異世界はこの世界のすぐそばにある
石喰
異世界魚の夢
午後の空き教室。私はひとりで椅子に座って、日本異世界学会の和文誌『異世界研究』五月号を読んでいる。半端に開いているカーテンの隙間から差し込む光。生ぬるい空気。まるで現実世界から遠く離れてしまったような静けさや、古びたかびくささのおかげで、ふと、このまま異世界へ行けてしまうのではないかという小学生の頃の素朴な空想を思い出す。が、小学生の頃とはちがい、今の私はそんな空想を即座に否定して消し去ってしまうことができる。異世界とは並行世界のひとつであり、私たちの住む世界との接続点は現に存在するものの、この日この場所にいきなり現れるものではない。
『異世界研究』今号の特集はまさにそのような素朴な俗説に触れるもので、これまでの研究史を振り返りつつ、現在インターネット上にあふれる様々な俗説に対して批判を展開する。批判された俗説の中には私もすっかり信じてしまっていたもの(異世界文明はせいぜい新石器段階にとどまる、など)もあり、興味を刺激される内容だった。ちなみに特集のうち研究史部分を担当しているのが
教室の戸をノックする音が聞こえた。
ああ。もう終わり。物事はいつか必ず前へ進めなければならないことはわかっているけどその一歩にはすごく大きなエネルギーが必要なんだ。
「水戸さんいる?」
いるともいないとも、いい返事が思いつかなかったので黙っていると、しばらくしてもう一度声がかかる。
「入るよ」
がらがらがら、と古い引き戸は相応の古い音を出しながら開いた。美しき黒髪の美少女であるところの真野さんが入ってくる。明るい未来を夢見て楽しそうに輝く瞳、に見える。私には。
「体育祭の種目決まったよ」
と、楽しそうに言う。楽しそうに言ってくれて、そして私がサボったことに触れないでいてくれて、私はたすかる。もし「なんでサボったの?」とか言われたら私は何も答えられなくなる。真野さんはそういうところもよくわかっていて、だからなんかその慈悲に泣きそうな心になる。
「水戸さん、二百メートルね」
「あ、四百じゃないんだ」ちょっとだけ意外。
去年は同じように体育祭の種目ぎめをサボったら勝手に四百メートル走に――すなわち一番きつくて誰もやりたがらない種目になってしまった。それで嫌すぎて体育祭の本番もサボったら、翌日みんなから謝られて、問題児として腫れ物扱いされることになった。なったというかそれ以前から若干そんな感じではあった。そして今も私は問題児。自覚はある。
「今年も四百は誰もやりたがらなかったんだけど……」
と、真野さんが言う。
「嫌な種目を押し付けるのはだめでしょって、小宮さんが代わってくれた」
「ああ……」
小宮さん、陸上部の人。真面目で積極的でいい人だ。あとでありがとうって言っとかないといけないな。
「まあ、そんな感じだから。OK?」
「正直言うと」と私は正直な心境を吐露する。「あんまり自信ない」
「そうか」
「うん」
なにしろ私は前科持ち。去年の体育祭は嫌すぎてサボった。体育祭に限らず嫌すぎるとサボる。普通の人はそうじゃないらしい。嫌すぎてもサボらない。偉い。
「じゃあ、そうだねえ……」
と真野さんは半端に開いたカーテンを見つめた。差し込む光に埃が舞っている。
「もし来れなかったら二百は誰かに代わってもらうように準備しとく。でも水戸さんはできるだけ来れるように頑張ってはみる。それなら?」
「それなら……OK」
最悪、来なくてもいいなら気分は楽だ。代わってくれるだれかにすごく申し訳ない気がするけれど。
「ありがと。待ってる」
と真野さんは言った。ありがとうと言うのは私の方かもしれないのに。
スカートを翻し、なんだか楽しそうな足取りで真野さんは去った。戸が閉まる。スカートの回転に巻き上げられた埃が午後の光に照らされている。
真野さんがきっともう廊下の向こうの曲がり角を曲がっただろう頃合いを見計らって、私はスマホを取り出す。どうせ見えないのだから見計らう必要はないのだけれど。
そして水戸誠也氏にメッセージを送る。待ってると言ってくれた真野さんへの裏切り。すなわち、体育祭をサボる準備、を一応しておく。本当は、真野さんの期待に応えられたらどんなにいいだろう。でも私は嫌すぎることになかなか取り組むことができない。昔からそうだった。そしておじさんはそのことを知っていて、連絡をすればきっと悪いようにはしないことも、わかっている。
○
研究棟の自室で珍しく落ち着いて資料を読んでいると、スマホの通知が届いた。送り主は水戸
メッセージを開く。
<また接続トンネル巡りをしたい。五月二四日に>
無唯は僕の影響もあってか子供の頃から異世界学にのめり込んでいる。今や高校生でありながら学術誌も読んでいるし、この世界と異世界との接点であるところの「接続トンネル」探訪も趣味のひとつである。そしてその趣味にはたいてい僕が引率として連れ出される。彼女の母――つまり僕の姉は、離婚後は働きながらひとりで無唯を育てているから、娘の趣味に毎回付き合ってはいられない。休暇の取得に多少は融通の利く僕が一肌脱ぐのが自然な流れだった。
それにしても五月二四日とはド平日、それもピンポイントの指定だ。この日になにか嫌なことがあるのだな、と僕は推測する。
<学校をサボるなら簡単には引き受けかねる。理由を説明せよ>
メッセージを送ると、間をおかず返事があった。
<体育祭行きたくない>
なるほどそういうことか。たしか去年も体育祭をサボったとかいう話だ。母親に咎められて今年は僕の方に来たか、と思った。
<行きなさい>
<やだ>
このやりとりはいわばアリバイ作りである。とりあえず反対はしたんだと姉に弁解するための。
<学校終わったらそっち行く>
どうせこうなるのだから、反対することに実効性はない。嫌いなことからはとことん逃げるが、やると決めたら謎の瞬発力を発揮する。
しかし――カレンダーの書き込みを見て考える――引き受けるのは良いとして、問題は五月二四日は講義の予定が入っているということだ。姪のサボりに付き添う、という理由では休講にできそうにない。一人で行かせるか。となると近場で、現地で面倒を見てくれるような伝手がなければならない。
