第10話 三月

 桜の開花まで、あと一週間ちょっと。三月も中旬を過ぎようとしている。枝先についたピンクの蕾がふっくらとしてきた。まだ朝晩は冷える日もあるが、日中は日差しが当たると心地よい温かさを感じる。


 さくらは相変わらずの毎日を送っていたが、職場は年度末のそわそわした空気感に包まれている。小さな会社なので海外転勤などという大移動はないが、それなりに異動は出てきてしまう。内示が出るまでの社員の緊張感は、さくらたち事務職にまで伝わってきて、この季節はドキドキしてしまう。異動が無いという未来が確約されているこの仕事に、この時ばかりはほっと安堵する。


 だが、年度末で皆が忙しくなってくるのに合わせて、仕事内容は少しハードになる。さくらたち事務員は会社の“何でも屋さん”みたいなところがあり、この時期は各部署から溢れた雑用も大事な仕事もどっと押し寄せてくる。さくらは朝から、新入社員の入社準備を手伝っていて、備品の発注や資料の整理に追われていた。


「あ、高橋さん、ちょっとこっち手伝ってもらえます?」


 来客対応から帰ってきた高橋さんを呼び止めた。今は猫の手も借りたいような忙しさなので、花粉症でやる気の無さが増した高橋さんの手でも良い。


「いいですけど、今電話取る人誰もいないみたいだけど?」


 本当だ。すっかり作業に夢中になっていて、電話番がいないことに気付かなかった。幸い今日は電話が鳴らないが、おそらく皆自分の仕事に手いっぱいなのだろう。

 高橋さんに電話を取ってもらうことにして、さくらは目の前の仕事を終わらせようと、気合いを入れ直した。


 印刷しておいた資料を順番に並べ直し、ファイリングしていく。新入社員の数はそう多くはないが、一人で片付けようと思うとそれなりに時間がかかる。ファイリングが終わると、資料をBOXの中に一人分ずつ入れていく。BOXの中には、新品の社員証や、ロッカーの鍵、名刺などがすでに用意されている。徐々に完成しつつあるこのセットは、入社式ではじめて新入社員たちに手渡される。

 桜が満開になる頃、緊張しながら背筋を伸ばして入社式に挑む後輩たち。どんな思いで、どんな希望を抱いてここに来るのだろうか。さくらは、自分が新入社員だった頃の、まだあどけない純粋な心持ちを思い出し、もう三年も経ったんだな~としみじみ感じた。


 気付くと窓から西日が差し込んでいた。最近は一日が終わるのがあっという間だ。大変だが、充実感もあって、少し楽しさも感じる。さくらは、仕事の後始末をはじめたところだった。


「青山さん、」


 一人で作業していた部屋に、高橋さんが入ってきた。高橋さんとは、お昼を一緒に食べてから少し距離が縮まったような気がしている。だが、こうして職場でわざわざ話しかけられることはめずらしい。なんか嫌な予感がする……。


「あ、高橋さん、今日は電話ありがとうございました」

「全然大丈夫、今日は静かな日だったし……」

「何か問題でもありましたか?」

「いや、今日わたし急用ができちゃってさ、飲み会断ったら誰か代わりの人連れて来てって言われちゃって……」


 高橋さんはまさに「テヘペロ」とでも言いそうな顔でこちらを伺っている。ちょっとした悪だくみをする顔も可愛くてずるい。


「そんなあざといチワワみたいな顔してもだめですよ」

「え~~青山さん一生のお願い!!今回だけちょっと代わってくれない??顔出すだけでいいから……!」


 やはり嫌な予感が的中した。嫌ですと断っているのに、高橋さんはさくらの後をひっついて離れようとしない。お母さんにダダをこねる子どもみたいだ。


「どうせ飲み会なんだから、一人くらい居なくてもいいじゃないですか」

「それがそうもいかないのよ……他の子にも聞いたんだけどみんなダメでさ……」


 たしかに、今日は金曜だから、これから予定がある子も多いだろう。だからって、なぜさくらが高橋さんの代役で飲み会に参加しなければならないのか。意味が分からないし、少し苛立つ気持ちも湧いてきた。

 くっついてくるチワワ顔を無視して、さくらは帰り支度をはじめる。今日はもう疲れたのだ。事情を知らない田中さんは「あら今日は二人で帰るの?仲良いわねぇ」なんて呑気なことを言っている。

 エントランスを出ても、まだ高橋さんはあきらめていないようだ。何か名刺サイズのチケットのようなものをポケットから取り出して渡してくる。


「お詫びにといったらあれだけど、これ、友達のネイルサロンで使えるやつ」


 そう言って渡されたのは、表参道のネイルサロンの紹介チケットだった。ここは有名で、よく雑誌などでも取り上げられているのでさくらも名前は知っている。


「一年お友達価格で通えるの、どう……?」


 そんなうるうるした瞳で見つめられたら……。


 さくらはうるうるした美少女の前に根負けした。相当困っているようだし、顔を出すだけでいいなら行ってあげるか……。未知の飲み会への恐怖と、隠しきれない下心が沸き上がり、何とも言えない悪酔いのような気分だった。


「今日だけですよ?顔出したらすぐ帰りますからね!」


 高橋さんはぱあっと表情を緩ませ、夜に咲く花のような笑顔を見せたかと思うと、また悪だくみをする少女のようになった。


「本当にありがとう青山さん!!この恩は一生忘れない!」


 そう言ってさくらの手を握って大袈裟にぶんぶん振り回すと、ぱっとスマホを取り出してお店の地図とURL、幹事らしき人の連絡先を手際よく送信した。あらかじめ準備していたのではないかと思ってしまう。これは何かの策略に乗せられているのでは……と疑いをかける隙もなく、高橋さんは「じゃ、よろしくね」と言って足早に去ってしまった。


 送られてきたお店の地図を開くと、場所は六本木だった。地下鉄の出口から徒歩五分ほど。お店のURLを開くと、高級シャンパンが山盛りに並べられている写真が出てきた。


 おぉ……。ごくりと唾を飲み込んだ。


 “ブブっ”


 震えるさくらの手の中で、スマホが震えた。


『さくらちゃんだね?何時ごろ来れそう?』


 友達ではないユーザーからのメッセージです、と警告表示が出た。メッセージを送ってきた人物の名前は「サトル」となっている。さっき高橋さんから送られてきた幹事と思われる人の名前と一緒だ。高橋さんが、向こうにもさくらの連絡先を共有したのだろう。仕事が早くてうらめしい。


 ここにきてまださくらは迷っている。六本木で、知らない人たちの飲み会に混ざるなんてどうかしてる。そこら辺の野良犬のように扱われ、惨めな思いをするだけだ。いや、それ以下かもしれない。いやでも、嫌だったら帰ればいいだけじゃないか。


 行くか、このままバックレるか?……


『もう仕事終わってるので、集合時間には間に合います』


 気持ちとは裏腹に、指はすらすらと返事を打ち込んだ。


『早いね。いつでも都合良いタイミングで来て。じゃあ、待ってる』


 さくらは、サトルという人を友達登録しないまま、スマホをしまった。たしかに、今から行くと早すぎて、やる気ある人みたいだ。家に帰って着替えて出直したいが、それも微妙な時間だ。さくらは、カフェで少し時間を潰してから、参戦することにした。

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