第六章 雪に、沈む。

第1話

 瞼をうっすらと開けると、ぐしゃりと顔を歪ませている沙羅の顔がみえた。その更に奥には傷んだ木材と天井がみえる。意識がまだはっきりとしなかった。霧のようなものを通して世界をみているかのようで頭がぼんやりとする。状況を呑み込もうとしていると、身体を揺すられた。「新奈っ、新奈っ良かっ……た」私の胸に顔を埋めながら、沙羅が嗚咽を漏らしている。続けて、湊や父の声が鼓膜に触れて、そうか私はこちらの世界に戻ってきたのか、と理解した。夢をみていた。一瞬だけそう思いかけて、いやと思い直す。あれは夢じゃない。現実だ。私ではない私の、人生をみていたのだ。ついさっきまで私がみていたものは、きっと彼女の目を通したもので、触れたもの、感じたことも彼女というフィルターを通して私の身体や心が認識したものだろう。全てが、リアルだった。今みているものと、ついさっきまでみていたものに差異はない。考えれば考える程にそうとしか思えなかった。私は、別の世界にいた。


 「今から私がみたものを全て話す」


 全員に視線を配りながら私は順を追って伝えた。全てを話し終えるまでにどれだけの時間が経ったのだろう。窓の向こうはずっと薄暗くて時間の経過を推し量ることが出来なかった。はらはらと舞い落ちてきた雪の勢いが少しだけ増している気がした。静かだった。


「……俺が、もう一人」


 静寂を破ったのは湊だった。だが、目は虚ろで、目線を下に向けてはいるが腐った床に目をやっているようには見えなかった。


「そう。湊は、あっ向こうの世界の湊はね、私のことをずっと助けてくれてた」

「そう、なのか」

「うん。今も私の隣で車を運転してくれてる」


 話している内に意識がはっきりしていき、私はもう一人の私の世界を垣間見ることが出来るようになってることに気付いた。彼女の思考が、感情が、五感全てで感じたものが、意識を向けただけで私の中になだれ込んでくる。不思議な感じだ。以前の私とは違う気がした。雪に怯え、死にたいとすら思っていた自分が馬鹿みたいだ。


「お父さん、聞きたいことがあるの」


 あぐらをかいたまま、両手をつき何やら天井を眺めている父に言った。私の話を聞き終えてからずっとそんな調子だった。返事はない。


「ねぇ、お父さん」


 先程よりも少しだけ声量をあげて再び声をかける。「悪い。なんだ」と父はやっと聞く体制を取ってくれた。


「世界がもう一つあるなんて信じれない気持ちも分かるけど」

「いや、信じるよ」


 全てを言い終える前に食い入るように父は言った。


「母さんが、今のお前と同じようなことを言っていた。あれは今みたいに心が完全に壊れてしまう前だった」


──天使の歌が聴こえる。それが頭から離れないの。

──私の子供はこんな子供じゃない。そもそも顔が違う。

──私はちいさな女の子を手を引いた。年は五歳で花がらのワンピースを着せると、とっても喜んでくれたの。嬉しかった。そんな感情が込み上げてきてようやく分かったの。この子は、この世界の私の子なんだって。


「あいつはおかしかった。少なくともお前達が生まれてからのあいつは、もう俺の知ってる母さんじゃなかった。だから、どんな言葉もまた幻覚をみてる。また妄言を吐いてる。そんな風に片付けて俺はあいつに背を向けた。だけど」とそこで父は言葉を詰まらせ「あいつは幻覚なんか見てなかったんだな」と顔を歪ませた。


 湿り気を帯びた空気で満ちる中、それを縫うように私は声を放った。


「お父さん聞きたかったことはね、私と湊って本当に双子だった?」


 向こうの世界の私が疑問に思っていたことを、代わりに私が問い掛けた。瞬間、潮が引いていくように父の顔つきが変わった。


「どういう意味だ」

「私達は元々四つ子だったんじゃないの」


 目を見開いたその反応から私は悟った。


「じゃあ本当だったんだね」

「新奈、待ちなさい。誰からそのことを聞いた」

「向こうの世界の私がある仮説を立ててたの」と彼女が生まれる前の記憶がある事や、その時に亡くなった子が白い螺旋階段を通りひかりの先に向かったことを伝えた。それから扉のことも。