少しばかり考えを巡らせて、まさにうってつけの場所があるのを思い出した。
そもそもは無唯が小学校に上がる前、つまり十年ほども前になるが、研究のための実地調査で数日間泊めてもらったことが始まりである。そのときは姉が離婚したばかりの時期で、育児を手伝うべく僕が無唯を預かって、旅行も兼ねて二人で遠木野へ行ったのだった。当時の僕はまだ博士課程の学生だった。
その後も継続的な調査でしばしば訪れていたのだが、その研究に一区切りがついてからは山市夫妻とは会う機会も減り、年賀状のやり取りが続いているだけだ。
久々の挨拶を兼ねてちょっとお願いしてみるか。僕は研究用の手帳を引き出しから取り出し、ぱらぱらとめくった。「山市
さっそく電話をかけてみる。しばらくして聞こえてきた声は、遠木野の風景を懐かしく感じさせてくれた。突然の電話を詫びて、いくつかの言葉を交わす。
「無唯ちゃん? あのちっちゃい子が? もう高校生かあ」
よかった。無唯のことを覚えていてくれた。俊郎さんはもう八十手前になるはずで、年相応に枯れた声をしている。
無唯が学校で多少の問題を抱えていること、体育祭を休む口実を兼ねて遠木野の接続トンネルに触れさせてやってほしいことを伝える。断られる可能性は考慮していた。俊郎さんは戦後間もない頃に生まれた昭和の人だ。物腰は柔らかいとはいえ、学校へ行かないことに対して悪い印象を持っているかもしれない。
しかし、それは杞憂だった。俊郎さんは明るい声で言った。
「そうかあ、今頃の都会の子は大変なんだなあ。ストレスとか、いろいろあるんだろうな。いいよ。うちに来たら面白いものがあるからな、遊んでるうちに元気になるさ」
ありがたい話だ。そういえば俊郎さんは、今になって思えば、院生の頃の僕の無作法にも怒るようなことはなかった。そういう人なのだ。
それから日程の確認をして、僕は何度も感謝を伝えてから電話を切った。どうにかなった。
次は姉だ。メッセージを送る。しばらくして返事があった。
<無唯が体育祭休んで異世界研究をしたいとのこと。止めたけど無理。僕は講義があるので遠木野の山市さんという知り合いのところへしばらく行かせようと思う>
<今初めて聞いた。甘やかすな>
いつものように言葉が鋭い。そして例によって無唯は彼女の母親に無断で事を進めていることがわかる。
<次からは関係各位にちゃんと相談するようには言っとく>
<言っといて。それが簡単にできるなら怒る必要もないけどね>
姉も母親としてきちんと注意しておかなければならないという思いがある反面、無唯が一筋縄では行かないことは僕以上にわかっている。だから諦めも半分。
<後で叱るの嫌なんだよね>
その言葉にいろいろこもっているなあと思う。
☆
五月二三日。私は特急列車に乗っている。
特急列車の座席は快適だ。いつまでも座っていたいくらい。接続トンネルを見に行くという目的がなければ全部やめにして本当に座ったままにしてしまうかもしれない。
そんなふうに思ってしまうのは今とても気が重いからなのだ。学校でも友達がいない私がほとんど初対面みたいな人のところにひとりで行くなんて普通は無理。なんでおじさん来てくれないの。いや、なんでって講義があるからとは聞いているけれど、そういうなんでではない。
サボり自体をサボりたいなあと思いつつ、でも車窓の新緑はこれから向かう接続トンネルへのワクワクを高揚させる。異世界への入り口。その先には見たこともない世界が広がっていて、会ったことのない大勢の人が暮らしている。
特急を降りて一日に三往復しかないバスに乗り換える。バスは国道から外れて峠を越え、小さな湖とその周りに少しばかりの田んぼのある盆地に入る。「遠木野」バス停で降りると、草や土みたいな匂いが入り混じって押し寄せてきた。
おお、田舎! 小さな待合所の裏手は田んぼが広がっていて、植えられたばかりの小さい稲が等間隔にかわいく並んでいる。
田んぼをのぞきこんでいると、待合所にいたおじいさんが私の隣に来て話しかけてきた。
「ちょうど田植えが終わったところでね」
あ、田舎の人の親切というやつか。ちょっと身構える。私の苦手な展開。初対面の人にいきなり話しかけれられるとどういう会話をしていいかわからない。
と思いきや、おじいさんは私の知っている名前を出した。
「誠也君ところの、」
おじいさんはふにゃっとした笑顔になった。おじさんの名前を知っているということは。
「無唯ちゃんだね。前に会ったのはちっちゃい頃だったから覚えてないかもしれないけど、遠木野のおじさん。山市俊郎です。こんにちは」
おじいさん――山市俊郎さんは小さく会釈をした。私はあわてて頭を下げる。心のなかで準備しておいた口上を述べる。
「水戸無唯です。今日はよろしくお願いします」
「おお、おお、礼儀正しいな。あのちっちゃかった子が立派になったなあ」
そう言って俊郎さんは笑った。
傍に停めてあった軽トラに乗り、俊郎さんの運転で夫妻の住む家へ向かった。
バス停がある二車線の県道からセンターラインのない道が集落のほうへ伸びていて、軽トラは両側を田んぼに挟まれたその道を走っていく。
「この道は都会の人から見たら細いだろうけど、遠木野のメインストリートってやつよ。俺らは大通りって呼んでる。昔っからな」
私は無言で頷く。『遠木野接続トンネル』とかろうじて読めるボロボロの看板が道路脇に朽ちて立っているのを目で追う。
向かいから古びた軽トラがやってきて、速度を落としてすれ違う。向こうの運転手は俊郎さんよりももっと高齢のおじいさんで、すれ違いざま右手を上げた。俊郎さんも手を上げて返す。
「みんな知り合いなのさ」
遠木野の集落は平野の端っこの山裾に張り付くように家が並んでいて、「大通り」はその家並みの中に入っていく。道の両側は黒い瓦屋根の古い木造家屋が連なっている。戦前、みたいな感じがする。戦前のことはよくわからないけれど。
集落のところどころに看板を掲げた店舗や宿らしき建物があるけど、看板は錆びたりはげたりしていて営業していそうなところはない。『遠木野異世界みやげ』『異世界への宿 おおた』とか、異世界という文字が集落の風景からやけに浮いている。
