第12話 ベリーニ
どれくらい時間が経ったんだろう?それも曖昧だ。天井と壁の境が混ざって、ぼんやりする。シャンデリアの光がギラギラして、目に刺さりそうだ……
さくらが最初乾杯した手に持っていたのはベリーニだった。スパークリングワインと桃のピューレを合わせたお酒で、フレッシュな桃の香りがする、爽やかな飲み口のカクテルだ。桃の優しい甘さと、スパークリングワインの繊細な泡が口の中で混ざり合い、心地よく華やかな気分にさせる。こんなに美味しいお酒は初めてだ。さくらはすっかりこのカクテルの虜になり、極度の緊張も相まって、一気に飲み干してしまった。
「さくらちゃん、お酒強いんだね」
「あ、いえ……このお酒、すごく美味しくて」
「それは良かった。次のすぐ持ってくるよ。何がいい?」
「カシオレとかあります……?」
「はははっ。わかった」
空腹にお酒を流し込んだからか、いつもより酔いが回る。社長は、誰かに話しかけているのか自分語りをしたいのかどっちともつかない態度で喋り続けている。自分が目をかけていたモデルが大きいCMの仕事をもらったとか、この前買った新しい腕時計がどうのとか。周りの女性たちが相槌を打つのに合わせて、さくらも一生懸命聞いている素振りを見せる。上機嫌で、楽しそうだ。
「はい、お待たせ」
次にさくらの前に運ばれてきたのは、琥珀色のお酒に、パイナップルなどフルーツが盛られ、ハイビスカスの花が装飾された可愛いカクテルだった。
「これはなんですか?」
「マイタイっていう飲みやすいやつだよ。ここ、何でも作ってくれるんだよね」
一口飲んでみる。うん、甘くてフルーツの香りがして、まさに南国という感じだ。飲みやすい。ただ、少しアルコールが強く感じるが……。
さくらの前には、次々に食事やお酒が運ばれてきた。バーニャカウダ、チキンのサテ、フカヒレの小籠包……。周りの人がつまむのに合わせて、手を伸ばす。どれもお酒が進む味付けで、美味しい。
「いいねぇ。君も、どんどん飲んで食べて。丸々太らせてから頂こうって魂胆じゃあないから。はっはっは」
上機嫌な社長を前に、さくらは緊張で喉がカラカラだ。ついついお酒に手が伸びる。酔いに任せてこの場をなんとかやり過ごそうという思いが、余計にそのペースを早める。アルコールがどんどん体に溜まっていく。
……ふと気付くと、さくらは四杯目に手を伸ばしていた。店内は相変わらず男女の話し声や笑い声で賑わっていて、時々どこかで歓声が上がったりしている。社長も、新人アイドルの発掘プロジェクトについて持論を延々と語っていて、まだ夜は終わりそうにない。
目の前が少しゆらゆらしてきた。視界が揺れているのか、この部屋が揺れているのか。頭の中がぐるぐるして、お酒も、周囲の話し声も、お皿に残った食事の匂いも、みな混ざって境界線が曖昧になっていく。シャンデリアの光が、ギラギラと目に刺さるようだ……。
「すみません、お手洗いはどちらに?」
「そこの奥の通路曲がった先だよ」
さくらは、少し気分が悪くなって席を立った。分かっていたが、飲みすぎた。
個室に入ると、後から何人かトイレに入ってきた。この声は、おそらく社長の隣に座っていたショートカットの女性と、もう一人だ。
「まじうけるんだけど」
「でも社長、瑞姫が来ないってなって、ちょー機嫌悪かったのに、あの子来たら上機嫌になったじゃん」
「喋らないくせに酒もがんがん飲むし食べるし、見ててこっちが恥ずかしいわ」
「ぎゃはは、まじで分かってないと思うよ、あいつ。瑞姫がタダ飯食べられるからとか言って誘ったんでしょ」
若干頭が痛いが、さくらがネタにされているというのは分かる。すっと酔いが冷めそうになる。
「あの子、飲み会自体にも慣れてないよきっと」
「ね、知らないおっさんの前であんな強い酒どんどん飲んじゃって。度胸あるわ」
「埼玉には飲み会とか無いんじゃない?」
「は?馬鹿にしすぎwww」
「ねぇ賭けようよ。社長、いくら出すと思う?」
「ふふっ。一般人の芋だし、三万くらいじゃない?」
「え~タク代別?それならパパ活やったほうが稼げんじゃん?」
「パパ活ってそんな稼げるの?うちもやろうかな」
「やめてよ、ウケる」
笑いながら二人が出ていったのを確認して、そっと個室の扉を開けた。鏡に映る自分の顔も、ぼんやり揺れている。自分はこんなに芋みたいな顔をしていたのか、と泣きそうになる。
さくらは自席には戻らず、外のテラス席に向かった。ちらほらとタバコを吸う人はいるが、こんな寒い夜にテラスに出る人はいない。酔いを忘れてしまいそうなほど寒い。だが、もうこの会場には意地でも入りたくない。
ぼんやりしていた月が、次第にはっきり見えてくる。それと同時に、思考もくっきりしてくる。素性を知られているのに、このまま逃げるわけにもいかない。食い逃げは犯罪なのだろうか?何か、ここから上手く立ち去る方法はないだろうか。一生懸命頭を回そうとするが、回らない。何もかも、どうでもよくなってくる……。
「大丈夫かね、君。飲みすぎたんじゃないか?」
ぽんと肩を叩かれ、びっくりしながら横を向くと、社長がすぐ隣でこちらを伺っている。酔っていて少し距離間がバグっているが、近い。いつの間に……?
