第19話 波打ち際

 カズハは一瞬石のように固まった。口をぽかんと開け、そこから沸騰したように顔を赤くした。カズハの白い肌が紅をさしたように紅潮したので、ヨロズハは少し目を丸くする。


 彼女自身それほど変なことを言ったつもりはなかった。好きと言われた、それに応えたい、ならば街歩き。そんな単純な思考だった。


「よ、ヨロズハがいいなら……僕としてそんなに嬉しいことはないよ」


「そう言ってもらえて私も嬉しい」


 ヨロズハはカズハの手を握った。細い。しかし自分よりも角張った手に少しどきりとした。


 ヨロズハはカズハの手を引こうとしたが、少し抵抗を感じる。カズハがグイと彼女の手を引き、自分が一歩先に出た。カズハは空いている方の手で扉を開ける。


「ちょっと男らしくさせてほしい」


 ヨロズハはその言葉を聞いてなぜだか胸が弾む。頬を綻ばせ、目を細めた。


「頼む」


 二人が領主の執務室を出た時、私兵や給仕係はぎょっとした。それもそうだ。二人の会話や間柄を知らない者からしたら、侵入者と我が主人が手を繋いでいるという構図なのだ。部下達は何がなんだから分からなかった。カズハはそんな彼らに言う。

 

「ちょっと出かけてくる。潮の花畑あたりかな」


「は、はぁ……」


 給仕係の中でもベテランの女でさえそう答えるしかない。それほどに予想外、イレギュラーなことが起こっていた。


 二人は館の外に出る。空は突き抜けるような晴天だった。眩しい青の下、二人は歩き出した。


 港の方から潮風が吹いている。それに背中を押されるように二人は街中を巡る。


「カズハの統治する村はいいところだな。今走って行った子供たちが笑顔だった」


「それはその子の親の頑張りさ。僕は何も」


 二人は大きな木組みの建物の前を通る。中では大きな木の板を担いだ男達が行ったりきたりしている。


「造船所だよ」


「土に根を張る木が支えのない海を渡るなんて、よく考えたらすごいことだ」


 ヨロズハの率直な感想だ。カズハはガラス玉を転がしたように笑った。以前の夜とは違う、心から出た笑いだった。


「ははは、確かにね」


 カズハは船を組み立てる彼らに向かって手を振った。男達はカズハに気がつくと、髭をよく動かして大きな口を開ける。


「カズハ様だ!お!誰か連れてるぞ!領主様も隅におけねぇぜ!」


 やかましく口笛を吹く男達にカズハは呆れたような表情を見せた。そんな顔をヨロズハは初めて見た。少し眉を吊り上げて彼女はカラカラ笑う。


「村の中だと色々表情が変わるな、カズハは」


「みんなが楽しそうにしてるからね。僕も嬉しいんだ」


 子供がまた二人のそばを駆け抜ける。すぐ後に二、三人のまた子供。彼らはタガの外れたようにはしゃいでいた。


 カズハの案内で造船所を離れていくと、ヨロズハはふと潮の匂いが薄まったのに気がつく。少し眉をひそめ、辺りの空気を犬のように嗅いだ。


「風は吹いているのに海の香りが消えてる?」


「そうなんだ。アレのせいだよ」


 カズハの指差した方向にカズハは目をやった。そこには目が痛くなるほど鮮やかな花畑があった。本来枯らされそうな潮風に揺られ、色とりどりだ。


 赤い花は赤い粉を、青い花は青い粉をそれぞれ飛ばす。風に舞い上がる粉達はヨロズハの頭上に虹のように広がっていた。


「……すごい」


 言葉を扱う者としての敗北宣言だった。ヨロズハは目の前の絶景に言葉を失う。ただその凄さを開いた目と口で表すしかない。


「塩の混じった土壌、潮風の中でも立派に咲く不思議な花なんだ。僕の一族が手入れをしてる」


 カズハは花畑に歩み寄った。彼は膝下ほどで波打つ花畑に屈み、ぷちりと一輪の花を摘んだ。白い花だ。粉を出す量の少ない花だ。カズハの髪色と同じ花だ。


 ヨロズハは何も言わずにカズハを見ていた。彼は懐から出した細い紐を白い花にくくりつけ、紐で輪っかを作る。そして少し憂うげな視線を花に向けると、ヨロズハに近づいた。彼女は首を傾げる。