集落の入り口からそう遠くないところで、私たちの軽トラは右へ曲がった。車一台がやっと通れるくらいの細い道だ。二軒目の家の玄関前に軽トラは停まった。俊郎さんがエンジンを止める。どうやらここが山市家らしい。木造二階建て、他の家と同じで黒い瓦屋根。玄関の脇にはたぬきの置物がある。
「着いたぞ」
俊郎さんに続いて私も軽トラを降りた。お泊りセット一式の入ったリュックサックも忘れずに。
俊郎さんが玄関の引き戸を開ける。重そうなガラガラという音。あ、鍵かかってないんだ。さすが田舎だなあと思う。
「母ちゃんいる?」
俊郎さんが奥の暗がりに向かって呼びかけると、
「はーい、いるよ」
と声が聞こえて、足音とともに小太りのおばあさんが出てきた。俊郎さんとそれほど年は離れていないように見える。きびきびと動いて、背筋が伸びていて、元気そうな人だなという印象だ。私を見て目を見開く。
「まあ、無唯ちゃん! すっかり大きくなったねえ。祥子おばさん、覚えてる?」
そう言って自分の顔を指差す。でも私は覚えていなくて困った。俊郎さんが後ろから言う。
「そりゃ覚えてねえって。こんなちっちゃかったんだから」
俊郎さんは腰くらいの高さで手を動かして身長を示した。幼稚園の年長はもうちょい高かったのではないかと思う。
「ああ、そんなだったっけ。まあいいわあ。とりあえず上がって。お茶淹れるから」
祥子さんは奥にひっこみ、私は俊郎さんに促されて上がり框から部屋に上がった。上がり框。幼稚園のときにもここから部屋に上がったはずだけど覚えていない。
部屋は畳敷きで真ん中には低い卓と座布団が置かれていて、その奥には襖で仕切られた同じような部屋があり、仏壇が見える。古びた木の匂いがうっすらと漂っている。外の明るさと対照的に部屋の中は気配が静かだ。
「ほい、座布団」
俊郎さんから渡された座布団を敷いて座る。正座。ほどなくして祥子さんが湯呑にお茶を入れて持ってきた。湯気が立っていて熱そうだ。
「まあ、まあ。そんな正座して。かわいらしい」
祥子さんは卓の短辺、いわゆるお誕生日席に足を崩して座った。私も崩そうかどうしようかと迷って、正座のままにした。
「遠かったでしょ? こんな奥地だから都会から来る人も都会へ出る人もめったにいないのよ。私らなんか年取ってバスや電車に乗るのも疲れちゃって大変」
祥子さんはそう言って笑った。
「昔は都会から来る人も多かったんだけどな」
と俊郎さんが言った。祥子さんが頷く。
「接続トンネルが見つかった頃ね。無唯ちゃんが生まれるよりも前、もう二十……三十年くらいになるかな?」
「そうだなあ。もう三十年近いな。あの頃はなあ。何も知らないで来る観光客が多くてそれはそれで大変だった。ゴミはポイ捨てするわ、路上駐車はするわ、そこらの店の接客が悪いとか言って文句言うわ……。儲かった人もあったけど、ブームが去ったら何もなくなってしまったわな」
「無唯ちゃん、ここ来る途中で看板見なかった? 『おおた』っていう」
祥子さんが私を見て言った。
「『異世界への宿』っていう……?」
「そう、それ。あそこの健ちゃん……太田の健ちゃんっていうんだけど、その人が接続トンネルの発見者なのよ。それで、観光客が来るから宿がないと駄目だって言って、自分で民宿を始めて、まあ初めの頃は調子がよかったよねえ」
祥子さんは俊郎さんに言った。まあな、と俊郎さんは答える。
「土日はいつも満室だって言ってたな。一時は結構羽振りも良かったもんだが、結局ブームが終わったら閑古鳥だ。どうなのかな、民宿を建てたぶんくらいは稼いだろうけど、差し引きで言えばほとんど儲かってないんじゃないか」
そう言って湯気の立つお茶をすすった。
「無唯ちゃんもお茶どうぞ」
祥子さんにすすめられるままに私も湯呑に口をつける。
「あち」
想像よりも熱い。
「ごめんねえ。お父さん熱いのが好きだから」
「いえ」
と答えたものの舌を火傷している。
「そうだ、せっかくだから」と、俊郎さんが言った。「健ちゃんが接続トンネルを見つけたときの話でもしてやろうか」
お、と私は自然と身を乗り出していた。接続トンネルの話なら大好きだ。
「といってもほとんど健ちゃんから聞いた話だから、正しい保証はないけどな」
「健ちゃん、ちょっと大げさな人だから」
祥子さんが補足する。
「はあ」
と私は言った。
☆
健ちゃんは名前を太田健一郎という。俊郎さんよりも三つ年下で、子供の頃からお互いのことはよく知っていた。接続トンネルが見つかった池も子供の頃よく遊んだ場所だったそうだ。
健ちゃんは高校を出た後も地元に残り、家業の農業を継いでそれなりに広い畑と田んぼを耕して生計を立てていた。一方の俊郎さんは東京の大学へ出た後で地元に戻り、町役場で働いていた。
「この田舎にしては高学歴のエリートなのよ」
と祥子さんが言う。
「そんなんじゃないよ」
と俊郎さんは少し恥ずかしそうに笑った。
三十年ほど前のある日、健ちゃんは池の草刈り作業の当番にあたっていた。用水路のまわりとか神社や寺の裏山などは遠木野住民の共有地になっていて、草刈りや用水路の底浚いなどの整備作業が住民それぞれに割り当てられている。
池は特に名前はない。遠木野の農業用水を貯めるためのもので、弘法大師が掘ったという伝説があるが、俊郎さんが資料を調べたところによると戦国時代にこのあたりを支配していた領主が農業開発の一環で築造したものではないかという。それが改修されながら使われ続け、このときは町の事業としてわりと大規模な修繕工事が施されたばかりだった。
健ちゃんが草刈機のエンジンをかけると、音に驚いたか魚が跳ねた。きれいな虹色が反射するのが見えた。随分きれいな魚がいるものだなと最初はさほど気に留めなかったのだが、草刈りをしているうちに徐々に疑問が湧き上がってきた。つまり、この池は子供の頃からの遊び場で、魚釣りもしょっちゅうしていた。どんな魚がいるのかはわかっている。あんな虹色に輝く魚なんて見たことがない。どこかの不届き者が許しも得ずに放したのではないか……。
健ちゃんは草刈りを終えると家に戻り、埃を被っていた釣り竿を持ち出した。釣り上げてどんな魚かを見定めてやろうという好奇心からだった。
