-1- 其の壱

  「別れたい」


 彼女の口が動き、そんな言葉を発した。

 人工呼吸器の内側のくぐもった声だが、彼女の眼は決意をもって僕に告げている。

 僕はすぐさま理解した。彼女の思慮を。


 彼女の名は、日輪ルナ。


 僕のガールフレンドという意味での、彼女である。

 彼女はベッドに繋がれている。

 呼吸器も、心電図も、点滴も、何もかもが彼女を縛り付ける。ベッドにではない。もう余命幾ばくもないという現実に、だ。心電図は、今も心許ない音を立てて動いている。無機質で冷たくて悲しい音色。死が近づいている。


「別れて……ほしい」。

 もう一度、言われた。


「……」


 僕は分かっていた。

 確かに、理解わかっていた。

 死が二人を分かつまで。

 

 その話は、もっと先の――せめて大学を卒業して、結婚して――まだまだ先のことだと思っていたのに。ルナの死は、こんなに近いもので。僕らの終わりは、こんな残酷なものだと誰が考えていただろう。

 

 心で納得しながらも、頭は拒絶し続ける。

 

 ダメだ。ダメだと叫び続ける。

 

 彼女と別れることではない、彼女を手放すことをだ。

 彼女を無くすことではない、彼女を亡くすことをだ。


「嫌だ」

 はっきりと言った。


「君は――一人で死ぬっていうのか?」

「そう。忘れて。あなたは、生きて」


 彼女を忘れる?

 そんなことが、できるものか。


「君を失いたくない」

「失わなくても、私はいなくなるの」

「だったら、なおさら。大切な君を、二度失わせないでよ」

「私は、『私に囚われたあなた』を先に――そのまま先に行かせたくない」


 彼女は自らの手で呼吸器を外す。


「だから、忘れて。これから死にゆく私にも、これから生きていくあなたにも、どちらにもいらないものでしょう?」


 彼女の左目から、涙がこぼれる。

 これから死にゆく彼女の思いに、僕はたじろぐ。


「決意は、変わらないの?」

「ええ」


 荒い息の中で、強く彼女は肯定した。

 僕は、彼女の言葉を否定したことはなかった。

 いつも彼女は、強く意見を貫いた。

 あの時も……


 

        ◇


 

 ルナを苦しめ続けた病気は、本来であれば数十年前に根絶されるはずだったものだ。


 体の中のあらゆる臓器が恐ろしい細胞へと置き換わっていく病気で、医学の進歩はその病との戦いだったとも言える。多くの人間の命を奪ってきた病は、やっと人間の歴史から消滅する――はずだった。治療法がもう少し簡単なものであれば。

 造血細胞に異常をきたした彼女が助かるためには、細胞の根幹たる脊髄に一つの装置を取り付ける手術を受ける必要があった。小脳から延髄、脊髄を補助する機械を取り付けることで、確実に健康になるはずだった。

 健康に、正しく生きられるはずだった。


「手術ですか?」


 ルナが診断を聞いた日、僕も彼女と共にいた。

 妙に落ち着いた様子で、彼女が「ついてきてほしい」と言ったのを覚えている。

 彼女の親であり、僕のせんせいでもある茜原教授と共に、三人で診断を聞くことになったのだ。


「そうです」と担当医は説明する。「もしも手術が行われなかったとすれば、あなたの五年生存率は三〇パーセントと言える。それでほどまでに危うい状況だとお考え下さい」

「そうなんですね」

「……なんだか、他人事みたいな反応ですね」


 僕は、彼女の顔を覗き込む。

 その顔は、ほんの少しほほ笑んでいるようだ。

 どうして?

 そんな顔ができるの?


「だって、手術する気ありませんから」

「え?」

「え?」


 僕と医師の声がはもる。。


「私は、手術を受けません」


 もう一度言った。


「どうして、ですか?」


 主治医が信じられないものを見るような目を向け、何か聞き間違えたかとでもいうように質問した。

 僕と彼は、同じような思いだっただろう。

 彼女は、何を言っている?


「受けることができない理由があります」

「それは?」

「私の信じる〝神〟は、手術を否定するからです」

「宗教……ですか」

「なあ、それはどうしても優先するべきことか?」


 僕は堪えきれずに聞いた。

 今度は、彼女が僕の顔を覗き込む。


「〝生きる〟には、必要だよ」

「でも、君は死ぬんだ」

「死ぬまでは生きるでしょう? だから、先生、私に手術はしないでくださいね」


 彼女は、確かにほほ笑んでいた。

 僕は、先生のほうを見る。

 彼は、表情を崩すことなく、黙って聞いていた。

 そして、先生は彼女の意思を受けることにしたのだった。

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