-0- 其の参
それからも何度もルナとは遊んだ。
けれど、いつしか朝日さんは疲れているような顔をしていることが多くなり、次第にリビングに降りてくることが少なくなった。詳しい話は聞かなかったが、父は僕に病気なのだと説明した。重い病気なのだと。
僕は、それでも朝日さんの病気は治るものだと思っていた。
ルナも信じていたと思う。
その日までは。
父が僕に出かけようと言い、僕はいつも通り先生の家に行くと信じていた。
けれど、車はいつもとは違う道を走り、着いた先は病院だった。
「朝日さんが入院してしまったらしい」
「入院?」
「思ったよりも病気が重かったんだってさ」
「でも……」
僕の暗い顔を察したのか、そうでないのかは知らない。
けれど、父は僕の頭を撫で、こう言う。
「お前よりも、ルナちゃんの方がもっと悲しい。だから、元気づけてやるんだぞ。それが男の使命ってものだ」
「わかった」
僕らが朝日さんの病室に行くと、朝日さんはベッドを起こして座り、ルナはその横で彼女に見せるようにして、クラゲの絵を描いていた。かわいいクラゲの絵だった。
僕はすぐにルナの隣に座り、彼女の絵に「かわいいね」と言った。
いつもとは違って、彼女は静かに頷く。
ルナはずっと敏感に世界の流れを感じていたんだと思う。
朝日さんの方は、とても顔色を悪くしていたが、無理にでも元気そうに振舞っていた。
父も「寝ていて大丈夫ですよ」と声をかけた。
しかし、彼女は首を横に振る。
「私は、もっと先生に聞いてもらいたい話があるんです。まだまだ話し足りないの」
「寝てないとダメだよ、朝日さん」
僕も無理している彼女に言う。
彼女のいつの間にか細くなった真っ白な手が、僕の髪を優しく撫でた。
「タケルくん、ずっとルナの傍にいてやってね」
「わかった。絶対に約束する」
「ルナ、あなたも彼のこと、離しちゃダメだからね」
「うん」
そうして、彼女は話を始めた。
僕も、父もその話を聞いた。
物心つく頃、この話を思い出して、彼女の家は何か宗教をしているものだと思っていた。
けれども、僕が大人になるにつれて、さらに先生の学びを知るうちに違っていたことに気づく。
朝日さんはずっと、この世の誰よりも世界の真理を知っていた。
その真理は、時に人の常識よりも大切なのだと常々言っており、彼女もまた大きな手術を伴う治療よりも、短い人生を選んだ人だった。(これはルナの死を前にして、ぼんやりと思い出したことだ)。真理に触れた彼女は、それゆえに恐ろしいほど早くに向こう岸へと誘われたのかもしれない。
「もしも私が向こうへ行く時には、一つ私のケータイも壊してくださらないかしら、大きく傷を入れて水に落としてください。一緒に連れて行くことができるのなら、またわたしと話せると思うんです。向こうに基地局があるとは思えないんですけどね」
「……冗談でも酷いですよ、朝日さん」
先生は、そう言ってたしなめたが、彼女の顔は真面目だ。
「私の家だけが、この話をずっと本当だと信じてきたんですよ。水の中に楽園があるんだって、その先で人はずっと生きるんだって。だから、日本の人たちは向こうの世界を彼岸と呼ぶ。それに違う宗教では死後も私たちとともに生きるという。極端な話で言うと、向こうでは七人の処女に囲まれるなんても言うでしょう? それがすべて事実なら……それが同時に起こりえるなら、私たちの死なんてものは些細なことでしかないはずなんです。違いますか?」
「そうかもしれないね。でも、それは達観できるからだよ。残された人には、深い悲しみでしかない。そうだろう」
「そうかもしれませんね」
彼女の手が、先生の方へ伸び、先生もその手を強く握った。
「悲しい顔をしないでください。そんな顔されたら、先生の奥様にどんな顔をして会えば……」
「いや、そんなことは良いんだ。僕は、君を――」
「駄目ですよ。先生、からかわないでください」
先生は、はっとした顔をした。
そして、苦しいような、悲しいような表情になる。
「約束。守ってくださいね」
「ああ……、分かった」
「ごめんなさい。今日は疲れたわ」
彼女はベッドを戻してもらって、目を閉じる。
僕らは部屋を後にして、ただただ無言でそれぞれの家に帰った。
それから三日後のことだった。
朝日さんが、亡くなったのは。
僕は彼女の死に目には会えず、ルナと出会ったのは朝日さんの葬式でのことだった。
悲しみに襲われつつも、それでもその半分くらいをまだ理解できていない彼女は――それは僕も同じだったけれど――涙を流せずにいた。
そんな僕らに先生から、一つの小さな袋を手渡される。
僕の方には、カフリンクス。
いつかの日か彼女が身に着けていたクラゲのイヤリングだった物がリメイクされていた。
彼女には、ブローチ。これもクラゲのデザインだ。
ルナのために、僕らが離れないようにと思ってくれたんだろう。
ルナと僕は、それを感じて朝日さんがいなくなったことを理解し泣いた。
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