釣り始めてしばらくはアタリがなかった。工事のときに水を抜いたから、魚は少ないはずだった。いつもなら釣れるはずの鮒や鯉は全く掛からない。もし他所から持ち込まれた魚だとしたら鮒の餌では食わないかもしれない。あたりを見回すと、草の葉の上を緑色の芋虫が這っていた。健ちゃんはそれを針につけて投げ込んだ。すぐにアタリがあり、ワカサギほどの小さな魚が釣れた。鱗はこの世のものとも思えないほど美しい虹色に輝いていた。
「っていうのは健ちゃんの口真似でね」と俊郎さんは言った。「この世のものとも」のところで独特のアクセントをつける。
「実際のところ、まあたしかにきれいな虹色だけども、この世にありえないというほどではないよ」
「死んだら色がなくなっちゃうしね」
と祥子さんも同調した。
話の続き。
健ちゃんはその後も数日にわたって釣りを続け、不届き者が放流したらしき魚を探った。そしてどうやらこの魚が池の底にある小さな穴から出てきているらしいこと、芋虫――コナガの幼虫――を餌にしたときだけ釣れることを突き止めた。
健ちゃんはさらに、この穴の中に直接釣り針を投げ入れてみることにした。ここが魚の巣だとしたら、主のような大物が釣れるかもしれないと目論んでのことだった。これがこの後につながる大発見をもたらすことになる。
芋虫をつけた釣り針を池底の穴に沈めて数分か数十分。アタリは全くなかった。一旦はあきらめて竿を上げようとしたところ、針がなにかに引っかかったような感触があった。根掛かりかと思いつつ少し引っ張ってみると、ボロ布が釣れた。このボロ布を針から外して傍らに投げ捨てようと思ったとき、その端に何か文字のような刺繍があることに気づいた。文字といっても日本語ではない、漢字でもアルファベットでもない、かといってアラビア語などとも似ても似つかない不思議な文字なのである。さらに布の素材も見慣れないものだった。柔らかい織物で、しかし綿や絹とは違う……。
この世のものではない、という思いがふたたび頭をよぎった。同時に、いつか新聞記事で読んだ異世界との接続トンネルの話を思い出した。曰く、この世界とは別に異世界と呼ばれる平行世界が存在していることはほぼ間違いなく、世界各地で見つかっている謎のトンネル状の地形が異世界との接点、「接続トンネル」であるとして研究が進められている――。
これは大発見かもしれないと思い、胸が高鳴った。どこに知らせるか? 警察か、役所か。と考えて、俊郎さんの顔が思い浮かんだ。あいつは東京の大学へ行って物理学だか化学だかを専門にしていたはずだ。異世界トンネルのことも知っているかもしれない。健ちゃんは釣った魚と布切れを持って俊郎さんの家へ走り、泥だらけの手のまま戸を叩いた。
☆
「これがエンドウ豆」
畑に生えている丸っこい葉っぱのつる性植物を俊郎さんが指さした。エンドウ豆のさやが大小さまざまにぶらさがっている。
「初めて見たんじゃないか?」
「はい」
と私は素直に認めた。写真とかでなんとなく見たことはあると思うけど(だから見た瞬間にエンドウ豆だとわかった)、実物をこんなに近くで見たのは初めてだ。私は都会っ子なので。
「さやの色がちょっと黄色っぽくなったやつがいいんだ」
そう言って俊郎さんはさやを枝からぷちりともぎ取る。
「こういう向きで押さえるとさやがぱかっと開く」
なるほど。私もやってみる。気持ちよくさやが開いて中から丸いエンドウ豆が顔を出した。
「異世界魚を釣るには二十個もあれば十分だろう。あとは母ちゃんに豆ごはんにしてもらおう」
ぷちぷち、ぱかぱか、という感触が良くて、結構たくさん取ってしまった。豆ごはんにしても余るかもしれない。
「次はあっちだな」
俊郎さんに従って、畑の端から端へと細い畝間を歩いていく。いろんな種類の野菜が植えられていて、手に葉があたるたびにちくちくした。自然の中を歩いている感じがしてそれもなかなか悪くない。
都会っ子の私からすると広い畑のように思えるけれど、
「これはただの家庭菜園。商売でやるには全然だよ」
とのこと。
畑の端にはキャベツが丸まっていて、開いた葉には虫食いの穴が空いている。更によく見ると虫食い穴のまわりに緑色の芋虫がもぞもぞしている。気持ち悪い。
「なんて顔してんだ」
顔に出ていたらしく、俊郎さんにからかわれた。普通の顔にもどす。
「毒のない芋虫だから手でさわってもいいぞ。こうやって」
俊郎さんは躊躇なくつまんで、持ってきたタッパーに放り込んでいく。やれとは言われなかったが私がやる流れではある。心のなかで顔をしかめながら表に出さずに無表情を装ってゆっくりとつまむ。思った以上にふにゃふにゃしていて、内蔵みたいのが透けて見えてて、ちょっと力を入れたら潰れて汁とか出てきそうで、なんとも言えない恐怖をもたらす感触。
「お、いいぞ。その調子だ」
一、二匹で終わりかと思ったらそんなふうに褒められて、このまま続ける流れになった。一匹また一匹とつまんではタッパーに入れていく。何度もやっていくと恐怖が薄れて無に近い感情になる。うねうね動いているのがなんとなく可愛いような気がしなくもない。顔っぽいのがある。ああ、可愛いかもしれない。いや気持ち悪い。どっちだ。
無に近い感情で芋虫を取っていたので何匹捕まえたのかすっかりわからなくなっていた。
「おお、ずいぶん取ったなあ。キャベツの虫食いが減るから助かるよ」
俊郎さんの声で我に返ると、タッパーの中は折り重なるようにして芋虫がうごめいていた。
「餌はこんなもんで十分だろう。それじゃあ池、行くぞう。それ、蓋閉めて。あとこれ持って」
俊郎さんからエンドウ豆が入った袋を受け取る。俊郎さんは地面においてあった釣り竿と魚を入れるカゴを持ち上げる。
午後の大通りは静まり返っている。酒屋、醤油屋、駄菓子屋みたいな店。それなりに店はあるのだけれど、どれも営業している様子がない。道を歩いている人もいない。
「みんな都会に出ていってしまってなあ、年寄りしか残っていないんだ。年取ると外に出るのもおっくうになって、誰も外を歩いていない」
笑いながら俊郎さんは言った。
「異世界トンネルが見つかった頃はみんなまだ元気だったんだよ。だから観光客が大勢来てもなんとかやれてた」