「ヨロズハ。これを贈らせて」


 カズハは白い花の付いた輪っかをヨロズハの頭上に持ち上げた。察したヨロズハは目を瞑り少し前のめりになる。案の定、冠のようにカズハお手製の髪飾りが被される。


 生花に紐をくくりつけただけの簡素な飾りだ。少しモノにあたれば壊れてしまうし、そもそももう少しで枯れてしまう。だがヨロズハは頬を赤らめて喜ぶ。心が破裂しそうなほど気持ちがいっぱいだ。


「姫になった気分だ。ありがとう」


「ふふ、どういたしまして」


 ヨロズハはしばらく潮の花畑に見惚れていた。一方でカズハは隣で恍惚の表情を浮かべる少女に見惚れている。


 夢のような、幻のような花の絨毯と粉の虹。楽園があったとしたらこんな光景だろう。そんな感想をヨロズハは抱いた。


 そんな夢も束の間、カズハの使い妖であるホシアカリが翼をはためかせて降り立ってきた。その風圧で粉の虹が吹き飛ぶ。パッと夢が覚めたヨロズハはホシアカリとカズハを交互にキョロキョロ見渡した。


 ホシアカリはクチバシに一通の手紙を咥えていた。カズハを目を丸くしてそれを受け取る。開くや否やカズハはため息をついた。


「どうしたんだ?カズハ」


「少し急な仕事がね……」


 ヨロズハは心がちくりといたんだ。先ほどから無視していた痛みだ。カズハは皆にとって重要な存在である。それを独り占めしている自分に少し嫌気のようなものが差した。


「い、忙しいのか……やっぱり」


「うん……でも今日は本当に楽しかった。少しだったけど、君と向き合えて嬉しい。本当にありがとう。もう一度会いにきてくれて」


 カズハは少し屈んで、ヨロズハの顔にかかる髪の毛を脇によけた。そして少し顔を近づける。顔と顔は拳一つ分だ。


 しかしその時、ホシアカリがカチカチとクチバシを鳴らした。その音にカズハは慌ててホシアカリに乗り込んだ。カズハは物悲しいような顔をヨロズハに見せ、飛び去った。


 復活しかけてきた粉の虹は再び乱された。飛びさり、小さくなっていくホシアカリ。それをヨロズハは見つつ、頭についた白い花に優しく触れた。ひんやりと冷たかった。


 ヨロズハは長い夢を見ていた気がしていた。ゆっくりとゆっくりと宿に戻らんとする。先ほどまでと同じ村の景色だ。素晴らしい村だと思えた。子供は笑い、働く人々は活気に溢れている。だが先ほどよりも楽しくないのは気のせいではなかった。


 宿に戻ると、アイイロが部屋で腕立て伏せをしていた。ちょうど五百回目を終わらせたところだった。アイイロは汗の滴る顔を手拭いで拭くと、服をパタパタとさせた。


「おかえり。どうだったのよ。彼とは」


「謝った。楽しく散歩もできたよ」


「そう」


「アイイロ。一つお願いがあるんだ」


 アイイロはヨロズハの差し出してきたモノにギョッとした。その右手には太めの針があった。しかし左手を見て少し胸を撫で下ろす。そこには月のような青白い耳飾り。カズハの送ったモノだ。


「あなた……この前王に誓って体に穴をあけたりしないと言ってたじゃない……」


「一つくらい……カズハにはいいと思えた」


 アイイロは何もそれ以上聞かなかった。蝋燭に火も灯して、針を炙った。


 ヨロズハは不思議なほど痛がらなかった。ただ甘露を噛み締めるような顔をしていた。耳に穴をあけたヨロズハは青白い耳飾りを装着してみた。アイイロは率直な感想を述べる。


「映えるわね。赤髪に」


 ヨロズハは妖艶と思えるような顔をアイイロに見せると、懐からホタテの貝殻を取り出した。


「これは漁師に貰ってきた。カズハへ返歌をしないとな」


 ヨロズハはそこにカズハへの思いを綴る。五文字と七文字の限られたルールから思いは溢れそうだった。


 ヨロズハとアイイロはその日のうちに宿を出た。食料をアイイロがやたらめったら食べてしまっていたのも原因だが、ヨロズハが宿を出ようと言い出したのも原因だ。


 サンの村から出る際、道中アイイロはヨロズハに尋ねた。


「宿の人に預けたホタテ、なんて書いたの?」


 ヨロズハは小さく咳をすると、滑らかかつ強く歌った。


「……寄せては返す 波打ち際の 届かぬ間 次会い、触れん」


 波の音が聞こえる。ヨロズハの頭に飾られた生花は元気をなくしていた。しかし耳飾りはきらりと輝いている。


 ヨロズハの使命は変わらない。それを辞退することは決してない。しかし一人の男は彼女に決定的な影響を与えたのだ。



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