第7話

 夜の病院は、異様な静けさと粘り気のある空気で満ちていた。廊下を踏みしめると、その音が引き伸ばされるように反響して鼓膜に触れる。何故か夜風に当たりたくなって、三階から二階へと降りようとして足を止めた。確かこの病院には中庭があった、と廊下を歩いていくと、待合室に座っていた男性に医師が声をかけていた。その男性の顔が途端に砕けるように、今にも泣きそうな顔になる。けれど、悲しみを孕んだ顔ではなかった。むしろ、嬉しそうだった。


「おめでとうございます! 元気な男の子と女の子ですよ」


 医師がそう言っていた。


「先生っ、先生っ本当にありがとうございます!」と男性は何度も頭を下げている。それから「先生にはなんとお礼を言ったらいいか。あの、妻には、会えますか?」と神にでも祈りを捧げるように医師の手を手にしていた。どうやら双子が生まれたらしかった。この世から離れていく命もあれば、こうして生まれくる命もある。それが、この世の理なのだろう。中庭に出て夜風に当たった。少し気分が落ち着いた。戻ろう。この病院での目的を果たした私は身体の震えを抑えながら、湊の待つ車まで戻った。


「……どうでした?」


 扉が閉まるの同時に湊が問いかけてくる。


「当たりだった。でも、こんなの、信じられない」


 この病院にはある人に会いにきていた。今では国内でも指折りの産婦人科の名医と評される篠原さんは、学生時代からの父の友人であり、私をこの世に取り上げてくれた張本人でもある。私にとっての篠原さんは言わばおじのようなもので、篠原さんにとっての私もめいや娘のように想ってくれているのだと思う。だからこそ、篠原さんなら私の頼みを聞いてくれていると思った。


「母が私を妊娠してから出産するまでの医療記録をみせて下さい」


 私が病院から抜け出していることにすら腰を抜かしそうになっていた篠原さんに開口一番にそう口にすると、途端に眉根を寄せた。端から断られる覚悟が出来ていた私は、その答えを知るまでは引き下がらないつもりだった。結果、渋々といったかたちで、「カルテをみせることは法的に出来ないが、瑠衣ちゃんとお母さんは親子だから望む質問には答えられるかもしれない。本当はこれすらもやってはいけないことなんだけど、僕と瑠衣ちゃんの間柄だから」と折れてくれた。私は姿勢を正し、篠原さんの目をみて言った。


「正直に答えて下さい。私がお母さんのお腹の中にいた時、そこにもう一人赤ちゃんがいたんじゃないですか?」

「……どうしてそれを。誰から聞いた」


 篠原さんは目を大きく見開き、動揺を隠せない様子だった。もう、答えを聞く必要はないと思った。


「男の子ですか? 女の子ですか?」

「妊娠初期のことだから、まだわからなかった」

「亡くなった原因を教えて頂けますか?」

「瑠衣ちゃん、ちょっと待ってくれ。矢継ぎ早に質問を繰り返されても訳が分からないよ」


 篠原さんはふっと天を仰いでから、私の肩に手を乗せてくる。私はその手を優しく手に取り、ゆっくりと下げた。


「申し訳ないですが私には時間がないんです。質問に答えて下さい」

「……分かった」


 篠原さんは、ぽつりと呟いてから両手を広げた。


「君のお母さんは双子を妊娠していたんだ。君ともう一人の子だね。でも、運が悪いことにそのもう一人の子は子宮内で亡くなってしまったんだ」

「原因はなんですか?」

「原因は分からない。だが、その後に起きたことなら説明出来る。そのもう一人の子は、ある日子宮内から消えたんだ」

「え、どういうことですか?」

「バニシングツインと言ってね、胎児を複数人子宮内に宿している時、運が悪く亡くなってしまった子は母親の子宮やその子宮に残された子供によって吸収されることがあるんだ」

「それは、よくあることなんですか?」

「いや、極めて稀な例だよ」


 ふいに、自分の両手に目を向けた。その手をゆっくりと持ち上げる。いつの間にか手の震えが止まらなくなっていた。


「篠原さん、ありがとうございました! このお礼はいつか必ずします」


 言葉が返ってくるより先に、背を向けて走った。私は間違っていなかった。私があの時にみたものは実際に現実で起きた出来事だったのだ。だとしたら、ひかりの向こうにはきっと。


「やっぱり、信じられないよね?」


 車に戻るなり、篠原さんに聞いた話全てを湊に話していた。湊はフロントガラスの更に向こう、街灯の薄明かりに照らされた駐車場の方をぼんやりとみつめている。私は視線を逃がそうと身体を車に預けた時だった。「いえ、信じます」と湊が呟いたのだ。


「と言うより信じるほかないのかもしれません。瑠奈さんに言われた通り、僕も自分の母についさっき電話で確認しました。今から二十年前、母の子宮内には僕の他にもう一人子供がいて、その子は死産したそうです」

「……嘘でしょ?」

「ええ。信じられない話ですけど、もうここまできたら信じるしかないですよね。だってこれは僕たちに実際に起きている出来事だ。幻覚でも妄想でもない」


 私は力なく頷きながらも、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。自分の追い求めていたものが、望んでいた答えが、すぐ近くにまで零れ落ちてきた時、どうやら私はそれを咄嗟に手に取ることが出来ないようだった。扉を開けて外に出た。今は、夜風に当たりたい。ちゃんと頭の中を整理したい。


