第四章 邂逅

第1話

「新奈っ、もっと早く走れ!!」

「走ってるよ……もう、これ以上ないくらい早く走ってる!」


 既に二十分いや、三十分は走り続けていた。闇の中、湊が手にしている懐中電灯が直線上に照らす明かりだけを頼りに、私は両腕を振り、足を動かし、無我夢中に走り続けていた。この数日は雪が降っていなかったが、それでも足元には数十センチ程の雪が降り積もっており、何度も足を取られそうになり、その度に持ち上げた。そうしている内に、この数日で何度目かになる鼓膜を切り裂くような施設の警報音がどんどん遠くなっていく。施設から村へと繋がる一本道を抜けたのはもう随分前のことのように感じる。それから村へと入り、民家沿いを走り抜け、木々を掴みながら斜面を駆け上がり、山の奥深くへと入り込んだ所だった。冷たい空気が吹き抜けていく。切り裂くような痛みと共に頬を打ち付け、普段の何倍もの速さで呼吸しているせいか肺が破裂しそうだった。


「私、もう無理かもしれない。少しだけ休憩させて」


 荒ぶった息を整えながら言った。両手で目の前に群生していた木々を掴んでいた。こうでもして身体を支えていないと倒れ込んでしまいそうだったからだ。


「わかった、休憩しよう。少しは……引き離せたかな」


 湊はそう言ってから施設の方角へと目を向けるのと同時に、手にしていた懐中電灯の光を向ける。私と同じように背中で息をしており、だいぶ苦しそうだった。


「一応電気は消しとくわ。電池も温存したいしな」


 その声が鼓膜に触れてから少しして、白い光がふっと消え、目の前が真っ暗になった。それから草木が揺れる音が聴こえ、「あー疲れた。あいつら、血眼になって追ってきやがって。まじで容赦ないな」と湊の声が続いた。どうやら雪の上に横になっているようだった。その隣で私も横になった。石のように固くはないが、真綿のように柔らか過ぎず、今の疲れ切った身体には丁度いい硬さだった。指先で雪に触れる。そのつめたさが今は気持ちよくて、私は少しの間目を閉じた。


 沙羅を助けにいくと決めたのが今朝のこと。その日の夜には、私達は施設から抜け出した。恐らく、もう二度とここには戻れない、その覚悟の元だった。私達にはその選択肢しか残されていないと私が知ったのは、今朝方湊がふいに放った一言からだった。


「沙羅を助けにいくことは俺も当たり前に賛成だけど、方法を考えないとな。新奈が眠ってる間に集会で三島が言ってたよ。今日から一ヶ月の間は、施設の外に出ることを禁じますって。愛莉と亮太が逃げたことに対する連帯責任だとよ。今更だよな」


 私は湊の放ったその言葉にショックを隠せなかった。外出届けさえ貰うことが出来れば外に出られる。それに、愛莉や亮太の時とは違って、沙羅の居場所は分かっている。どうやって沙羅を助け出すのか、そこまでは考えていなかったが、外にさえ出ればなんとかなるだろう。そう考えていたが、甘かった。


──あまり大人を舐めないように。


 三島の言葉が、頭の中で呼び起こされ、あのつめたい眼差しで、そう言われているかのようだった。私と湊は授業にも出ず、食事をする時間すらも惜しいと食堂にすら行かず、施設から出る方法を、その手段を、模索し続けた。時折職員が様子をみに部屋に訪れたが、その度に体調がすぐれないふりをして、湊に看病してもらっているのだと誤魔化した。訪ねてきた職員の中には、昨夜私が三島に首を絞められた現場に居合わせた職員も何人かいて、当の本人達もさすがに度が過ぎていたと思っていたのか、湊が女子寮にいることも然程咎められることはなく申し訳なそうに扉を閉め、私の体調についても深くは尋ねられなかった。そんなやり取りを何度か繰り返している内に、ふっと思い浮かんだ言葉があった。


──薪小屋のちょうど向かいにある柵から時計回りに数えて十四番目の柵には細工が施してある。


 一年前、施設から逃げ出す前に凜花さんに言われた言葉だった。私はその記憶の糸がぷつりと途切れないようにゆっくりとたぐり寄せた。夜の纏う闇が部屋に満ちている中、確か私は泣いていて、凜花さんも泣いていて、それから凜花さんはこうも言った。