お寺があった。その脇の舗装されていない道に入り、お墓の横を通り、林の中の坂を上って、下る。広い池がある。池の向こうにはまばらな林があり、その隙間からは舗装された道を時折車が通るのが見える。遠木野の裏山を越えて反対側に出たわけだ。
「ここが接続トンネルのある池。研究者は「遠木野池」と呼んでるようだけど、村の人間は単に池と言っているな」
池の縁に立つ。虫が鳴いている。伸びた雑草が風でざわざわと揺れる。四角い池は舗装道路のある一辺以外は森に囲まれている、特に景色がいいわけでもなく、見たところ何の変哲もないため池。あまりに普通なので、接続トンネルのある池の前に立っているというのに、わくわくするような気分はあまり湧いてこない。
「よし、釣るぞ。そこに大きい石があるから座りな」
言われるがままに石に腰を下ろす。俊郎さんは荷物を下ろし、釣り竿を持って私の横にしゃがんだ。糸の先につけられた針をつまむ。
「餌、貸してみ」
「はい」
芋虫の入ったタッパーとエンドウ豆の袋を差し出す。
俊郎さんはまず芋虫のタッパーを開き、うにょうにょと動いているそれを平然とつまんで針に突き刺した。針の形に沿って芋虫は串刺しにされ、体の真ん中あたりで針の先端が貫通する。ぞわっとなんともいえない感覚。俊郎さんは気にもしない。続いてエンドウ豆を袋から取り出し、芋虫の腹から飛び出した針の先端に刺した。
「変わった仕掛けだろ」
「はあ」
普段釣りをしないので普通とか変わっているとかは分からなかった。
「これ、異世界人に教えてもらったんだぞ」
「ほう?」
そう言われるとちょっと興味が出る。なるほど、緑色のうねうねと玉を連ねて刺し通すのは異世界っぽいセンスかもしれないという気分になってくる。
「教えてもらったのが誠也くんでな」
「ほほう?」
おじさんがそんなことをしていたとは聞いたことがなかった。さらに興味が湧いてくる。
「聞いてないか?」
「聞いてないです」
「そうか、じゃあちょっと話してやろう」
俊郎さんの話は次のようなものだ。
☆
おじさん――水戸誠也氏――は、当時大学院の博士課程に在籍して異世界の研究をしていた。指導教官は俊郎さんの知人であり、接続トンネルが見つかったときに最初にやってきた研究者である、佐藤慎一郎教授。私も佐藤先生の本は読んだことがある。まあ、それはさておき。
その当時主に生物学的な面から異世界の研究をおこなっていた誠也氏は、異世界の魚を捕まえて調べることにした。まずさまざまな餌を使って釣り上げようとしたが一筋縄ではいかない。健ちゃんから聞いたとおりに芋虫を使ったり、エンドウ豆を使ったりしたが、異世界魚はなかなか興味を示さなかった。次に、網で捕まえようとしたが、すばしっこくてそれも簡単ではなかった。池の水を抜いて一網打尽にすることを思いついたが、貴重な接続トンネル周辺の環境維持や観光開発、地元の政治的な思惑なども交錯して、許可を得ることができなかった。
「俺はうまく釣れたんだけどなあ」
と赤い顔で健ちゃんは言った。
「じゃあ、あれだ、異世界人に聞いてみたらいいんだ」
誠也氏は研究のために佐藤教授の知人であるところの俊郎さんの家に泊まり込んでいて、健ちゃんもときどきやってきては酒を飲んでいた。
「異世界にも文字はあるんだろ?」
健ちゃんが見つけた布に書かれていたのはまさしくその異世界文字だった。
「あるけど、全部は解読できていないですよ。それに異世界人はこっちの世界との交流に無関心で、接続トンネルから物を投げ入れてもほとんど反応はありません」
と、誠也氏は答えた。
この状況は現在でも同じようなもので、異世界文字の解読は少しずつしか進んでいない。そもそも異世界人の識字率はかなり低いのではないか、という仮説が結構有力視されている。世界中にある細い接続トンネルを通して得られた断片的な情報を総合すると、異世界の文明段階はせいぜい古代にとどまるだろうという。おじさんによると、日本で言えば古墳時代くらいらしい。
「じゃあ絵だ、絵。文字がわからなくても絵ならなんとなくわかるだろ」
そう言って健ちゃんは卓の傍らに置いてあった布巾を手に取り、油性ペンで絵を描き始めた。できあがったのは、四角い餌(健ちゃんによるとパンくずらしい)をつけた釣り針と、それに背を向けた魚の絵。正直なところそれだけでは何を言いたいのかよくわからない代物だ。
「あっちに流すぞ。時間、ちょうどいいだろ?」
「はい、まあ……」
健ちゃんの勢いに流されるようにして誠也氏も立ち上がり、池へ行った。接続トンネルには水流があり、異世界側とこちら側の重力のバランスなのか、おおむね周期的に方向が変わる。遠木野池の場合は日中は異世界からこちら側への水流になり、夜間はこちらから異世界側に流れることが多い。
果たしてその夜――新月の夜――はひときわ流れが強かった。懐中電灯で水面を照らすと、接続トンネルのある方向へ向かって落ち葉がゆっくりと流れるのがわかるほどだ。
「それっ」
丸めて糸で包んだ布巾を健ちゃんが放り投げた。それはほぼ接続トンネルのあるあたりに着水して、ゆっくりと沈んでいった。
「これでも高校生のときは野球部だったんだぜ」
と健ちゃんは言った。
「そうなんですか」
と誠也氏は答えた。どうせ異世界からの返事なんかないだろう。酔っぱらいの遊びのつもりだった。
ところが十日ばかり経って、思いもかけない知らせが来た。
誠也氏はそのとき、俊郎さんの家の客間で寝転んで論文を読んでいた。異世界魚を捕まえる方法はなかなか思いつかず、研究は進んでいなかった。静かな田舎の午後だった。
そこへ、勢いよく玄関を開ける音。
「おい、来たぞ、返事!」
健ちゃんの声だった。
誠也氏が玄関へ出ると、健ちゃんは手に濡れた布切れを持っていた。
「異世界からの返事! 仕掛けが描いてあるぞ!」
まさか、と思った。健ちゃんが昼間から酔っ払っている可能性もないわけではない。だがともかくその布を上がり框に広げてみた。そして、それがまさしく異世界魚を釣る仕掛けを描いた絵らしいことがすぐにわかった。
絵は、健ちゃんが描いたのと同じように、魚と釣り針が描かれていた。違っているのは、釣り針の先にパンくずの四角形ではなく、細長いものと丸いものがついていることだった。
「どうだ、返事だろ?」
と健ちゃんが言った。誠也氏はうなずいた。