「ちょっと待って下さい」


 湊も降りてきたようだった。私のいたあの病院から抜け出してきたのが遠い昔のように感じる。顔をあげて、夜空を見上げた。呼吸するように小さく瞬く星たちが夜の海に散らばっている。ねぇ、新奈。この星のどこかにいるの? それとも。と胸の中で問い掛けた。


「瑠奈さん」

「湊、ちょっと歩きたい」


 そう声を掛けると、湊は小さく頷いた。それから二人横並びになって夜道を歩いた。


「私にも湊にもこの世に生まれてくる前には、兄弟がいた」

「ええ」

「でも、生まれてくる前に亡くなってしまった」

「ええ」

「そして、私はその兄弟があの白い螺旋階段を通ってひかりの先に進むのをみている。もしこの世で亡くなってしまった人たちが等しくあの階段を通り、別の次元へと旅立っていくのだとしたらあのひかりは言わば扉」


 だとしたらその先に通じるものが必要だ。扉はその先に空間があって初めてその役割を果たす。それがない扉など、ただの板切れに過ぎない。


「ねぇ、新奈達は本当に二人兄弟なのかな?」

「……どういうことですか?」

「思ったことがあるの、仮に別の次元へと旅立つその瞬間をみたからといって、その次元で生きる人たちの人生をまるで自分が体験しているかのように覗くことが出来るのかなって」


 歩幅を緩め、湊の顔をみながら言った。こつっ、こつっ、と夜の帳が下りる中、二つの足音が小さく鳴る。


「ごめんなさい、僕はまだ理解が追いついていなくて、もう少し分かりやすく説明して頂けると助かります」

「あーごめんね。そうね、扉。もし私がお母さんのお腹の中でみたあのひかりが向こうの世界へと通じる扉だとして、それが通じていなかったら意味がないでしょ? こう想像してみて。たとえばあなたはある部屋にいる。そこには扉が一つだけあるが、開けても先がなく、壁があるだけだった。それは扉の意味を成さない。ここまで分かる?」

「はい。なんとかついていけてます」

「今の私の記憶のままだとまさにそういう状態なの。私はお母さんの子宮で向こうの世界へと通じる扉をみただけなの。でも、そちら側の扉が開いているかどうかはみていない」

「つまり、どういうことですか?」

「私と湊の兄弟がこの世を旅立ったその瞬間、最低でも向こうの世界で二人の人間が亡くなったんじゃないかって事」

「……それって」


 湊が目を見開いたようにみえた。


「そう。向こうの世界で生きる私達は元々四つ子で、私達の兄弟が亡くなったその瞬間、その内の二人も亡くなったのかもしれない。それなら、こちらの世界と向こうの世界の扉は繋がる。原理的には私達がもう一人の自分の存在を認識出来ても無理な話じゃない。まあこれも世間一般的にみたら十分にぶっ飛んだ話だけどね」


 そう、あまりにもぶっ飛んでいる。自分で言いながら笑けてきた。この世を旅立った先には別の次元があり、私達が死んだと思った人たちはそちらの世界で当たり前のように暮らしてる。息をして、泣いて、笑って、愛し合う。そんな誰もみたこともないものを、今の私たちは証明しようとしてるのだ。それは、足元に落ちている小石を用いて夜空で瞬く星に当てようとするくらい愚かな事をしているのかもしれない。けれど、と足を止めた。時同じくして湊も足を止めていて、それから言った。


「僕には難しい話は分かりません。でも、一つだけ確かな事がある。僕ですら知らなかった生まれてくる前の話をあなたはぴたりと当て、それから僕自身もう一人の自分の存在というものを肌で感じてる。この世界なのか、それとも別の世界なのか、それは分かりませんが、僕はあなたの話を聞いてもう一人の湊が実在することを確信しました。さぁ、助けに行きましょう」


 闇の中、持ち上げられた右手が私に差し伸ばされた。私はその手を掴み、今の自分に出来る最高の笑みを浮かべた。目的地は、冬の帳村。私達はそこに向かうことを決めた。母が言っていた通り、地図上にそんな村はなく、湊自身も独自で調べてはいたそうだが見つけられなかったらしかった。けれど、私には社会に出て人としての営みをしていなかった分だけ、時間があった。有り余っていた。だから割り出すことが出来た。向こうの新奈の目を通して、村の景観、天候、気温の変化、それから村の至る所に立てかけられていた標識や看板から冬の帳村のおおよその位置を割り出していた。恐らく誤差はあっても数キロ程度のものだろう。私がこの数年間で最も時間を割いてきたものだ。間違いはない。


「瑠奈さんの言う冬の帳村までの位置までは二百キロ程です。行きましょうよ、僕たちを助けに」


 湊のその言葉を受け止めた私は車に乗り込んだ。徐々にスピードをあげ、車は走り続けていく。私は窓に身体を預け、瞬間瞬間で移り変わる景色をぼんやりと眺めた。この先に何が待ち受けているのかは分からない。何しろ私達は誰もみたことがない別の次元の世界へと向かおうとしているのだ。けれど、私は私を助ける為にならどんな場所にだって飛び込んでいく。水滴が窓を打った。少しずつ、まばらにそれが広がっていく。


「……雨だ」


 私の放った声は、窓ガラスを打ち付けるそれみたいに、すぐに溶けていった。

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