4-(2)竹沢、怒る
九月初めの試験期間が終わってから次の学期が始まるまでの三週間は、毎年、天文部のプラネタリウム製作が本格化する時期だという。この秋休みの間、担当の投影機に加えて、時間のある者はドームの製作にも協力することになっていた。
岡田真毅と一緒に、過去の資料をもとに銀河投影機の設計に入った九月の二週目、部室を訪れると、机に大きなチョコレートの箱が置いてあった。
「沙枝ちゃんのオーストリア土産ですって」
徳野紀美子という先輩が言った。二年生で、横に座っている宮地さんと仲がいい。
「土産だけ置いて帰ったんですか」
「なおみちゃんと、東急ハンズへ青空投影機の材料を買いに行くって言ってたわ」
「ええ、ハンズへ行ったの?」
会計の家永さんが不服そうな声を上げた。机には整理途上の領収書が小さな山を作っている。
「ハンズは高いから、緊急でなければ秋葉原で買ってくれっていつも言ってるのに」
家永さんが広い額の下で眉根を寄せるのを、徳野さんはにやにやしながら盗み見、チョコレートに手を伸ばした。徳野さんには一家を切り盛りする主婦か、社会に出て長く働いた人のような不敵さがある。浮世離れした印象の宮地さんとは対照的だった。
「おうちの人から、秋葉原なんて行ってはいけないと言われてるんですって」
「何で」
「娘を歩き回らせるにはよろしくない場所、というお父さんか、お母さんの判断でしょう」
「そういう家ってことか……」
家永さんは宙を見つめた。
ぼくは岡田と秋葉原の店へ買い出しに行った時のことを思った。すれ違う幅もない通路や粗末な什器にぎっしりと展示された金属パーツやねじくぎ類、電子部品などの並ぶ店内は迷宮のようだったが、居心地は悪くなかった。ただ、時岡さんのような女性のいる空間ではないことは理解できた。
「徳野さんたちは、やっぱりハンズへ行くんですか」
ぼくは訊いた。
「ううん、わたしたちは、番組の担当だから。大学の購買で済むようなものしか買ってないの。かかるお金はカセットテープ代くらいね。機材は毎年同じものだし」
徳野さんの言葉に、宮地さんが続けた。
「お金はかからないけど、いろんな人に労力は提供してもらっているの。台詞の録音の時に出演してもらうとか、録音場所の確保とかね。家永くんには、投影機との連絡係をしてもらっているし」
「それはまあ、毎年、会計の仕事だから」
家永さんが言った。
「投影機の種類が多いから大変だけどね。脚本の方も、あんまり途中で変更を加えないでくれると、助かるんだけど……」
「そういえば、家永くん、使用投影機一覧の最新版、作ってる? 夏合宿の後、見てないけど」
徳野さんの指摘に、家永さんは、はい、やります、と首をすくめた。
十一月に入ると、プラネタリウム製作は大詰めを迎えた。部室だけでは作業スペースが足りず、学生会館内に作業用の部屋を別に確保している。ベランダではドームの製作が続いている。ここは大学の中型教室ほどの広さがあるので、格好の作業場所なのだ。
他のサークルも皆、大学祭に向けて本格的に動き出し、学生会館の中は一種異様な活気に満ちていた。畳二枚ほどもある看板を床で描いている学生や、ギターの音合わせをしている学生、破れたソファに座って声高に議論をしているグループなどの間を抜けて、ぼくは階段を上っていった。
周囲の高揚感に反し、気分は晴れない。
この
天文部のぼく以外の人たちは、こんなふうにあやふやな気持ちで取り組んではいないだろうと思うと、誰にも気持ちを話せなかった。
作業室に入って岡田に声をかける。岡田は鞄から畳んだ大きな紙を取り出して広げた。
「銀河の座標変換ができたよ。あと、頼んでいいんだよね」
岡田がコンピューターを使って作成した図面に目を走らせる。
「すごいな。きれいだよ」
銀河投影機は透明な塩化ビニールパイプに、天の川の輪郭を切り取った黒ラシャ紙を貼りつけて、内側から豆電球で照らす構造だ。円筒形の投影機からドーム内壁の正しい位置に天の川を映し出すためには、投影機上の天の川の位置を調整しなければならない。星図から天の川の縁にあたる星々の座標を読み取って変換する作業は、ぼくよりもコンピューター操作に長けた岡田が引き受けてくれた。その図面に従って紙を切る作業は、ぼくの分担だった。
