第18話 使命を忘れて
ヨロズハの咆哮にも似た宣言の言下、正気を取り戻した私兵の一人が鉄の棒を振り上げた。ヨロズハの頭蓋を叩き割らんとする。しかし数秒経ってもヨロズハの頭は無事だった。
やめろ。そうカズハが叫んだ。私兵や給仕係達は眉を吊り上げ、ポカンとしていた。穏やかでいつも冷静な領主がここまで声を荒らげることはほぼない。
「……僕の客だ。下がってくれ、みんな」
私兵も給仕係も互いに顔を見合わせて困った様子だ。しかし領主の命令に背くことはできない。彼らはヨロズハと自分の主人に交互に目配せをしながら、下がっていった。
数秒の静寂が訪れた。二人の耳には部屋の奥の窓や通気口から潮風が流れ込む音がよく聞こえた。つんとヨロズハが鼻に刺激を感じたのは潮風の影響ばかりではない。
ヨロズハは少し口をもごもごとさせた後、思い切って口を開いた。
「嬉しかったんだ……でも……前に言ったように、ああいう文をもらうのは初めてだった。今ならわかる。私が歌の話題にすぐに飛びついたのは……子供っぽい照れだ」
「ヨロズハ……」
「でも……想いに向き合わないで歌の話ばかりしたり、他の男性のことをやたら褒めてたら気分は良くない。本当にごめんなさい」
ヨロズハは深々と頭を下げた。すだれのように目の前に赤髪が垂れた。
カズハは少し俯き、その後に彼女のつむじをじっと見つめた。いくら彼が見つめてもヨロズハが頭を上げることはなかった。
「あ、頭をあげてよヨロズハ。君の思いは伝わった」
そう言われたヨロズハはゆっくり、ゆっくりと頭をあげた。しかしヨロズハは極力頭を上げたくなかった。謝意をより長く伝えていたい。それと同時に赤い目を見られたくなかった。
「泣かないでよ」
「……本当に私は嫌な奴だな。泣きたいのはカズハかもしれないのに」
カズハは気の抜けたように微笑む。そしてヨロズハの元へゆっくりと歩く。一歩一歩。ヨロズハにはその音が重く感じられた。
ヨロズハは自分の頬に冷たい感触を感じた。カズハの手が彼女の頬に触れていた。カズハは親指でヨロズハの涙を拭う。
「僕の方こそすまなかった。せっかく向きあってくれようとしたのに……門前払いにした……窓から見てたんだ」
ヨロズハは自分の手に当てられたカズハの手に触れる。骨の感触が伝わるような華奢な手だ。そこから伸びる腕には以前にも見た万力の刺青。ひんやりとしたカズハの手を包むようにしたままヨロズハは口を開いた。
「……私は恋とかそういうものを知らない。だから間違った対応をしてしまった。だからカズハ……私に恋を教えてくれないか」
恋文をもらった時、ヨロズハの心臓は跳ねた。心がむず痒くなった。顔も赤くなった。しかしそんな時に自分がどうすればいいのか全く彼女には分からなかった。それゆえの今回の失敗だった。
だからこそ、ヨロズハはこの瞬間使命を忘れた。歌を集め、マンヨウ王の尊さを広めるということを頭から排除した。それが自分のためになると思っていたし、カズハへの礼儀にヨロズハは思えた。
彼女の言葉にカズハは一瞬目を丸くした。しかしすぐにこくりと頷く。
「僕も詳しいわけじゃないけど……一緒に少しだけ過ごせば……何か掴めると思う。僕も君といれるなら、とても嬉しいんだ」
ヨロズハとカズハはお互いの手を取った。ヨロズハは彼のひんやりとした手が温まるまでその手を握る。
ふと窓から風が吹き込んでくる。潮の香りが乗った空気の流れがヨロズハの赤い髪を揺らす。その風を受けて彼女は窓の方へと歩いた。
ヨロズハの目から港が見える。朝から漁に出ていた船が陸の方へと戻ってきたり、網を片付けている人々がガヤガヤとしていた。その港から伸びる道沿いに並ぶ店は段々と開店し始めた。その景色を見た後、ヨロズハはカズハの方へと振り返った。
「カズハ。この地を一緒に歩きたい。しばらく使命は忘れる。カズハのことを考えたい」
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