
『私が友達と絶交したとか、興味ないよね』
『だって私、サトルの彼女でもなんでもないのに。重いよね』
『暇つぶしの女より仕事のほうが大事なのは当たり前だよね』
『っていうか、仕事って言って他の女と遊んでるんだよね』
『私って都合の良いペット以下?』
『ねえ、既読無視?』
『ねえ』
『サトル?起きてる?』
『おーい』
『……』
『……』
それから何分経っても、既読のまま返事は来なかった。
はは、私なんて友達と喧嘩しようが、いつ居なくなろうがどうでもいいって?
分かってた。分かってたよ?サトルが私のことどうでも良い女だと思ってるなんて。
こんな何も取り柄のない女がサトルと……なんて頭ん中お花畑か?
私は馬鹿か?アラサーにもなって。いつまでもシンデレラ大好き夢見る少女か?
「はあぁー」
大きく息を吐くと、エアコンで冷やされた空気が体内に入ってくる。
スマホを握りしめていた手を広げて見つめる。熱くなっていた掌から、熱が逃げていく。
はっ。そうだ、呼吸で空気が入れ替わるように、私も変わるんだ。私が変われば、世界も変わる。
そういうことか、私は変わった。もう、面白みのないそこらへんの女じゃなくて、もっとキラキラして、楽しくて、刺激的で……。私はもう変わったんだ。
もうつまらない地元の友達に固執する必要もないじゃないか。私には、キラキラした友達がたくさんいる。葵がいなくたって、サトルがいなくたって。
気付くと、もう手先は冷たくなっていて、汗が冷やされた体からもすっかり熱は逃げていった。
電車を降りる頃には日も沈み、蒸し暑い夜の空気に包まれた。今日の夜空は雲が多く、星は見えそうにない。
薄暗い夜道の中、時々街頭の光が上からスポットライトのようにさくらを照らす。
「はははっ」
「ふ、ふふふっ……」
さくらは、軽い足取りで家路に着いた。
淡くて苦いピンク 猫野耳子 @nekonomimiko
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