「つまり、母さんのお腹の中で二人の子が亡くなったのと同時期に、向こうの世界にいる新奈と湊くんの兄弟が亡くなった事で扉が繋がったって事か」

「って、向こうの私は言ってたけど、私は違うと思う」


 彼女の世界にいた時からずっと思っていた事だった。右手を持ち上げ、あの穴の写真をみせてと父に携帯を求めた。電子音が鼓膜に触れてから程なくして、液晶画面にあの穴が映し出される。黒よりも更に深い色の穴の周りにはおびただしい数の雪忘花が咲いている。何度みても異様な雰囲気だ。


「私は写真でしかみたことがないけど、お父さんはこれをみて別の世界のものだって感じたんでしょ?」


 父が小さく頷いた。


「私は写真ですらそう感じる。だから、思ったの。この穴自体がこちらと向こうの世界を繋げている扉なんじゃないかって。そして向こうの世界にいる私は、偶然なのか必然なのかそれは分からないけど、亡くなった人が次元を移動する瞬間に干渉してしまった。だから二つの世界を認識出来るようになり、この世界で生きる私も同じようになってしまった」 


 そう言うと私以外の全員が口を閉ざし、頭を抱えた。無理もない。別の次元の世界がもう一つあるなんてすぐに受け入れられる話ではない。その空気を破るように口を開いたのは父だった。


「とにかくまずは扉だ。それを塞ぐしかない」


 まさに鶴の一声だった。その言葉に全員が納得し顔をあげた。父の言う通りだ。あの穴を塞がなければならない。あれさえなければ雪忘花はこの世界には存在しえないのだから。私達はその考えに至っただけだったが、父はそれから何故雪忘花だけはこの世界から消し去られなければならないのかということを話してくれた。


──全てを、終わらせにきた。


 その言葉の持つ本当の意味には、私達が約十八年もの間暮らしてきたあの施設も含まれていた。


「今から話すことは、篠原貴一しのはらきいちというある男の研究日誌に書かれていたことだ」


 父は眉間に皺を寄せながらそう言った。村の言い伝えによると、あの穴が突如として森の奥深くに現れたのは今から百二十年程前だという。それと共に雪が降る日には不思議な事が起きるという噂は一瞬にして広まった。小さな村だ。その噂が広まる速度はウイルスよりも早かったのだという。そして祖父母がこの村に暮らし、自身はとある製薬会社を経営していた篠原貴一という人物の元へとこの話が伝わった。


──雪の妖精が現れるようになった。

──全てを呑み込む穴が生まれた。


 人によっては笑い飛ばしてしまうようなそれらの話は、篠原にとっては大変興味深いものだった。それ以前から神という存在を崇め、スピリチュアル系の話には目がなかった篠原は、実際に村へと足を運び穴を目にする。そして周りに咲き乱れる水色の花弁を持つある花に心を奪われてしまった。雪が降る日にだけ花を咲かせるという特性を持つそんな花は見たことも聞いたことがない。この花は、特別だ。何かある。自らの信仰とは別に、研究者としての血が篠原を駆り立てた。けれど、村の人間達が水縹草と呼ぶその花は村から持ち出そうとすると、次第に枯れていき、やがては灰になってしまった。


 篠原は冬の帳村に研究施設を持つことにした。修道院として使われていた空き家が村の中心から少し離れた場所にあり、資産を投じて改築し拠点を設けた。


 研究を始めてからすぐに水縹草の持つ特性は分かり、篠原はこう考えた。人は一生の内で覚えておきたい記憶というものは、どれくらいあるだろうか。勿論、脳は時間の経過と睡眠という一種のデータの処理を行うことにより記憶を消去してる。だが、心に強烈な印象をもたらすような記憶はどれだけのデータの処理が行われても消えることはない。傷というかたちで心に残された記憶は並大抵のことじゃ消えない。もし、そんな記憶を一瞬にして消すことが可能なら。


 水縹草の成分を結晶化し薬剤にする事には数年で成功した。だが、市場に流す為にはその解毒薬がいる。もし誤って投与し、記憶を消す必要がない誰かのそれを消してしまったら。そのリスクを考える必要があった。けれど、そこで研究は行き詰まってしまった。水縹草の構造は他の花とのどれとも違う。海馬にある神経活動を活性化させることが分かっても、その理由がわからなかった。だが、十年という歳月が流れた時、村の中でおかしな発言をしている子をみかけた。ママが僕のことを忘れちゃう。皆、僕のことを覚えてないんだ。雪が降る中、顔を赤く染めながら、その男の子は泣きながら歩いていた。篠原はなにか予感めいたものを感じ、ママに君のことを思い出させてあげるよ、と研究施設へと連れて帰った。血液検査をした結果、篠原は目を見開いた。その子の身体の中に流れる血液には、水縹草に対する抗体反応があったのだ。つまり、この子は雪が降っても記憶を無くさない、と篠原はその事実に驚きを隠せなかった。


