第18話 サトル

 グレーのオックスフォードシャツに、黒のスキニーデニム。爽やかな笑顔をこちらに向けるサトル。代官山の駅にたたずむ彼は、いつもより何割か大人っぽさと知的な感じが増している。

 さっきまで土砂降りだった雨はだいぶ弱くなり、雲の隙間から初夏の太陽の日差しがのぞいてきた。傘がはじく雨の小さなしぶきが、太陽に照らされてキラキラする。サトルは、さくらに傘を差し出して、自然に相合傘になった。いつもよりサトルの匂いが近くに感じられて、ドキドキしてしまう。


「雨、止みそうだね」


 そう言いながら、サトルはさくらの肩が濡れないように、少し傘を傾けた。


「あぁ、わたしは全然大丈夫だから…」


 慌てて傘の柄をサトルのほうに戻そうとして、少し手が触れた。久しぶりの感触に、ドキリと心臓が鳴る。


「じゃあ、真ん中で持つよ」


 サトルは何ともないような素振りで歩き続ける。そっか、なんてないことか…。勝手に舞い上がってしまう自分に少し落ち込む。


 サトルと出会ってから数か月。さくらの世界を変えてしまうような出会いと、人生最高の誕生日と、友達の結婚と…。色んなことがあって、そしてすごく彩りの濃い毎日だった。でもそれも、すべてはサトルのおかげ。あの日飲み会で助けに来てくれた日から、さくらの気持ちは変わっていない。むしろ、日に日に増しているかもしれない。


 でも、サトルとの関係は全然進展しない。サトルは相変わらず忙しい毎日を送っていて、時々こうして気にかけてくれるけれど……。なんだか、まったく違う時間の進み方をしているようだ。さくらがサトルを想う一日は、サトルにとっては一秒にもならないのかもしれない。


 そうやってさくらが一人もやもやしている間に、目的地に着いた。代官山のタツヤ書店だ。



 本がぎっしりと詰まった棚を迷路のように抜けていく。店内には、かすかなコーヒーの良い匂いと、新品の紙の本の匂いが混ざって、なんだか落ち着く。

 ふと立ち止まったサトルは、シンプルな白い表紙の本を手に取った。


「これ、知らないよな……。プラトンは知ってるだろ?」

「プラトンって……だれだっけ?有名な人?」


 サトルが持っているのは、プラトンが書いた「饗宴」という本らしい。哲学の難しそうな本だ。昔読んだがあまり理解できなかったので、もう一度読み返したいそうだ。

 サトルが哲学の本を好むなんて、ちょっと意外な一面で驚いた。昔から読書が好きで、哲学の本もよく読んでいたが、社会人になってからは全く手が出なくなったそう。たしかに、サトルの部屋には本がたくさんあるな、とふと思い出し納得した。


「プラトニックラブのプラトンだよ。厳密には違うけど」

「ふーん。その本、おもしろいの?」

「哲学者たちが愛について語り合う本かな。愛とは何か?って」

「へぇ~。そんなロマンチックな人だったっけ?で、愛とは何なの?」

「愛は、プラトニックラブよりももっと広くて、超越していくものなんだよ」

「はぁ……。なんか難しそっ」


 その後も哲学書のコーナーでサトルに色々説明されたが、さくらは話半分に相槌を打つだけだった。



 本屋をさらに奥にすすむと、カラフルな絵本が楽しそうに並べられた児童書のコーナーがあった。二人で懐かしい絵本を手にしては、これ好きだったよね、とか、これ怖かったよねと盛り上がった。


「ねぇ、サトルはどんな子どもだったの?」


 ふと、サトルの子ども時代の話をあまり聞いたことがなかったなと思い、聞いてみたくなった。


「読書好きなまじめな子だったと思うよ?頭良くてハンサムで足も速かった」

「それモテる小学生の条件じゃん(笑)。モテモテだった?」

「うーん……、まあ勉強ばっかしてたからな。俺、中学受験だし。毎日勉強させられてた記憶しかないよ正直」


 そう言うサトルの横顔は少し寂しそうに見えた。


「でも中学受験して、高校はそのままでしょ?それで大学受験?」

「うんまあそう。でも進学校だったから勉強ついていくの大変だったし、母親がかなり成績に厳しくて。楽ではなかったなあ学生時代」


 サトルにはそんな過去があったのだな、とサトルへの見方が少し変わった気がした。

 この人は、親が敷いたレールをきちんと生きてきた人なんだ、そして今も。

 それは、平凡にのらりくらりと生きてきた自分とは世界が違うよな、とどこかで納得もした。


 サトルとこうして一緒に過ごせて、知らなかった一面を知って、距離が縮まるかと思った。でも、サトルのことを深く知るほどに、自分とは不釣り合いだと現実を突きつけられそうで、少し先の未来が怖くなった。

 本当は一歩踏み出したいけれど、でもこのまま時間が過ぎればいい。自分でも収拾がつかなくなっていくこの気持ちを抱えて、自分はどこに向かっているんだろう……。


「なんか難しい顔して、どうした?そろそろお腹空いたよね?」


 サトルがぐっと顔をのぞかせて、優しい表情でこちらを伺っている。はあ、でもやっぱりこの瞬間のトキメキは抑えられない。


「うん、お腹空いた!ランチどうする?」


 舞い上がってはいけないと、自制しながら普通の返事をするので精一杯だ。わたし、期待してもいいのかな……?


 本屋を出ると、もう雨は止んでいた。


 ランチは、サトルが予約してくれていた代官山のカフェで食べることになった。

 サトルが仕事の電話で少し席を外した間に、溜まっているSNSのチェックをする。


 葵から連絡が来ていた。久しぶりに会って話したいそうだ。


 葵か……。あまり気乗りしない誘いに、返事を少し迷う。葵と、どんな話をすればいいのだろう。自分の近況をありのままに話したら、ドン引きされるに違いない。もしかしたら、親よりも小言を言われるかもしれない。

 面倒だなあ……。でも、断る気もしないし。


 返信を悩んでいると、サトルが帰ってきた。


「どうした?お友達?」

「うん、葵。久しぶりに会って話したいって。でもちょっと埼玉まで行くの面倒だなあとか思っちゃって」

「あぁ、埼玉の葵ちゃんね。良いじゃん、会いに行ったら?……ごめん俺この後仕事の予定入っちゃってさ……。お茶したら解散でもいいかな?本当ごめん」


「あっそうなんだ……」


 ズドンと気持ちが落ちる音がした。やっぱりわたしなんて……。気持ちが傾くのを抑えて、余裕の笑顔を向ける。


「じゃあ葵のところ行こうかなわたし!ちょうど良かった。全然気にしないで」


 サトルはごめんと何度も手を合わせたが、笑顔で気にしないでと言った。内心かなり落ち込んでいたが、ちゃんと理解のある良い女をやってのけた。


 ランチを食べて、軽くお茶をして、サトルとは駅で別れた。でも、こんなに一緒に過ごせたし、今日のデートは前進じゃないか?無理やりポジティブ思考を押し出して、重い足取りで埼玉方面の電車に乗った。

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