「本当に返事が返ってくるとは思いもしませんでした。というか異世界との交流事例、少ないんですよ。返事が来たというだけで論文が書けます」
現に誠也氏はこのやり取りをまとめて、国際誌に短報を投稿し、掲載されている。
まあ、それはそれとして、描かれている中身である。細長いものと丸いもの。
「芋虫とエンドウ豆だろ」
芋虫は、はまさしく健ちゃんが異世界魚を釣り上げたときの餌である。健ちゃんが釣ったときと違うのは、エンドウ豆らしきものを一緒に針に付けるということである。
というわけで健ちゃんと誠也氏と、さらに俊郎さんまで駆り出されて、おのおの仕掛けを作って池に投げ込んだ。結果はすぐに出た。三人ともの釣り針に、鯉でも鮒でもない虹色に輝く魚が掛かったのだった。
☆
俊郎さんと私は例の仕掛けをつけた針を池に投げ入れ、ものの数分で異世界魚を釣り上げてしまった。拍子抜けにもほどがある。異世界魚は黒っぽい灰色で、見る角度によって虹色に輝いている。それ以外は見た目はこちらの世界の魚との違いはないように見える。でもたぶん生物学者が見たら全然違うってわかるんだろうな。
「釣れちまったな。二匹、これで制限数終わりだ」
「制限数?」
と私は言った。
「ああ、なにしろ科学的な価値が高いからな。研究のために申請した数しか獲っちゃだめなんだ。今回は誠也くんが二匹で申請してくれてる」
「なるほど」
おじさんは言わなかったけれど、私のサボりのためにわざわざそんなことまでしてくれていたのだ。感謝しなければ。
「よおし、帰るぞ」
滞在時間わずか十分少々で立ち上がる。
「あの、これは」
私はタッパーに入った芋虫を指差す。
「池に投げといてくれ。そこらに放したら増えてしまうからな」
私は水面の上でタッパーをひっくり返し、おそるおそる芋虫を池に捨てた。芋虫は水のなかで苦しそうにうねうねとうごめいた。
帰りの道を歩き始めたとき、背後の水面でばしゃばしゃと魚が跳ねる音がした。異世界魚なのか、もともと住んでいる鯉や鮒なのか、おいしいごはんが降ってきて喜んでいるのかもしれない。
晩ごはんは昼間にとったエンドウ豆の豆ごはんだと聞いていたので楽しみにしていた。祥子さんが作ってくれたのは、豆ごはん、味噌汁、キャベツのサラダ、漬物、焼き魚。
その魚を見た瞬間、私はぎょっとした。冗談じゃなくてマジで。これ異世界魚じゃん。
「これは……」
思わず祥子さんと俊郎さんを見た。私の目は丸くなっていたと思う。もともと丸いけどそういう意味ではない。
俊郎さんはふふふと笑った。
「ご賢察。異世界魚だ」
「食べられるんですか」
「食べられるよ。それも健ちゃんがたしかめたんだ」
健ちゃん、何でもやる人だな。あ、でも食べられるというのはそういう意味だけではなくて。
「法律とかは?」
「許可された研究用途以外では捕獲禁止。だけど今回は誠也くんがちゃんと申請してるし、研究用の内臓はちゃんと分けて冷凍してある。身のほうは使わないらしいな。ありがたく食べてしまおう」
なるほどそういうことか。では、食べても大丈夫。
「いただきます」
異世界の食べ物。異世界のことは好きでいろいろ調べたりしてきたけど、異世界の食生活というのは考えたことがなかった。異世界人も人であるなら当然食べ物を食べるはずだし、魚がいるならそれも食料になるだろう。
異世界魚の身を箸でむしる。こちらの世界の魚と違いはなく、白身だ。
いったいどんな妙ちくりんな味がするものかと、興味半分、恐怖半分みたいな感じで口に入れる。噛む。塩焼きなので塩味がする。でも塩以外の味がしない。噛んでも噛んでも味がない。
こういう料理なのか? と祥子さんを見た。祥子さんはにこにこしている。
「味、ないでしょう?」
「はい」
「味、ないのよ、異世界魚って」
「はあ」
単に魚の身の食感だけがある、純粋な塩味。ある意味では人生で初めての体験ではある。普通の魚ならご飯を一緒に食べると味が混ざっておいしいのだけれど、異世界魚の場合は塩だけでご飯を食べているような味になる。異世界、味気ないな。
「こっちの人間の味覚を狂わせる成分が含まれるのかもしれないって誠也くんは言ってたな。栄養素を分析すると普通の魚とそんなに違いはなくて、ちゃんと旨味成分もあるらしい。それなのになぜだか味がしないんだとよ」
なるほど、とすると異世界人はその謎の成分の影響を受けなくて、きちんとこの魚をおいしいと感じているのかもしれない。という今思いついた仮説。
ちょっと味をつけてみようと思い、身に醤油を少し垂らしてから口に入れてみた。一口目に一瞬だけ醤油の風味を感じたが、まるで溶けてしまったみたいに塩味以外の味が消えてしまった。ソースでもマヨネーズでも同じ。これはこれでおもしろい。味噌汁に入れてかき混ぜると、味噌汁がただの塩汁になった。
「おもしろいだろ。でもまあ、利用価値はないな。おかげで乱獲されるおそれもないわけだが」
ぷしゅっと音がした。俊郎さんがビールの缶を開けたのだ。
「酒の味がなくなるからな、酒飲みには合わない魚だ」
そう言って、ぐいっとビールを飲み込む。うまそうに。私はその横で、塩味しかしない晩ごはんをもそもそと噛んだ。
☆
これは夢だって最初からわかっていた。そういう夢を見たことがないわけではない。でも今日の夢はやけにはっきりとそのことを自覚できていた。
体育祭の日。強い日差しが照りつけているが、吹き渡る五月の風は爽やかだ。我らが二年D組は総得点でトップ争いに絡んでいた。最終種目の女子二百メートル走の結果が総合優勝クラスを決めることになるだろう。
私は自信がみなぎっていた。体が軽いしよく動く。いつもより手足が長くすらりとしている。これなら勝てる。
「最終種目、女子二百メートル走」
種目名がアナウンスされ、グラウンドから歓声が上がる。競技用トラックのまわりをぐるりと全校生徒が取り巻き、口々に自分のクラスの選手の名前を呼ぶ。二年D組のみんなも同じ。
「無唯!」
「水戸さん頑張れ!」
「無唯たのむよ!」
応援を背に受け、私は気持ちが高ぶってくるのを感じる。ワクワクする。まるで異世界のことを考えているときみたいだ。『異世界研究』で興味深い記事を見つけたときと同じ気持ち。
私はみんなに向かって大きく手をふる。歓声が上がる。いいとも、私が勝負を決めてやろう。