──万が一の時は沙羅と二人でそこを蹴破って逃げて


「万が一の時は……そこを蹴破って」


 私は記憶の中にある凜花さんの言葉を重ねるようにして呟き、あの日紙切れを手渡されたことを思い出した。その時には、咄嗟に立ち上がっていた。クローゼットへと向かう。湊が「どうした?」と声をかけてきたが、私はそれに答えることなく、全ての意識を取り出した黒いボストンバッグへと向けた。あの日、無くしてしまえば大変だからと、カバンの奥底へと仕舞い込んだのだ。中には下着が沢山入っており、途中ブラジャーのホックで手の甲を引っ掛けたりしたが、一枚の紙切れをみつけた。そこには、こう書かれていた。


『薪小屋の裏口の向かいにある柵から、時計回りに数えて十四番の柵。その柵の、四本目から十本目には細工を施してある。出来ることなら使わずに済むことを願ってるけど、万が一の時はそこから逃げて。新奈。沙羅。ふたりとも、愛してる。』


「凜花さん、ありがとう」


 私は読みながら目が潤み、そう呟いていた。紙切れから湊へと視線を滑らせる。それから言った。


「湊、この施設から逃げれるかもしれない」


 私は凜花さんから貰ったその紙切れをみせながら、当時にあった出来事を全て話した。聞き終えた湊は、「もうそれしかない」と呟いた。計画を実行に移すからにはまず現状を知りたい、と湊は言った。毎朝薪割りをしている湊なら休憩時間に薪割りの辺りをうろついていても特段怪しまれることはないだろうとのことだった。


「新奈、これみろ」


 様子を見にいくと外に出ていた湊が私の部屋に戻ってくるなり、ポケットから何かを取り出した。開かれた手のひらの上には、棒状の黒ずんだ金属片のようなものがあった。


「なんなのこれ」


 私は目を丸くして、そう問いかける。一瞬木の枝のようにも見えたがその形状と色味から何かの金属だと思った。湊が手にとってみろと言うので、私はそれを右手で掴んだ。すると、それは少し力を入れただけでぱきっと折れた。


「これは、施設を囲んでる柵だよ」


湊が得意げに微笑みながら言う。


「えっ、これが?」

「あぁ。凜花さんはすげぇよ。どんな魔法を使ったのかは分からないけど、あの紙切れにあった薪小屋の裏の柵の位置だけ妙に色が黒ずんでるんだ。よくみないと分からない程度だけどな。でも、それを手に触れてみてすぐに分かった。その辺りだけ脆くなってる。紙切れの通りだよ。あれなら、女子二人でも十分に蹴破れる。施設から逃げられるぞ!」 

 

 湊が喜々としてそう言って、私は「嘘……?」と感極まって呟いていた。手のひらの上で、真っ二つになった金属片をみつめ、それから「凜花さん、ありがとう」と心からの感謝を込めて言った。


 施設では消灯時間の十五分前から最終点呼があり、それさえやり過ごすことが出来れば翌朝の点呼の時間まで私達が部屋の中にいると確かめる手段はない。私と湊はその穴をつこうと、最終点呼から一時間後に決行することに決めた。だが、問題が一つ残されていた。女子寮は西館に、男子寮は東館にあり、その二つの建物の真ん中には本館がある。本館の中には職員用の宿舎があり、私が男子寮のある東館に行こうにも、逆に湊が女子寮にくる為にも、必然的に最も職員と出くわす可能性の高い本館の通路を通らなければならないのだ。


「それは問題ない。俺が新奈の部屋に行くから大丈夫だよ」


 私の心配をよそに、湊はなんてことないようにそう言い放った。


「行くからって、そんな簡単にいうけどさ、もし職員にバレたら」

「だから大丈夫だって」と私の言葉を遮ってから湊は不敵な笑みを浮かべ、それから言った。


「俺は通路を通らないよ。だから、誰にも見つからない。この施設の中にはさ蜘蛛の巣みたいに幾つものダクトが通ってるんだ。古いのもあれば、新しいやつもある。たぶんあれは何回も改修工事してるからだろうな。で、その内の一つのダクトは東館の男子トイレから、西館の掃除用具室まで続いている。それを通れば、俺は誰にも見られずに新奈の部屋のちょうど斜め前くらいにある掃除用具室に出られるって訳」