 だが、またしても壁に当たる。その男の子の血液中にある抗体を培養ばいようすることには成功したが、それを無限に培養することは叶わなかった。細胞分裂には限りがある。修復不可能な状態となってしまった細胞からだと抗体反応が得られない。だが、その事実が分かったのとほとんど同じ時期に、この村で生まれてきた子供達の中には、優劣はあるが抗体反応を持つ子供がいることが分かった。篠原の精神は壊れかけていた。資産のほとんどを研究に投じ、会社の舵は代理の人間に任せていた為に経営は傾きかけていた。こんな所で終わる訳にはいかない。何としても研究を成功させるんだ。もっと。もっと、血液がいる。


 その思想の元に誕生したのが、妖精たちの庭だった。以前から雪が降る日に生まれ、親からは生んだことすら忘れられてしまい行き場を無くした子ども達がこの村にはいた。その子ども達を集めればいい。あの男の子以来、血液中に抗体反応がある子どもは弱いが何人か見つけていた。一固体としての抗体反応が弱く仮に水縹草の影響を受けていたとしても、抗体遺伝子内のDNAの塩基配列を組み換えてやれば、強い抗体反応を持つものを作り出すことが出来る。彼らの血液さえあれば、水縹草を用いた薬は世に出せる。


「表向きは児童養護施設として、裏では抗体を持つ子ども達から血液を抜き取り解毒薬を作ればいい。そうやって生まれたのがあの施設なんだよ」

「嘘」


 沙羅が自らの腕をさすりながら、そう呟いた。物心ついた時から何度も採取されてきたその傷口を消し去ろうとするように。私はそれをみながら施設の職員が放った言葉を思い出していた。


──何考えてるんですか? あれ以上やってたら……この子は死んでましたよ。この子はαアルファ何でしょう? 重要な被検体だ。


 沙羅が連れて行かれた日に、職員が三島に放った言葉だ。


──齢四歳にして血液中に抗体反応あり、よって大城新菜をαアルファとする


 三島の部屋で盗みみたファイルには確かそう書かれていた。名前の端にαという文字がつくのは私と湊だけ。偶然にも私達は雪が降っても記憶を失わない。もしそのギリシャ文字が抗体反応の優劣によって分けられていたのだとしたら。そう考えると全身の毛穴が泡立った。


「あの花さえ無ければ、こんな悪魔の所業が行われることも無くなる。いや、穴だ。あの花そのものを別の世界から運んできたあの穴が無ければいい」

「いつ知ったの」


 聞きながらずっと疑問に思っていた事だった。


「いつって」

「だからその施設の成り立ちとかだよ。いや、いつでもいい。どうしてもっと早く助けにきてくれなかったの?」

「すまない。お前達には本当に申し訳なく思ってる」


 父が深々と頭を下げてはくれてはいたが、そんなことで私の気は晴れなかった。どんな理由があれ、たとえ施設がそんな場所だと知らなかったのだとしても私を捨てたのは事実だ。頭を下げられたくらいで気が晴れる訳がない。沙羅も湊も神妙な面持ちで父をみてる。恐らく私と同じ気持ちなのだろう。


「俺が知ったのは、ひと月程前だ。もうここまできてしまえば正直に言うが、俺はもう死のうとしていたんだ。妻に我が子を思い出してもらう為にと十五年もかけて研究してきたことが、あの穴をみて全て無駄だと分かった。俺にはもう……どうすることも出来ないと思って自暴自棄になってた。だが、そんな時にある女性から電話があった」


 それから話してくれたことは、その女性は父が雪忘花の研究をしていることを知り、あるジャーナリストが同席の下会うことになったということだった。小さな喫茶店の中で、ジャーナリストに「これを読んで下さい」と紙の束を渡された。それは、病に伏しこの世を去った篠原貴一の研究日誌をみつけてしまい罪悪感に駆られた遺族がそのジャーナリストに預けた代物だった。

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