-1- 其の肆

 僕らは、知らぬ間に一軒のカフェにいた。

 カフェの端の席、僕らは小さな二人掛けの席にいて、薄明りの中で向かい合っていた。

 窓の外を見れば、先ほどの犬が黙って座っている。首輪に散歩紐が付いていて、その先は近くの柵に括り付けられている。

 まるで、彼女のように。

 自由には、どこにも行けない。

 迷子になってしまっていたらしいけど、飼い主なんだろうか。


「生き物は死んだら、どこに行くと思う?」

「天国かな。または地獄に」

「そうして、どうするの?」

「ん? どうするかって?」


 そう。

 彼は短く呟いて、目の前のカップを手に取った。

 白い泡が溢れんばかりに乗った、カフェ・ラテ。

 今、あったっけ?


「君の分もあるよ?」

「えっと、お金は?」

「大丈夫」


 僕は目の前にあるカップを手に取る。

 温かい。どこか化かされているようにすら感じるが、これは本物に間違いない。甘いミルクに、深いエスプレッソの香りたち。口元に運ぶまでに泡が揺れる。口を付ければ、温かさと甘さが流れ込んでくる。


「本物でしょ?」


 さっきから心を読まれているようだ。

 僕のことよりも、まずは自分のことを話してほしいのだけど。


「ボクは、ソラ」

「……ソラ」


 何気なく繰り返す。

 でも、何だろう。僕は、そう誰かを呼んだことがあった気がする。


「命の終わり……いや、命に向こう側があったなら、君はどうするの?」


 彼は質問に戻る。

 僕は答えを考える。

 そこまで考えたことはなかった。

 当たり前に、日々は続くと思っていた。

 そして、死で終わりを迎えるんだと。

 死に向こう側、天国――または地獄で生活しないといけないというのなら、僕たちは死ぬ前にしっかりとした覚悟をしないといけないはずだ。なによりも強い覚悟を。こうして死の前に立って、僕が何も考えていなかったことに気づく。

 それでも必死に考えて、素直な思いを頭に描いてみる。

 思い描くのは、古くから聞くようなたわいもない話。閻魔の審判でも何でいい。

 所詮は、罪人の僕に選べる道なんかない。


「地獄に行くんだろうな」

「いや、人は地獄に行かないよ」

「……なら、天国に?」

「天国もない。君も、彼女も、あの子も」


 そこでソラは、外の犬を見た。

 彼もまたこっちを見つめている。


「誰も彼も、人も動物も、行きつく先は一つなんだ」

「じゃあ、どこに?」

「ここだよ」


 彼はテーブルの上のコップを手に取る。

 お冷の入ったグラス。溶けかけの氷が浮かんでいた。

 さっきまであったっけ?


「水?」

「いや、違うよ。見てみて」


 ソラに言われるがままに、グラスを覗き込む。

 中には水と、それを覗き込む僕らが見えるだけだ。


「もっと寄って」


 ソラと顔が近づく、その顔はキスをしそうな距離にまで。

 そして、そこで気づく。

 水の中が揺らぐ。

 それはどこまでも透明で、色はない。

 けれど、まるで水の中に濃度の違うガムシロップを垂らした時のように、靄のようなものが線を水の中に構築していく。線は次第にはっきりと明瞭な形となって水の中に現れる。

 荘厳な宮殿だった。

 インドのタージマハルのような、水の中の宮殿。

 水の中の城……


「この国の人は、昔からこう呼ぶんだよね、『竜宮』って」

「……竜宮」

「ここが命の行きつく先、すべての死の終着駅」

「それからどうなるんだ。そこに行きついて」

「誰も知らないよ、誰もまだ」


 そして、まだ君にも知る必要のないことだ。

 ソラは、静かに言ってグラスから手を離した。

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