-6- 其の弐

「あの、もう一個お詫びの品がありまして」

「なに?」

「えっと、先生のところに今ある、謎のクラゲのスケッチ」

「なにそれ!」


 彼女は、少しだけ興奮して、すぐに紙を覗き込む。


「なんだろ」とか

「見たことないけど、ベニクラゲっぽい」とか

「でも、ちょっと違う」とか


 そんなことをぶつぶつと呟きながら、ずっとクラゲを見ていた。


「ちょっと、それ取って」

「え?」

「棚の中に、スケッチブックがあるから」

「分かった」


 僕が急いでそれを取り出すと、スケッチブックいっぱいに僕が描かれていた。


「……」

「…………」

「あー、これ貰っていい?」


 彼女は、顔を真っ赤にしながら、それでも笑ってくれた。

 笑いあった。

 それから何日も。

 何日も。

 何日も。

 彼女がいる病室で、僕は語る。彼女は聞く。

 僕がただただそばにいて、彼女は眠っている。

 それだけのことが幸せだった。




 そんな日々も、長くは続かない。

 終わりの日が近づくにつれて、彼女はぎゅっと僕の袖を掴む時間が増えた。


「お願いがあるの。いい?」

「いいよ、何でも言って」

「少しだけ。ほんの少しでいいの」

「うん」


 彼女は僕の眼を見つめる。


「少しだけ、私も遠回りするのを許してくれる?」


 僕は、彼女の言葉を理解し頷く。

 そんな彼女にキスをされた。

 優しく、儚いキスだった。



       ◇



 その日は、少しばかり天気が悪かった。

 曇天の夕暮れ、寂し気な空だった。


 はるか西に赤い陽が、かすかに見えるばかりになるころ。

 彼女は、苦しそうに息をしていた。

 弱々しい呼吸が徐々に弱まっていく。もう終わるのだと気づいた。


 ほんのすこしの、だが久遠とも感じられる、永くて短い時の果てに――彼女は、大きな痙攣を起こして、そして静かに死んだ。


 彼女の死を痛感し、ぼんやりとした頭脳が理解する。

 そしてやっと心電図が無機質な音を立てた。

 ――――――――。


 ああ、彼女はいってしまうんだ。

 彼女の死を知っても、僕はまだ目を背けずにいられる。

 僕は、僕の中の『僕』を確かに理解する。

 その『僕』は彼女の死に深く傷ついて悲しみ嘆く。


 けれども、

 僕は閉じた瞼の裏に、蒼き宮殿を描く。



「大丈夫、ほんの少しの間だよ」


 僕は、眠りゆく彼女の額を撫で、優しく声をかけた。

 ありがとう。

 いつまでも、君を愛している。

 



 

 ふと彼女の閉じられた瞳から、一滴の雫が落ちかけているのに気づいた。

 僕は、彼女にキスするようにその雫を口に含む。


 ほんの少し、そう言っていた。

 少しだけ一緒にいよう。

 いつまでかは、君に合わせる。

 好きなだけいてくれていいよ。

 ずっとでもいい。

 きっと楽しい日々は、思ったよりも短いと思うんだ。


                   FIN

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