第10話 匂い
~シリュウ本家~
「よりにもよってカカの帰ってくる日に」
龍希は舌打ちした。
昨夕、会議の緊急招集があり、朝早くから本家の大広間に来ていた。
『疾風を残してきたから、カカが芙蓉を隠すことはないだろうが・・・』
早く帰りたい。
「揃ったな。」
族長が入ってきて上座に座った。
皆が族長に注目する。
「朗報だ。
族長の報告に龍希は喜んだ。
龍栄は族長の長男だ。
周囲からも歓喜の声が上がる。
「今度は大丈夫ですよね?」
龍希は食い気味に尋ねる。
「昨日、妊娠がわかったばかりだ。出産までシュシュが泊まり込みでサポートする予定だ。」
族長が無表情で答えるのには訳があった。
龍栄の前妻は2度死産、今の妻は1回流産している。年明けには28歳になる龍栄にはまだ子がおらず、父の族長はずっとやきもきしている。
龍希を含め龍栄を支持する一族の連中も気が気じゃないのだ。
だが、シュシュは本家に仕えるフクロウ族の獣人で、経験豊富な医師だ。
娘を3羽産んでおり、娘らもみな医師になってシリュウ一族に仕えている。
シュシュを信じるしかない。
「ところで龍希様のところは?」
この声は
龍希を族長後継に推している馬鹿どもの筆頭だからだ。
『黙ってろよ。俺は後継者になる気はさらさらないと言ってるだろ!龍栄殿が次の族長になるのが一番だろうが。』
龍海を睨もうとして、龍希は思い直した。
『待てよ。ちょうどいい機会じゃないか。』
「俺ですか?離婚しました。」
龍希は笑顔で報告した。
「は?えええ!?」
部屋中が大騒ぎになる。
龍希の向かいに座る龍栄は口をぽかんと開けた。
「いやいや待ってください!3月にご結婚されたばかりじゃないですか」
龍海は声を張り上げる。
「ああ、もう別れた。」
龍希はまた笑う。 周囲が一層騒がしくなる。
「静まれ!」
族長が低い声で命じ、会場は一瞬で静まり返る。
「龍希、初耳だぞ。いつのことだ?」
族長は龍希を睨む。
「8月です。」
「今、何月だと思っとる?」
族長の怒気を含んだ声に龍栄をはじめ周りにいる者たちは顔を青くする。
「12月ですね。遅くなりました。」
龍希は笑いながら族長の顔を見た。族長の説教は慣れっこだ。今さら怖いとは思わない。
族長と龍希の視線がぶつかる。
「はあ。」
族長がため息をついて視線を外した。
「詳しく説明せい。報告が遅れた理由もな。」
族長が命じる。
めんどくさいが仕方ない。
龍希にも一族での立場がある。
ここはおとなしく説教を受けねばならない。
「疲れたー」
龍希は帰りの馬車の中で独りごちる。
あの後、一族総出で説教された。
もう一族には10年以上子どもが生まれていない。
妻の死産・流産が続いているのだ。
来年には20代の雄は龍栄と龍希だけになる。
あとは成獣前の雄が3人。
龍栄は成獣になると同時に結婚したが、龍希は成獣後ものらりくらりと結婚を避けていた。
龍希は縛るのも縛られるのも嫌いだ。
それに龍栄よりも先に息子が産まれでもしたら面倒なことこの上ない。
だが、今年の新年会では龍海をはじめとする一派が土下座して頼み込んできた。
当時、龍栄の新しい妻が妊娠中だったこともあり、龍希はついに折れ、一族が選んだカラス族長の娘と結婚した。
その後、龍栄の妻は流産したが、それは龍希の離婚とは無関係だ。
なのに・・・信じられないと離婚の理由を詰問されること1時間、さらに復縁を説得されること2時間。
そこから龍希の新しい妻をどうするかという話が続いた。
龍希は芙蓉のことは報告しなかった。
今はまだダメだ。
龍栄に対抗して早く子を孕めと、龍海たちは芙蓉にプレッシャーをかけてくるに違いない。
族長後継となるには息子がいることが絶対条件だからだ。
龍栄の最初の妻はそのプレッシャーに耐えられず、2度の死産の末離婚したらしい。
そんなのは御免だ。
可愛い芙蓉と別れるなんて考えたくもない。
今日は仕事が休みだから、昼まで芙蓉と寝室で過ごそうと思っていたのに・・・緊急会議のせいでとんだ1日になってしまった。
帰ったら芙蓉と二人きりになりたいが、カカがなあ・・・
「あ~めんどくせえ!」
それもこれも龍栄が悪いのだ。
あいつに息子が産まれていれば、芙蓉を隠す必要なんてないのに!
