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4-(1)釧路の人々
薄明の水色と朝焼けの
布団の上に起き上がる。千帆がぼくを揺さぶっていた手を放し、立ち上がって廊下へ出ていった。ふてくされた横顔が見えた。目覚まし時計を手に取ると、六時四十五分を指している。
「悪い、寝過ごしたわ」
妹の背中に声をかけた。
「一人で行く?」
「玄関で待ってる」
千帆は不機嫌に答え、一階へ下りていった。中途半端に開いたカーテンを窓の端まで押しやって外の光を入れ、
兄妹で近所の河畔を走るのは昨年の秋以来だ。三つ年下の千帆は、ぼくの中学卒業と入れ替わりで陸上部に入り、ぼくと同じように中長距離を走るようになった。路面の状態や天候が許せば、ぼくらは毎朝一緒に走り、それはぼくが受験勉強で忙しくなるまで続いた。
河畔は粉っぽく乾いた草に覆われ、川には水面に沿って霧が流れている。折り返し地点と決めている橋のそばで走りやめ、続いて止まった千帆に言った。
「河畔に下りて、少し座っていい?」
「もう疲れたの。東京で運動してないんでしょ」
「そうでもないけどさ」
橋の脇にある階段を下りる。河畔のベンチに腰かけ、川の流れを眺めた。速い流れだ。水音を聞いていると、郷里での生活がずっと続いてきたかのように錯覚する。
「兄ちゃん、星を見るサークルに入ったんだってね」
千帆の声に物思いを破られた。どこか非難めいた響きを感じて、妹の顔を見る。
「お母さんから聞いた。また陸上部に入ると思ってたのに」
千帆はうつむいて足元の草をいじり、その一本を指に巻きつけている。
「たまたま、大学に天文部があったからさ。中学にも高校にも、そういうのなかったから」
「それ、楽しいの?」
「楽しいよ」
千帆は腑に落ちない顔をしていたが、立ち上がって土手を数歩、川の方へ下って止まった。ぼくもつられて立ち上がり、千帆の後ろ姿を見つめた。
「いいなあ、兄ちゃんは。わたしも東京へ行きたい」
千帆は、ぼくにというより川面に訴えかけるかのように吐き出した。
「千帆も、来れるように頑張ったらいいべ」
「兄ちゃんみたいに、頭良くないもん。東京に住むの、お金もかかるし」
「俺と一緒に住む?」
「い・や・だ」
千帆は半分だけぼくの方を振り仰いだ。唇を尖らせ、再び川の方へ向いて、
「わたしまで釧路を出たら、お母さん、ひとりになっちゃうし」
と言った。ぼくは言葉を継げなかった。千帆の短く切った髪がうなじで不揃いに伸び、風を受けて震えている。その寂しげなさまに、申し訳ない気持ちになった。
「戻ろうか」
声をかけると、千帆は肩越しに振り向いて眩しそうにぼくと目を合わせ、無言で階段の方へ向かった。
「千帆。こっちにいる間は、毎日千帆と走るよ」
妹を追って走りながら叫んだ。千帆はちらりとぼくに視線を流した。一瞬、嬉しさを押し隠すような表情が見えた。
家に戻ると、母が台所に立って、朝食の用意を始めていた。
「合宿で星、見えたのかい」
母は味噌汁の椀を食卓に並べながら訊いた。
「見えた。三泊目まで待ってやっとだったけど、天の川も見たし、流れ星も十個以上は見た。ペルセウス座流星群っていうのが見える時期だったんだよ」
「流星群ね」
母の口元に笑みが浮かんだ。
「母さん、お父さんと流星群、見ようとしたことがあるの」
驚いて母を見つめると、とっておきの話を明かすところだという目をしている。
「あんたが三歳で、千帆がもうすぐ生まれるって頃だけどね。ジャコビニ流星群っていうのが来るって、ずいぶん新聞やニュースで言ってたの。それで、お父さんとその日を指折り数えて待ってたんだけど、曇りだったの。ちょっとでも空が見えないかって、夜中の一時くらいまで粘ったかな。あきらめて寝ちゃったんだけど、結局、晴れたところでも流れ星は出なかったっていうのね。あれ、何だったのかなと思う」
「ええー、そんな話、初めて聞いたわ。お母さん、お父さんと星見るような趣味あったの」
千帆の追求に、母は得意気に言った。
「わたしたちにも、そんな時代があったってことさ」
ジャコビニというのは知らないけど、と説明した。
「流星群で、流れ星が一番よく出そうな日はわかるけど、何時頃とか、どのくらいの数が出るのかとかは予想できないんだ。だから外れたのも不思議じゃないよ」
「へえ。あんた、勉強したのね。……そうそう、昨日、市立博物館の
高校時代に、理科の先生を通じて知り合った学芸員だ。電話すると、小中学生対象の生き物講座で補助業務をしないかという。地元の教育大学の学生がアルバイトで行う予定だったが、都合で来られなくなり、
「今日はほんとに助かったわ。海広は、子どもと話すのうまいね」
生き物講座の参加者が解散し、多目的ホールの片づけをする間に東海林さんが言った。
「きっと、自分が子どもに近いからですよ」
「大学生活の方は、どう」
東海林さんは壁に貼ったポスター類を取り外している。ぼくはホールに並べた机を回り、子どもたちが使った筆記具を箱に集める作業をしていたが、途中で立ち止まった。
「東京って、やっぱり全然違いますね……。何だか、居場所がない感じです」
ぼくの返事を聞いて、東海林さんも手を休めた。
「どうして」
「大学に行ったら、すごくできる奴がいっぱいいるだろうって予想はしていたんです。でも、現実は想像よりずっと上でした。勉強もスポーツもできて、見た目も性格も良いとかいう人が普通にいる世界なんですよね。正直言って、落ち込むこともあります」
「同じこと、海広の横で思ってる学生もいるよ」
「そうなんでしょうね。よくあることだとはわかってるんですけど」
「専攻はいつ、決まるの」
「二年生の秋です」
「じゃあ、それに向けてまずはしっかり勉強して。一般教養の間はつらいかもしれないけど、同じ興味の人が集まるところに行けば絶対楽しくなるから。せっかくいい大学に行ったんだから、その環境を生かさないと」
片づけを終える頃、東海林さんに訊きたいことがあったのを思い出した。
「東海林さんは、阪大で博士号まで取ったんでしょう」
「ああ。論博でね」
「ロンパク?」
「論文博士。大学院の博士課程で取るのを課程博士というんだけど、俺はここに就職してから博士論文を提出したのさ。そういうのを論博っていう」
「なぜ釧路に戻ったんですか」
「内地で就職しなかったのはなぜかって質問かい」
東海林さんは机の前の椅子を一つ引いて腰かけ、ぼくにも座るよう勧めた。
「俺もいろいろ考えた時期はあったよ。でも、結局は自分がどんな生き方をしたいかってことだよね。海広もさっき言ったべさ、あっちにはできる奴がいっぱいいるって。俺の周りもそうだったよ。けど、ここの求人を見た時、この仕事に俺よりも合う奴は知り合いにはいないなって直感したの。根室にいる両親のこととか、頭にあったせいもあるけど。そういうのもひっくるめて生き方でしょ。だから、内地の都会で学位取ったら、そこで就職するのが当たり前なんてことは、ないのさ」
東海林さんの言葉を、実感として理解するにはまだ遠い気がした。別れ際に、ぼくは言った。
「また、帰省した時には話しに来ていいですか」
「もちろん。こういう講座はしょっちゅうやってるから、手伝いに来てよ」
東海林さんは答えた。
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