‐6‐ 其の壱

 僕は、静かに病室のドアをくぐる。

 眠っている彼女の横に座った。こっそりと気づかないうちに。

 まだ彼女は眠っている。

 呼吸器の奥で、少しだけ苦しそうに息をしていた。

 そんな顔を僕はいつまでも見ていた。

 



「ねえ……ねえってば」


 彼女の声で目を開ける。

 眠っていたらしい。


「もう別れるって話だったんじゃなかった?」

「言ってたね」

「じゃあ、もう来ないんじゃない、普通は?」

「普通は、そうかな?」

「変だよ」

「変かな」

「変……というか、犯罪なんじゃ……」

「そうなの?」

「そうだよ」


 っ――、こらえきれず噴き出す。

 ルナも同じように笑っていた。

 ひとしきり笑って、彼女も苦しくなったのか、ふうと天井に息を吐いた。


「ごめん、君の気持ちを考えてなかったなって思っている」

「……」

「君は、僕のことを考えていたんだなって思う。そして自分のこともちゃんと考えていたんだって。それを理解するのに、だいぶ時間がかかっちゃったんだ。僕がただのバカだったんだなって、今だからこそ思う」

「反省するには、少しばかり短い期間かな?」

「君がいなくなるまでっていうのは、僕には長すぎる時間なんだよ」

「それは私にだって長い時間だよ、まるで熱い鉄板の上に手を置いた一分間みたいに」


 彼女は自分の言葉に笑った。


 苦しい日々に、僕らの時間は相対的だ。

 幸せな日々は、彼女には短すぎるのかもしれない。

 彼女に幸せな時間を与えられるのならだけれど。


「僕は、ついさっきまで旅をしてきたんだよ」

「は?」


 何を言っているんだ、こいつって顔。

 僕は真面目に話をする。

 本当に僕がさっきまで経験していたことを一から百まで、すべてを。

 君はたぶん本当の事だって思ってはくれないし、こんな時に何をしてたんだと思うかもしれない。けれど、僕はただ正直に、一切の嘘も混ぜずに話をする。僕が偶然にも例の機械に出会って、海を渡ったことも。

 いや、それよりもきっかけは彼にあったことか。

 美しく、不思議な彼。

 僕は、自分の旅を語って聞かせた。

 彼女は、それでも許してはくれなかった。


「じゃあ、これなら?」


 僕は、ケータイを取り出す。


「朝日さんの番号って、何番だったっけ?」

「やめて。そんなことしないで」


 昔聞いていた番号が消されずにケータイに残っていたようで、僕はその番号に電話を掛ける。

 ――。


「朝日さんですか、ルナがやっぱり許してくれなくて」

 ――。


「ええ。変わります。そのつもりです」


 僕は、スピーカーにして、テーブルの上に置いた。


『ルナ』

「……うそ」

『こっちからかけてるの、ちょっとだけ無理をしているから手短にね。ちゃんとタケルくんのこと許してあげてね。残される気持ちが、あなたにも分からない訳じゃ……って私が言うことじゃないわね。ごめんなさい』

「いいの、そんなことは。もっと違うことを話したいのに、なんて言えばいいか……」

『あなたが話すべきは、私じゃないんじゃない? 辛い時も、今まで傍にいてくれたのは誰? 私が死んでからも、あなたを支えてくれたのは?』

「タケル……」

『だから、絶対離しちゃいけないって言ったでしょ』

「うん」

『私との思い出話なんて、あとでもできるから、今は時間が尽きるまでずっとタケルくんといなさい。わかった?』

「わかった」


 彼女は怒られた子どものように、叱られた後のように泣き、それでも――清々しく笑っていた。


 僕も泣いていた。

 互いにぐしゃぐしゃの顔を見ながら、僕らは笑った。

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