前妻との復縁だのどこぞの取引先との再婚だの無駄話に付き合わされるはめになった。
まあでも来月あいつに息子が産まれれば・・・
芙蓉のことを父上になんて説明しようかな?
婚前交渉がばれたらマズイし、かといって使用人に手を出したと勘違いされても困る。
疾風の誤解を解くのは大変だった。雛の次は芙蓉を使用人だと勘違いしていたなんて、しかもタタまで・・・もう呆れて何も言えなかった。
「ま、カカに考えさせるか。」
悪さの後始末と言い訳はいつも通り、鶴のばあやに任せよう。
『そういや、珍しく龍栄が睨んでたな。なんでだ?』
龍希はふと気になったものの、龍栄にわざわざきくことでもないので忘れることにした。
だが、このことを龍希は後に死ぬほど後悔することになる。
~枇杷亭~
「お帰りなさいませ。若様。」
カカは半年ぶりに主を出迎える。
もう夕暮れだ。 一日がかりの会議で疲れたのだろう。若様は明らかに不機嫌だった。
「ああ。」
若様はそれだけ言うと、カカには一瞥もくれず、靴を脱ぐとまっすぐに桔梗の部屋に入っていった。
カカは驚愕した。
自分の見たものが信じられなかった。
わずか半年の間に何があったのだ?
「若様は一体どうしたの?」
一歩後ろに立つ疾風とタタに尋ねる。
「紅葉狩りの後、一層執着が進みまして。あのカラス・・・いえ、前の奥様の時には、帰宅早々会いに行かれるなんてことは一度もありませんでしたよ。」
タタが苦笑いしながら答える。
そうだろう。
それこそカカが幼少期から知る若様だ。
「カラスはいつまでいたの?」
「8月までです。」
「ではじん・・・芙蓉様はいつからここに?」
「10月です。」
タタの答えにカカは首をかしげる。
『おかしい。個体差はあるが、雄のシリュウが雌に手をつけてから執着を示すようになるまで最低3~6ヶ月はかかる。それに若様は遅いタイプのはずだ。そうでなければあのカラスが簡単に枇杷亭を出られたはずがない。ならば10月より前から?ありえない。手をつけたら、雌をそのまま自分の巣に連れてくるはずだ。』
カカは腕を組んで考え込む。
「一体何がおきてるの?」
カカは疾風とタタを見る。
「カカ様にもわかりませんか・・・」
2人ともカカと同じ困った顔をしていた。
~桔梗の部屋~
「ただいま。芙蓉。」
若様は扉を開け、芙蓉の姿を見て笑顔になる。
「お帰りなさいませ。若様。」
芙蓉は読んでいた本を机において立ちあがると、作り笑顔で出迎えた。
若様が芙蓉の腰に両腕を回して抱き寄せると芙蓉は若様の顔を見上げる。
唇が重ねられると芙蓉は目をつむり、口を少し開けて吐息とともに入ってくるものを受け入れた。
若様はこの2ヶ月で随分と上手くなった。
濃厚なキスから解放されると芙蓉は新鮮な空気を吸い込んだ。身体が熱い。
若様は芙蓉の髪に顔をうずめて匂いを嗅いでいる。
『う、また?まだ湯浴みもしてないのに・・・』
芙蓉は顔がゆがみそうになって慌てて少し下を向く。
やっぱり変な匂いでもするのだろうか?
ここ最近、毎日匂いを嗅がれる。
一昨日、不安になってニニに相談したが役に立たなかった。
「うーん。芙蓉ちゃんの匂いは元々薄いからなあ。若様の匂いで分かんない。でも、若様は私たちの何倍も鼻がいいから、気になるならきいてみれば?」
能天気な羊はそう言って笑うだけだった。
『若様に聞けないから困っているのに・・・』
「タタが来たのか?」
頭上からの声に芙蓉は我に返る。
「は、はい。食事を持ってきてくれました。」
今日は起きるなり桔梗の部屋から出るなと言われた。
理由は教えてもらえなかったが、若様の命令には従うしかない。
部屋で読書をして過ごしていたら、タタが朝食と昼食を持って来てくれたのだ。
でもどうしてタタが来たと分かったのだろう?