 得意気に話す湊の言葉に息を呑んだ。ダクトが幾つも通っていることは私も知っていた。でも、その内の一つが西館から東館まで続いているなんて考えたことも無かった。そういえば、湊は何度もこの部屋にまで誰にも見られずに来ていたことを思い出した。沙羅の心が壊れかけてしまった時もそうだった。それに、私達の出生元を探る為にひとり西館にある火災報知機を鳴らしにいくことを心配した沙羅に対して湊はこうも言っていた。


──あーそれは大丈夫。俺は秘密の通路を知ってるから。汚れるからちょっと嫌なんだけど


 あの時からずっと、湊は施設に張り巡らせれているダクトを使っていたのだと、今になって分かった。


「ダクトが西館から東館にまで続いてるっていつ知ったの?」


 頭に浮かんだ疑問を、そのままぶつけた。


「いつだったかな。九歳とか十歳くらいの時によく皆で探検してたんだ。職員用の宿舎に忍び込んだり、換気扇の蓋を意味もなく外してみたりして、施設中を調べて周った。その時にみつけた」

「そんなことしてたんだ」

「まぁあの時の俺たちは施設の外にも出れなかったし、体力有り余ってたからな」

「男の子って、ほんとに馬鹿なことが好きだよね」

「でも、その馬鹿さに救われただろ?」


 最後は二人笑いあって、私達実行の時間まで別々に行動し、予め決めていた時間びったりに私達は合流した。息を潜め、出来るだけ足音を立てないように廊下を渡り、運動場への扉を開けた。だが、その時になって初めて、私達は普段は当たり前のように開け閉めしている扉が、時間帯によっては警報が作動することを知ったのだった。


「新奈っ!走れ!」


 湊がその声と共に運動場へと駆け出し、私は後を追うようにして闇の中、無我夢中で走った。静寂が満ちていた冬の帳村の空気を、施設の警報音が震わせる。まるで地響きでも起きているかのような大きな音だった。


「十四番の柵の、四本目から十本目」


 湊は薪小屋に着くなり壊れたラジオのように、何度もその言葉を呟き、予め用意していた懐中電灯のスイッチを入れ光を向ける。それから、力一杯に柵を蹴った。何かが砕けたような鈍い音が鼓膜に触れた時には、柵は見るも無残な姿になっており、そうやって生まれた隙間から私達はついに施設の外へと逃げ出すことが出来たのだった。遠くの方から職員たちの「逃げたぞ! 逃げられたぞ」という声が聴こえた。私達はその声すらからも逃げるように、無我夢中で走り続けた。途中何度も無数の足音が近づいてきたり離れたりしたが、山の中へと入ったことでようやく引き離せたようだった。でも、と思い、私は雪に預けていた身体を起こし、足首に目をやった。施設にいる時には緑色だった光が、一定の間隔を保ちながら今は赤く点滅していた。


「これを外さないと私達一生逃げられないんじゃない?」


 隣で私と同じように雪の上で横になっていた湊にそう呼びかける。


「だろうな。でも、これがどれくらいの精度を持っているのかは分からないけど、ピンポイントで位置を割り出すことは出来ないみたいだな。もしそうじゃないなら、さっき俺たちは捕まってるよ」


 湊はスボンの裾を上げ、点滅するその光をみながら言った。湊が言ったさっきというのは、ここに来るまでの道中で私達は後ろから追いかけてくる職員たちに距離を詰められ、湊が咄嗟の判断でやり過ごそうと言って茂みの中へと身を潜めた時のことだろう。幾つもの足音が鼓膜に触れて、職員たちは「近いぞ。この辺りにはいる。探せ!」と口々に話しているのが聴こえたのだ。私は記憶を思い返しながら湊の言う通りだと思った。もし、この発信機が位置を完璧に把握出来る代物なら、私達はあの時点で既に捕まっているのだ。


「そろそろいくか」


 湊のその声を合図に再び歩き始めた。辺りは真っ暗だった。湊が手にしているその光だけが頼りで、直線上に伸びているその光の先をみつめていると、私たちの歩いている道の先の方で同じような光を感じた。少しずつ距離が近くなり、その光を手にしている持ち主も私達の存在に気付いたようで光を向けられる。闇に慣れかけていた私の目にはあまりにも眩しくて、思わず目をすがめてしまう。


「逃げるぞ」


 湊が声を落としながら言った。

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