第12話

 西館から本館への廊下を泣きながら走り抜け、辿り着いた先は階段の踊り場だった。壁にもたれて背を預けた瞬間、空気が抜ける風船のように足の力が抜けていき、気付いた時にはしゃがみこんでいた。立てた両膝が小刻みに震えてる。構わずそれに顔を埋めた。なんで、私ばっかりこんな目に合わなくちゃならないの。なんで私だけが記憶を失わないのよ。皆が忘れるなら、私の頭の中からもこの記憶を消してよ。持ち上げた右手で目を拭う。私の中から流れ出た水は温かくて、触れた部分だけが微かに熱を持っている。目の中に水の膜が張っているせいで、視界が滲んでいた。


「もう嫌だ」


 どこでもいいからとにかく一人になりたい。そう思い立った時には私を身体を起こし、三階にある職員室へと向かった。部屋に入るやいなや、どうしましたか?と書類を手にしていた男性の職員さんに聞かれた。


「あの、三島さんはいらっしゃいますか? 外出届けが欲しいんです」

「奥の館長室にいらっしゃいますよ」


 職員さんの持ち上げられた手がその方向へと差し伸ばされた。私達が施設の外に出る為には三島さん本人に毎回外出届けというものをを出さなくてはならない。それは、十五歳を超えてから初めて与えられた権利だった。それ未満の年齢の子供達は職員さんと同伴でなければ外に出ることすら許されない。


「あぁ、新奈か」 


 焦げ茶色の年季の入った、みるからに普段食堂でみるようなものとは存在感の違うテーブルで何やら書類仕事をしていた三島さんは、私に目をやると同時にふっと頬を緩ませた。机の後ろには大きな本棚があり、その隣には銃身の長い銃が三丁、壁に掛けられている。三島さんは猟が趣味の一つであるらしく、その季節になると村の猟師達と一緒によく狩りに出かけていた。いのししや鹿の剥製が施設内に数体剥製として飾られているが、それらは全て三島さんが仕留めたものだと聞いたことがある。


「あの、外出届けが欲しいんです」


 そう言うと、眼鏡の奥にみえるガラス玉のような瞳が微かに色を失っていくようにみえた。何かを言われた訳でもないのに、胸の中がつめたくなっていく。定期的に入れ替わる職員達とは違って、三島さんは私が物心ついた時にはここの館長だった。人当たりがよく、大人には勿論子供達からも好かれていた。笑顔を貼り付けたような、いつも笑みを絶やさないイメージを皆が持っているのだと思う。でも、私はその笑みを向けた相手に対する眼差しの奥深くにあるものに、冷えた氷のようなつめたさをいつも感じていた。表面上では笑っているけど、心の奥底では笑ってはいない。そんな三島さんのことが、私は子供の頃から苦手だった。


「では、いつものように紙に記入して頂けますか?」


 机の引き出しから取り出した一枚の紙を渡される。両手でそれを受け取り立ち尽くしていると、「あぁ、ペンが要りますよね」とガラス製の容器にさされていたペンを手渡された。いつもの、笑顔を向けられる。表面だけの、作りものの笑顔だ。手渡された紙に名前と外出する理由を記入してからこれでお願いしますと渡した。そこに素早くサインが書き込まれ、再びすっと渡される。


「じゃあ、失礼します」


 紙を手にしたまま小さく頭を下げて、背を向けた。扉の方へと歩みを進めた時、ちょっと待って下さいと呼び止められた。


「分かっていると思いますが、18時までです。それまでに必ず戻るように。それと、足をみせて下さい」


 眼鏡の奥にある冷えた眼差しが、私のくるぶしの辺りに向けられる。私はズボンの裾を捲り上げ、「これで、いいでしょうか?」と足首にはめられた金属の輪っかを見せた。緑色の光が点滅している。


「もういいですよ。下がって下さい」


 三島さんはちらりと一瞬だけ視線を向けたが、言い終える頃には私の顔すらみていなかった。

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