「そうか。」
若様はやっと芙蓉を解放した。
「カカが戻ってきたからおいで。」
そう言って芙蓉の手を取る。
カカとは鶴のばあやのことだ。
今日戻ってくるのだとニニが教えてくれた。
『やっと部屋から出られる。』
若様に続いて廊下に出た。
「は、疾風さんどうされたのですか?」
芙蓉は黒い着物を着た鶴の獣人の後にいる執事の姿に驚いた。
疾風の左目は腫れ、鼻には固まった血がこびりついている。身体が少し右に傾いているので服の下も負傷しているのかもしれない。
この執事は使用人の中で一番立場が上ではなかったか?
若様が折檻したのだろうか?
「私のことはお気になさらないでください。芙蓉様。」
疾風は無理やり笑顔を作ると、一歩下がった。
疾風は紅葉狩りの翌日から急に敬語を使い始め、芙蓉を避けるようになった。
芙蓉には理由がわかっている。
『まあいつまでも隠しておけることではないと思っていたけど。』
どうやら獣人の世界でも妾は使用人より立場が上らしい。
幸いなのは遊郭と違って、芙蓉に対する嫌がらせがないことだ。
「芙蓉。カカに挨拶してやれ。」
若様はそう言って芙蓉の肩に手を回す。
「はじめまして。カカ様。人族の芙蓉と申します。」
芙蓉は軽くお辞儀をする。
「カカでございます。使用人を敬う必要はございませんよ。カカとお呼びください。芙蓉様。」
カカは深々と芙蓉に頭を下げるが、目が怖い。
2メートルを超える鶴の刺すような視線に芙蓉は思わず目を逸らした。
「若様。色々とお話ししたいことが・・・」
ばあやが龍希を見る。
「食べながら聞く。疾風、お前はもう下れ。」
龍希は苦笑いしながら答える。
『面倒くさいが仕方ない。さすがに疾風が気の毒だ。』
「もう疾風は許してやれ。」
龍希は執務室のテーブルで酒を飲みながら命じた。
ばあやは渋い顔をしている。きっと明日も折檻する気だったに違いない。
「ばあやはお館様と亡き奥様に合わせる顔がございません。あのバカのせいで次期族長の面子がつぶれるところだったのですよ。」
龍希は眉間にしわを寄せる。
「俺は族長になる気はないと言ってるだろ。」
「いいえ、若様は族長になるべきお方です。たとえ龍栄様にお子様が産まれてもです。あの方はまだ怯えてらっしゃるのでしょう?」
ばあやの言葉に龍希は唸る。
「跡継ぎができれば・・・変わるさ。きっと」
「明日、お館様に芙蓉様のことをご報告なさいませ。ばあやもついていきますので。」
「ダメだ。鶯亭の出産までは伏せておけ。」
龍希は強い口調で命じる。
今のタイミングで芙蓉のことを知らせたら、とんでもないプレッシャーをかけられる。
「隠せるものではございません。それに報告前にご懐妊されたらどうするおつもりです?」
ばあやは食い下がる。
「そんな簡単にできたら、誰も苦労してない。」
龍希は笑ってしまった。
しかし、ばあやは真剣だ。
「強いシリュウには必ずご子息がおられます。今ならまだ間に合います。使用人ではなく、はじめから妻として連れてきたと言い張ればよいのです。」
「意外だな。てっきり隠そうとすると思った。」
龍希は驚いた。
「亡き奥様の代わりに若様が族長となられるのを見届けると決めておりますので。今、若様に殺されるのはご免です。ばあやはあと100年は現役で働きますので、若様のひ孫の代までお世話致しますよ。」
鶴のばあやの壮大な計画に龍希は苦笑いするしかない。
だが、芙蓉を隠す気がないなら安心だ。
ばあやは龍希に嘘をつかない。
「出産は1月だ。そのときにはお前も連れて行くから待ってろ。」
龍希はそう言って立ち上がった。
「ですが・・・」
ばあやはまだ食い下がる。
「話は終わりだ。俺は芙蓉と風呂に入って寝るから邪魔するな。」
龍希は強い口調で言うと執務室を出て桔梗の部屋に向かった。 ばあやは追いかけてこなかった。
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