「外は寒いだろう。早く中に入りなさい」
そう言いながら、すっと腰に手を回される。ゾゾっと背筋が震える。
「いえ、あの、ちょっと酔いが冷めるまでここにいます」
体の向きをぐるっと変え、さりげなく腰に回された手をふりほどく。
「いやいや、そんな薄着で。風邪を引いてしまうよ。中で水でもゆっくり飲みなさい」
今度は肩にガシッと手を回される。男の人の力だった。心臓がばくばくして、背中を冷たい汗が落ちる。今にも吐いてしまいそうだ。これはもう逃げられない……。そう思った時、社長が耳元でささやいた。
「いくら欲しいんだ?」
……え?さくらは一瞬なんのことだか分からなかった。が、すぐに先程トイレで聞こえてきた会話を思い出す。
「これでいいか?」
さくらの手に、乱暴に一万円札が何枚も握らされる。頭は一気に酔いが冷め、今度は腹の底から吐き気が襲ってくる。
「やめてください、私はそんなつもりで来たんじゃないです!高橋さんに代わりに行ってくれって言われて来ただけで……」
急いで万札の束を突き返す。だが、受け取ってはもらえない。
「そうだろうとは思っていたけど。私がこんなに羽振りがいいのも珍しいんだよ?この後、もう一軒付き合ってくれるだけでいいから」
「いえ、もう飲めないです。もう、帰りたいです……」
ああ、やっぱりここに来たのが間違いだった。自業自得だが、こんなつもりじゃなかった。頭が痛くて、気持ち悪くて、また視界がぐるぐるしてきた。後先考えずに逃げるか、このままあきらめるか……。さくらの心が折れかけた時、テラス席の扉が開いて、男性が一人駆け寄ってきた。
「神代さん、遅くなりました。っと……さくらちゃん?」
「……あぁ、サトル君。仕事は終わったのかい?」
社長は誰にも聞こえないくらいの小さな舌打ちをして、さっとさくらから手を離した。
「サトルさん……?」
暗くてよく見えないが、短髪の黒髪に小さな顔、身長はさくらより十センチ程高いだろうか。二重のハッキリした目元に、整った鼻筋、薄い唇。この人も、万人に好感度を与える清潔感と安心感がある。ぼんやりとしか見えないから、何割か増しでイケメンに見えている気もする。
どうしよう、かっこいい……。
一瞬目が合うと、サトルさんは素早く状況を察知したらしく、マズイなあという顔をして社長のほうに向き直った。
「こんなところにいたら風邪ひきますよ。さくらちゃんは体調悪いんだって?タクシー呼んどいたから、荷物持って出ようか」
サトルさんに促され、店内に戻った。店内は暖かく、体に体温が戻ってくるようだった。ほっとして、緊張していた肩の力がゆるゆると抜ける。クロークで上着と荷物を受け取ると、サトルさんと一緒に階段を下りた。
「ごめんね、遅くなって。神代さんも悪い人じゃないんだけど、なんか今日は瑞姫とモメたみたいで、機嫌悪かったらしくて」
「いえ、わたしこそ飲みすぎちゃって……すみません、ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ相手してもらっててありがとう」
サトルさんは、控えめな笑顔をさくらに向けた。笑った顔も素敵だ。ついさっきまでの恐怖を溶かしてしまうかのような、ほんわか温かい気持ちが心を揺らす。だが、二人きりの時間は一瞬だった。
「じゃあこれ、タクシー代。今日のお詫びも含めて、これだけは受け取って?」
「そんな、こんなに頂けないですよ。食事代も払ってないのに……」
「ふふ、さくらちゃんは謙虚だね。他の子だったら、もっとくれって言われてるよ」
サトルさんは、さくらの手をそっと包んで、優しくお金を渡した。
「じゃあ、気をつけて。……あと、俺の事、友達追加しといて?」
「えっ……?」
ふっと笑うと、サトルさんは背を向けて駆け足でお店の階段を上っていった。
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