第9話 鶴の婆や
香流渓まで主のお供をした翌日、疾風は枇杷亭の食堂で遅めの朝食をとっていた。
主は昼まで寝るとのことで久々に食堂でのんびりと過ごしていたのだが、
「疾風。ここにいたか」
犬の獣人が近づいてくる。
「
穏は枇杷亭の庭師だ。
「なあ、もしかして若様はご体調が悪いのか?」
「は?」
疾風は驚く。
「昨日、酒屋が来たんだが、酒の減りが少なすぎるというんだ。」
穏は納品書を差し出す。疾風はそれをみて眉をひそめた。
いつもの月の半分の量しかない。
「確かに少ないな。だが・・・様子はお変わりないぞ。」
昨日はなかなかの強行軍だったが、若様はいつも通りだった。
むしろ馬車に帰ってきた時、えらく上機嫌だった。
「最近、晩酌をされてないからだろ」
延が厨房の中から声をかける。
「そうなのか!?」
疾風と穏は同時に延を見る。
「ああ、晩酌のつまみの注文がないからな。」
「噓だろ!?」
疾風は驚いた。
酒好きの若様は風呂上がりに毎晩2時間は晩酌をしている。
本家にいらした時からの習慣だ。
『まさか本当にご病気か?いや、そんなばかな・・・』
「あー!疾風さんがいる。珍しい」
ニニが食堂に入ってきた。ナナも一緒だ。
「ああ、いいところに来た。若様は最近晩酌をしてないらしいんだが、体調にお変わりないよな?」
ナナとニニは顔を見合わせる。
「噓でしょ?まさか疾風さん知らないの?」
ナナは呆れているが、疾風には何のことか分からない。主のことなら疾風が一番把握している自信がある。
だが、なんだろう?
嫌な予感がする。
疾風の獣としての本能がそう告げていた。
「じゃあ、ニニが教えてあげる。若様は芙蓉ちゃんに夢中なの。」
「はあ!?いやいや芙蓉はまだ雛だろ!」
疾風は思わず大声をあげた。
「ううん、成獣になったのは3年も前らしいよ。」
「はあ!?なんでもっと早く言わない!」
疾風は机を叩いて怒鳴る。
「怒んないでよ。私たちが気づいた時には手遅れだったの。」
ニニが肩をすくめる。
「最悪だ。」
疾風は頭を抱えた。
使用人に手を出すなんて。それも人族って。
いや、シリュウはそういう生き物だ。妻のいない雄は自分の巣の中にいる若い雌に手を出すのだ。
ただし、雌が発情期の時に限られるので、ナナとニニは毎年、発情期の冬になると屋敷外に避難させている。
タタは若くないので安全圏だ。
まだ子を産めない雛も安全なので油断していた。
「手遅れってなんだ?」
穏が尋ねる。
「手を出されてすぐなら、芙蓉を巣から出して隠せば、若様はそのうち忘れちゃうの。でもその時期を過ぎると怒って、隠した使用人を殺してでも探すらしいわ。」
ナナが説明する。
「芙蓉が来たのは最近だろ?手遅れなのか?」
「あの若様が酒より優先してるんだよーそんなもの今まであった?」
ニニが穏を見る。
「なるほどな。」
穏は納得した。
元妻がまだ枇杷亭にいたころ、若様は毎晩晩酌していた。
「芙蓉がいる限り私たちは安全だから、この冬は屋敷で過ごせるわ。」
ナナは珍しくご機嫌だが、穏はまた首をかしげる。
「どういう意味だ?」
「え?若様はもう芙蓉しか眼中にないから。他の雌には見向きもしないわ。」
ナナの返事にニニも頷いている。
「おい!まさかお前ら、わざと?」
延がナナとニニを睨む。
「違うよ。疾風さんが雛って言うから、私もナナも信じてたの。若様の寝室のシーツから芙蓉ちゃんの匂いがした時はびっくりしたよ。
それで芙蓉ちゃんに確認したらもう成獣してるって。疾風さんが怖くて訂正できなかったんだって。」
ニニは目を伏せる。
「まあ、若様は芙蓉が枇杷亭に来た初日に手を出したらしいから、どっちみち間に合わなかったけど。」
ナナも暗い顔だ。
「使用人に手を出したなんて・・・カカ様に怒られる。」
疾風は鶴のばあやを思い出して震えた。
「そういえば来週帰ってくるんだっけ?疾風さん間違いなく折檻されるね。」
ニニの言葉に使用人たちは頷いた。
鶴のばあやは恐ろしいのだ・・・
「こんの馬鹿たれが!」
枇杷亭の食堂に鶴の怒声が響く。
カカは顔を真っ赤にして怒っていた。
今年の6月に足を負傷して暇をもらい、半年ぶりに枇杷亭に戻ってきたところだった。
のに、
「獣人の見た目などあてになるか!ちゃんと確認しろといつも言っとるだろうが!この愚図」
カカは土下座している疾風の頭を踏みつける。
「ぐ・・・。申し訳ございません。」
疾風は踏まれたまま詫びる。
「謝るなら人族の娘にだろう!どこにいるの?」
カカは疾風を踏んだまま怒鳴りつける。
「桔梗の部屋ですが、自分が戻るまでカカ様には会わせるなと。若様が」
タタが恐る恐る答える。
若様は朝から本家に出かけているらしく、入れ違いになってしまった。
「お館様はご存じなの?」
「いえ・・・離婚のこともまだのようです。」
タタが小さな声で答える。
「はあ!?」
カカは怒りのあまり今度は疾風の肩を蹴りつけた。
『お館様に合わせる顔がない。とんでもない面倒事が待っていた。』
カカは再び入院したくなった。
「疾風!責任取って人族の娘を隠してきなさい。お館様に知られる前に!」
「む、無理です!もう手遅れです!私だけでなく、皆殺しにされますよ。」
疾風は真っ青になって首を横に振る。
シリュウに敵う獣人などいない。
若様の逆鱗に触れるなど考えただけでも恐ろしい。
「疾風のいう通りです。それに今日報告していらっしゃるかも。」
タタがフォローする。
「う・・・」
カカは唸った。
「人族の娘はどんな様子なの?」
カカはタタに尋ねる。
「普通といいますか・・・何も変化がなくて。ニニが寝室の匂いに気づくまで、誰も疑いもしませんでした。」
タタの言葉に使用人たちは皆頷くが、
「そんな馬鹿なことがあるか!!!」
カカはまた怒鳴った。
シリュウの雄は恐ろしく独占欲が強い。
妻が自分の巣から出ることを許さず、妻の外出には必ずついてくる。
有力な実家を持つ妻の中には夫の留守を狙って帰省や家出をするものもいるが、住み込みの使用人にはそれができない。
死ぬまで檻に入れられたも同然だ。
長年、シリュウ本家に仕えてきたカカは、夫に隠れて涙を流す妻たちを見続けてきた。
前の主である孔雀の奥様は嫁入り後、死ぬまで再び空を飛ぶことは叶わなかった・・・
空を愛する鳥族にとってこれ以上の拷問はない。
それでも政略結婚は仕方ない。
使用人が口出しすべきことではないからだ。
だが、力のない使用人たちは守らなければならない。
それが若様のためにもなる。
そう思って疾風とタタを教育してきたのに・・・
「なんてこと!」
鶴の婆やの嘆きが枇杷亭中に響き渡った。
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