スタートラインに立ち、クラウチングスタートの姿勢をとる。隣のレーンはアフリカ出身の留学生。さすがに筋肉質な体をしてやがるぜ。
「用意」
スターターがそう言うのと同時に、選手は一斉にスタートの構えをとる。
ピストルが弾ける。
全身の筋肉に力を込め、射出された弾丸のようにスタートを切る。同時に、大歓声が上がる。
スタートは五分に出た。加速は隣の留学生のほうが早い。だが私はトップスピードには自信があるんだ。コーナーに入るまでに徐々に差を詰めていく。
コーナーリングではなかなか差は縮まらない。しかし焦ってはいけない。コーナーを抜けて最後の直線に入るところが勝負。ここで一気に加速していけるか。
それは相手の留学生も同じ考えだ。歯を食いしばり、太ももの筋肉が盛り上がる。さらに加速する。私は負けじと食らいつく。
どっちだ。どっちが前だ。
最後の直線は異様に長く感じた。周囲は何も見えない。金色の霞のようなものに包まれて、まっすぐ伸びる陸上トラックを、私はひとり全速力で駆けていく。勝てる。勝てる。このまま走りきるんだ。
ゴールテープが見えた。大歓声が耳に届く。
「無唯!」
「もうちょっとだ!」
「行っけー!」
応援が私の背中を押してくれる。もうすべてのエネルギーを使い果たし、私は倒れそうになりながらもスピードを緩めない。
留学生の足音が迫る。体が触れそうなくらいの距離に並びかけてくる。でも私はあきらめない。
一歩、一歩。映像はスローモーションになる。歯を食いしばる。汗が飛ぶ。
ゴールテープに先に触れたのは、どっちだ?
ゴールの先で私は崩れ落ちる。隣の留学生も膝に手をついて動けないでいる。お互いに全力を出し尽くしたのだ。
「無唯!」
「水戸さん!」
クラスのみんなが走ってくる。私のまわりに人だかりができる。
「やった!」
「勝ったよ!」
「二年D組優勝!」
仰向けになった私の視界を、クラスのみんながぐるりと取り巻いた。
よかった。みんなのために勝てた。
これまでで最高の達成感だった。私はみんなのために全力を出し切り、最強の相手との接戦を制したのだ。
「どんなもんだい」
私はみんなに向けてサムズアップした。
と、いうところで目が覚めたのである。私は布団に寝転んだまま、天井に向かってサムズアップしていた。
☆
五月二四日、朝。
「どうだ、良い夢見ただろ?」
朝ごはんのときに俊郎さんにそう言われて、私はぎょっとした。どんな夢を見たのか知っているのか?
俊郎さんはハハハと笑った。
「その通りだって顔してるな。そりゃ異世界魚を食べたからだ」
「はあ」
私はあいまいに頷く。
「異世界魚を晩に食べるとその夜はいい夢を見られるんだ。これも健ちゃんが見つけたんだがな」
「はあ」
なるほど、異世界魚か。味がわからなくなる謎成分の他に、いい夢を見せてくれるような成分も含まれているってことか。そんなのが公になれば薬にするために乱獲されるかもしれない。黙っておこう。
それはそれとして、私は夢のおかげか気分が良い。体育祭に行ってもいいかもしれないって気がする。きちんと味のする目玉焼きを食べながら、私は早めに帰ることに決めた。
☆
特急を降り、改札を抜けると、駅前のロータリーに見慣れた車が停まっていた。おじさんの車だ。車内に入ると車よりももっと見慣れた顔があった。
「お母さん、なんで」
と私は言った。
「なんでって、親だから当たり前でしょ」
ちょっとつっけんどんな感じだけど、別に怒ってはいなさそうだ。サボりも回数を重ねると怒られなくなる。今回の体育祭サボり計画を勝手に実行したことについて、学校に着くまでの間に何も言われなかった。ちょっと気が楽になる。
車が校門の前で停まる。
「駐車場に留めてくるから、ここで降りて」
と、おじさんが言い、私とお母さんは一緒に車から降りた。
体育祭はとっくに始まっていて、もう昼休みも終わって午後の部が始まった頃だ。
「じゃあ、保護者席で見てる」
とお母さんは言った。
「うん」
「頑張ってね」
意外、と思った。普段はあんまり頑張ってとか言わないのに。もしかしたら本当に応援してくれてるのかもしれない。と思うとなんか恥ずかしくてむずむずする。
二年D組の席に行くと、真野さんが気づいてこっちに来てくれた。
「水戸さん! よかったー。来てくれたんだ」
「あの、どうも、すみません」
「謝らなくていいよ。ねえ」
真野さんの隣には私のかわりに四百メートルに出場してくれた小宮さんがいた。陸上部。日焼けが、いい具合に陸上部っぽい。
「そうそう、四百メートル勝ったし」
「すごい。あ、小宮さん、ありがとうございました」
私のかわりを積極的に勝って出てくれたことに感謝。
「いいって。そんな頭を下げるような重大なことじゃないよー。それより、女子二百メートル走もうすぐだから、準備運動して」
「あっ、はい」
小宮さんは陸上部式の準備運動を教えてくれた。いい人だ。
二年D組は今朝の夢とは違って最下位を争っていた。女子二百メートル走の結果がどうだったとしても大勢に影響はないし、応援に熱がこもっているわけでもなくほのぼのとした雰囲気が漂っている。
スタート地点に集合するようにという放送がかかってもその雰囲気は変わらなかった。歓声が上がるわけでもなく、みんなでわいわいやっている。真野さんが手を振ってるのが見えたので小さくお辞儀した。
スタート地点に立つと、私は左から三番目で、左隣はあんまり運動が得意ではなさそうな三年生。右隣は小柄で運動が得意そうな一年生。足の速い留学生とかではない。というかこの高校には留学生はいない。
「用意」
体育の先生がピストルを鳴らす。走り出す。隣の一年生が一気に加速していく。私は左隣の三年生とほとんど横並びでぺたぺたと走る。
○
「無唯に気合入れてくれたの? 遠木野の山市さんってのは」
駐車場に車を停めて保護者席に行くと、姉が二人分の席を確保してくれていた。まだ無唯はスタート地点に集まっているだけで、スタートはしていなかった。間に合ってよかった。
姉の質問には、正直なところ僕もよくわからない。
「何があったんだろうねえ。闘魂注入、みたいなタイプの人でないのはたしかだけどね。よほど楽しくて気分が良くなったとか? ……いや、それならむしろ帰りたくないって言いそうだ」
