-2- 其の漆

 さながら冷凍庫かと思った。

 研究員たちは、全員平然と普段着に白衣という格好で働いているが、絶対に何か着込まねばやっていられない。ロシアに行くのだし、という理由で大げさなコートを持ってきていて正解だった。


「みんなは、あれでちゃんと防寒の下着を着ているからね。細かく時間を決めて、温かい部屋に入るという休憩もある。あれがロシア人には普通ってことじゃないよ」

「ちゃんとした防寒の服装では駄目なんですか?」

「一応医療を行うものとして、分厚い作業委では十分に力を発揮できないでしょ?」

「医療?」


 アナスタシアは、少し笑う。


「と言っても、最終医療というのに近いのだけどね」


 彼女は、作業中のスタッフの元へと向かう。

 僕もそれに同行する。

 そのスタッフの前には、大きなカプセルのようなものがあった。人が入れるようなサイズの繭のような水槽で、中にあるライトでぼんやりと照らされているが、周りに付いた分厚い霜が、すりガラスのように中身を覆ってしまっている。何かがあるということだけが、辛うじて解かるくらいだ。

 水槽横のパネルに細かなデータが出ているのか、研究員はそれと睨みあっている。

 アナスタシアは、研究員に何か話しかけ、おもむろに水槽の霜をこそぎ落とす。


「おわっ!」


 僕は、悲鳴を上げて後退る。

 そこには、人の顔があった。

 苦悶に満ちた、人の顔。

 死んでいるような顔。


「死人の顔は、見たことがないかい?」

「いえ――」


 僕の頭を、彼女の苦悶がよぎる。


「――ありますけど……、まさか本当に死体なんですか?」

「本当に死体だよ。彼の名は、ツァーリ。おはよう、元気?」


 アナスタシアは、カプセルに話しかける。

 すると、研究員が向かい合う機器からノイズのような音が流れる。

 まるで、言葉のような音が。


「恨み事しか言ってくれないんだ、彼」

「彼って……」


 僕は、室内を見渡す。

 いくつものカプセルがある。

 あれが全部?


「どういうことですか?」

「簡単なことだよ。水によって死者と繋がる機会が得られるなら、死にゆく人間を水の中に閉じ込めてしまえばいい」

「……」


 僕は、言葉を失う。

 間違った結論ではない、と思う。

 人の道から、恐ろしく外れているという以外は。


「今日もこれから製作の予定があるのだが、見学する?」


 僕は頭の中を必死に動かしながら、真剣に考えた。

 必死に考えたうえで、僕は首を縦に振った。



 

 運ばれてきたのは、一人の青年であった。

 傍らには、医師や看護師が付き添っている。

 ベッドに眠る男は、意識がないみたいだ。目を瞑ったままで、かすかに呼吸器の中が曇るのだけが分かった。それはたしかに、生きた人間だった。

 ベッドがカプセルの横にたどり着く。

 研究員たちが、彼を抱え起こす。

 男の服はすでに脱がされていて、赤黒くなった床ずれの跡が痛々しく映った。

 カプセルの横に移動式の階段が運ばれてきて、抱えられた青年は、研究者たちの手で上に運ばれる。動かずにいればすぐにでも凍えるほどの寒さ。裸の人間には、地獄だろう。いや、それどころじゃないのか。触れただけで皮がくっつきそうな鉄の階段を上り、三人はカプセルの上へとたどり着く。


 まさか――僕は一瞬で嫌な予感がした。

 カプセルの上の部分は、すでに開いていたのか、男は容器の中に落とされた。

 ベッドで意識なく眠る様子から、病状はかなり進んでいる患者なのだと分かっていた。それが中に落とされ、さらに上の蓋が閉じられる。水を溢れさせてまで、閉じられた蓋。中には空気の存在するところはない。

 すると瀕死の状態であった男も、水の中にいて、呼吸ができないということに気づいたようだ。自分がどうしてこのような状況に置かれているのか、そんなことも分からないとでもいうように暴れる。

 病人の体力の限界を、明らかに超えていた。


「止めろ」


 僕は叫んでいた。

 すると、アナスタシアは冷たく言った。


「こうすることが望みなんです」

「誰の? 彼は、口も利けないだろ」

「奥様の望みです」

「人を、殺すことが?」


 僕の言葉に、彼女ではなく、傍にいたセルゲイが反応する。

 僕の首に腕を巻き付けると、どこから取り出したか分からないナイフで脅される。


「失礼な口を閉じろ」

「……」


 僕は静々と手を上げる。

 そんな中でも、男はまだ藻掻もがいていた。

 最期の抵抗のように。

 そして、どこにそんな力があったのか、まるでガラスを割れんばかりの力で叩き、酷いけいれんを起こすと、二度と動かなくなった。


「これで完成です。奥様を」


 彼女の合図で、厳重なマスクと高そうなコートを身に着けた女性が入って来る。

 手に高級そうなハンカチを持って、必要もなくマスクの口元に当てていた。


「これで、永遠に話せますよ」

「ありがとう」


 アナスタシアの言葉に礼をいうと、機械の横のまるでインターホンのようなスイッチを押す。


「イワン?」


 ロシア語は、分からない。

 名前だけが聞き取れた。

 彼女は何かを聞き、彼が答える。

 男の声には、怒気が籠っている。

 それが彼女には、理解できていない。

 当然のことなのに、分かっていないのだ。

 自分が殺されたのなら、それを声にできるなら、誰だって怒るのに。

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