同じ部屋に、流星投影機担当の佐久間も来た。時間まで、それぞれ工作に励む。岡田は相変わらず寡黙で、必要なこと以外はあまり言わない。それがかえって心地良い面もあった。自分が熱意に欠けることを、ぼくは彼に知られたくなかった。
その日の作業を終え、部室へ引き上げる前に佐久間に進行状況を訊くと、明日にも投影実験をするという。
「もうそんなところまで行ってるの」
「でもたぶん、作り直すところは出てくるよ。群流星の投影機はほとんどできてるけど、散在流星の方はまだだし。銀投はどう」
「何とかなりそうだよ。岡田がすごく優秀だから」
岡田に軽く二の腕を小突かれた。見ると、普段は不愛想な顔をうつむけて照れていた。
前後して、窓ガラスに雨粒の当たる音が聞こえ始めた。佐久間が言った。
「この低気圧が通り過ぎたら、週末は晴れるみたいだね。……しばらく、星、見ていないな」
佐久間の考えていることがわかった。
「この前に見たのは夏合宿だったものな。佐久間もあれから出かけてないの」
「うん。観測所にも行ってない」
天文部は山梨県内にプレハブ小屋の観測所を持っている。数人が寝られる空間以外に何もない分、気軽に出かけられる拠点だった。
「獅子群の極大は何日だっけ」
ぼくは佐久間に訊いた。
「十七日。まあ、大して流れないとは思うけど……」
三階に続く階段の踊り場まで上ってきた時、部室の方から強く憤った声が降ってきた。
「何で観測会をやったらあかんのですか」
竹沢清志だ。部室の前で彼と向かい合い、西尾さんが困惑した表情を浮かべていた。
「あかんとは言うてへん」
西尾さんはなだめるように言った。
「仕事のめども立っとるから行くんやろ。けど、行きたくても行けへん奴もおるんやで。大っぴらに言わんと、行って大丈夫な人間だけでそっと行けって言うてるんや」
「それは行くなちゅうことやないですか」
竹沢は怒った調子を崩さない。
「この部の活動目的は何ですか。プラネを作るための部と違うでしょう。何で部全体がプラネ中心に動かなならんのです。たった三日間の大学祭のために、こんなに時間を使うて。本来の活動を妨げない程度にやるのが、筋っちゅうもんやないですか」
「それは違う」
西尾さんが少し声を大きくして言った。
「竹沢、それは違うぞ。プラネは、そんな片手間に作れるようなもんと違う」
軽く肩を叩かれた。振り返ると岡田が、行こう、とささやいた。佐久間も階段の下に立ちすくんでいた。ぼくらは階段を上りきり、西尾さんと竹沢のそばを通り過ぎて部室に入った。
「とにかく、ぼく今日は帰ります」
竹沢の声が聞こえた。
「観測会のことも帰って考えます」
「お前、プラネの仕事やめたいんか」
西尾さんの言葉には、疲れたような、力ない響きがあった。
「いや、ぼくは責任はまっとうしますよ」
竹沢はそう言い残して、行ってしまったようだ。西尾さんは憔悴した様子で部室に入ってきた。ぼくらが話を聞いたことに気づいた顔をして、
「すまんなあ、佐久間」
と肩を落とした。
「流星群の観測、行きたいやろ。俺も行きたい。けど、それ以上に、このプラネを成功させたいんや」
「わかってますよ」
佐久間は穏やかに言った。
「楽しみは大学祭後に取っておきますよ。双子座流星群もありますからね」
だが、佐久間は寂しそうだった。彼はもう、大学祭が終わるまでは決して星を見に行きたいと口にしないだろう。
かといって、西尾さんを責める気持ちにもなれなかった。西尾さんの、普段は明るい表情が日に日に厳しさを増していくのが、役員としての負担の大きさを物語っていた。
プラネタリウム製作に対するわだかまりが他の皆の間にも広がっていることを、ぼくは初めて認識した。この企画の大きさが、文化祭の出し物といえども、楽しさだけでは済まない焦りや一種の同調圧力を部の中に生み出していた。
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