「じゃあ反対に全然楽しくなかったとか?」
「でもずいぶん楽しそうに話してた」
車の中での無唯はいつもの通り口数こそ多くはないけれど、いつもより上機嫌なのはわかった。
「わかんないなあ」
姉はパイプ椅子にもたれて呟いた。今日は仕事の半休をとって見に来たらしい。娘を扱いかねてしょっちゅう文句は言っているけれど、娘が出る行事はきっちり参加して、まあなんというか、ちゃんと親をやっている。
「あ、スタートするんじゃない?」
と僕は言った。女子二百メートル走に出場する生徒たちがそれぞれのスタート地点につく。実況放送があったり特別な演出があったりするわけでもなく、プログラムは粛々と進んでいく。
ピストルが鳴り、一斉にスタート。まずは無唯の隣の小柄な子がぐんぐん加速していく。運動部の子かな。一人だけ格が違うって感じだ。その子以外は走力は大差ないらしく、ほぼ一団になっている。
「おー、意外と走れてる」
隣で姉が言った。無唯は真剣な顔で走っていた。いつものローテンションとは違う。他の子たちに離されまいと食らいついている。
が、それも束の間。
「あ、こけた」
「ありゃー」
見ていて気持ちいいくらいの見事なヘッドスライディングだった。無唯のまわりだけ砂煙がもうもうと上がっている。気づいた教員が慌てて駆け出す。
無唯はしばらく腹ばいのまま前を見ていた。怪我をしていないだろうか。あの滑り方なら大怪我にはならなそうだけど。怪我はないとしても、さすがにリタイアかなと思った。
無唯は諦めるのが早い。前に進む気持ちが切れると、動かなくなってしまう。
「ここまでかー」
と姉が言う。
しかし無唯はむくりと起き上がった。駆けつけた教員が声をかける。無唯はなにか答えて、そして走り出した。
「おお? すごいすごい」
僕は無意識に姉の肩を叩いた。姉は驚いた顔で無唯が走り出したのを見ている。
不意に、生徒たちの中から声が上がる。
「無唯ー! 頑張れーっ!」
二年D組、と書かれたプラカードのあたりで、何人かの女の子たちが無唯に手を振って声援を送っている。
「大丈夫かーっ!」
一位の子がゴール。後続集団も次々ゴール。無唯だけ圧倒的に離されて、ようやくトラックの半分くらいのところを走っている。
「へえ、応援してくれる友達、いるんだなあ」
無唯の話を聞いていると、友達なんか一人もいなくて、いつもひとりぼっちで過ごしているかのような気がしていた。でも余計な心配だったみたいだ。
「いるんだね、よかった……」
姉は目に涙を浮かべている。母親ですらそう思ってたのか。
無唯は全観客が注目する中、体操着を砂まみれにしてゴール。そのままぺたりと座り込んだ。心配した教員に声をかけられ、ふらふらと立ち上がって、救護所に入っていった。
その後を何人かの女の子がついていく。なんだかんだとあったけど、体育祭はうまくいったし、無唯も高校生活はなんとか乗り切れそうだと思える。
「異世界なんかに夢中になって困ったものだと思ってたけど……」
と、姉が言った。
「まあ、ちゃんと頑張ってるんだね」
☆
昼休みの空き教室。私はひとりで椅子に座って、日本異世界学会の和文誌『異世界研究』六月号を読んでいる。空は曇って、空気はじめじめしている。これから暑くなったらエアコンのないこの部屋は居心地が悪くなるだろう。かといってエアコンのある部屋に忍び込んで勝手に電源を入れたら先生に怒られてしまう(去年は怒られた)。高校はひとりぼっちに厳しい場所だ。
『異世界研究』の今月の特集は「異世界との交流」。接続トンネルを介して異世界人と意思の疎通ができた事例を世界中から集めて紹介していて興味深い。おじさんこと水戸誠也氏は今月号では執筆していないけれど、遠木野池で釣りの仕掛けを教えてもらった事例がおじさんの論文を引用する形で紹介されていた。自分の目で見て体験したことだけに、読んでいてニヤニヤしてしまう。
がらりと戸が開いた。
「おー、いた。ていうかなんでニヤニヤしてるの」
真野さん……もとい、
「ほう? さてさて……」
私はニヤニヤを打ち消して何事もなかったように『異世界研究』に視線を戻す。しかしそこにあったのが異世界生物の写真特集だったので思わず口元がニヤリとしてしまった。
「やっぱりニヤニヤしてるじゃん。好きだねえ、異世界」
凛ちゃんは私の隣の机の埃を払って腰掛けた。そして『異世界研究』を読んでいるふりをしている私をじっと見た。困った。
「無唯はさあ」
呼び捨てにされるのはまだ慣れない。しかも美しい声なので余計にむずむずする。
「いいよねえ」
と、笑顔。
「……なんで?」
「好きなことめっちゃ好きだから」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
凛ちゃんはうなずいた。
「私そんなに好きなことってないから。うらやましい」
そして立ち上がる。事務連絡の前にこういう他愛もない会話を挟むのがコミュニケーション能力って感じですごい。
「五限目の生物、実験室でやるって」
「あ、うん」
私は四限目の体育をサボってそのままこの教室で昼休みに突入したから、昼休みの頭にされたであろうその連絡を知らない。なのでクラス委員の凛ちゃんがわざわざ知らせに来てくれたわけだ。
「いつもすみません」
「いいよ。それより生物の実験って無唯得意でしょ。よろしくね。遅れないでね」
「うん」
凛ちゃんは教室を出ていくとき振り返って私に手を振ってくれた。私は恥ずかしいのを少し我慢して小さく手を振り返した。
私は時計を見る。使われてない教室だから合ってる保証はないけど。昼休みが終わるまであと五分。
開いたままの戸から、凛ちゃんの足音が遠ざかっていくのが聞こえる。手元の『異世界研究』に目を戻す。読み残しは十ページほどある。
どうする? と少し逡巡して、私は立ち上がった。
凛ちゃんの後を追いかける。「一緒に行く」って言ってみよう。最近はどうしてか、そんな気分なのだ。
異世界はこの世界のすぐそばにある 石喰 @ishibami
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