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3-(1)欠けているもの
六月になっても、大学の生活が充実してきた実感は湧いてこなかった。
ランニング同好会の仲間と走るのは悪くない。同好会の活動は、東京周辺で行われる市民向け大会のどれかに出ることを目標に、モチベーションや走る力を保つことが主眼だ。同期は皆、中学や高校での経験者で、当時の話題を交換するのはそれなりに楽しい。
しかし、大学生活にランニング同好会の活動を加えたところで、何かが欠けているという感じは抜けなかった。同好会の雰囲気は高校時代の陸上部とは違う。高三の夏までというリミットのある中で、大会での入賞や自己記録の更新を目指す緊張感がぼくは好きだった。受験勉強も同じで、目標に向けて努力すれば成果が上がった。その二つが、高校でのぼくの生き方を決めてきたのだった。
ランニングで市民向け大会を目指すことも、また授業の単位を取って、専門課程への進級に必要な成績を確保することも、それぞれ意義のある目標のはずだが、高校の時ほどの切実さはない。
ましてや、天文部では、とその日も考えていた。天文現象は人間の努力で手繰り寄せられるものではないし、プラネタリウムもしょせんは文化祭の出し物だ。どちらも、高校の頃のような熱意の対象になるとは思えなかった。
空きコマの時間つぶしに部室を訪れると、先客の中に時岡さんがいた。彼女と話していた二年生の女性がぼくに気づき、にっこりして片手を挙げた。時岡さんの横の席が空いている。そこへ行って訊いた。
「ここ、座っていい?」
いいよ、と彼女は言い、先輩との会話に戻った。
「……それで、おかしいと思うんです。男子も女子も、同じ活動をしていいはずでしょう。それ以上に、誰も疑問を持ってないみたいなのが、もっとおかしいですよ」
「疑問を持ってないかどうかは、わからないじゃない。探してみれば、同じように思っている人がいるかもしれないわよ」
相手の二年生は、
「仲間を見つけて、意見を言ってみたらどうなの」
時岡さんは机の上に組んだ両手に視線を落とした。
「でも……。わたしに味方してくれる人が、いないような気がしてるんです」
「え、どうして」
思わず言ったぼくの方を、宮地さんと時岡さんが一度に見た。
「天文部の話じゃないのよ」
宮地さんが穏やかに言った。顔が赤らむのを感じた。
「すみません。つい、聞いてしまって」
「……でもねえ、天文部だって、本質的には同じようなものよ」
宮地さんは誰に聞かせるというのでもなく言った。
「役員は男子ばかりだし、大学祭の役割分担だって、女子は展示か、番組制作ばかりだものね」
「何だい、宮地さん。番組担当じゃない方が良かったの」
内藤部長が宮地さんの向かいから言った。
「それならそうと、言ってくれたらいいのに」
「わたしはもともと番組担当が希望よ。そういう意味じゃないの。女子は他の担当に手を挙げにくい雰囲気があるってこと」
「思い込みじゃないかな。役員だって、やりたい女子がいればなれると思うよ」
宮地さんは微笑した。理解を求めても仕方がないという表情だった。
「そんなに単純な話じゃないのよ。でも、ありがとう」
時岡さんはぼくをちらりと見てから、机の上の天文雑誌に手を伸ばした。ぼくが彼女と宮地さんの話の腰を折ってしまったのは明らかだった。
二人の話が何をめぐるものだったのか、わかったのはそれから数日経った放課後のことだった。学生会館へ続く道で、時岡さんが知らない男子学生といるのを見かけた。相手は一生懸命に話しかけているのだが、彼女は目を逸らし、その場を去りたそうにしている。近づいていくと、男子学生の声が耳に入った。
「あのさあ、協力したら自分にもメリットあるってわからない? いいものを作ればスポンサーがつくし、テレビ局にだって拾われるかもしれないんだよ」
口を開きかけた彼女とぼくの目が合った。
「須崎くん」
呼びかけられ、そばに行ったぼくを見上げて、彼女は言った。
「今日、これから部会だったよね」
毎月の部会の日ではないが、意図を汲んで腕時計を見るふりをした。
「うん。あと十五分くらいで始まるから、もう部室に行った方がいいんじゃないかな」
そう言って相手の男子学生を見ると、眼鏡のフレームが青地に黄色の水玉模様なのに気がついた。その奥の小さな目が
「話の途中なんだけど、割り込んできて何なの、君は」
「すみません」
ぼくは頭を下げた。時岡さんがにこやかに、しかし断固とした口調で言った。
「天文部の友達なんです。わたしたち、もう行かなくちゃいけないので、失礼します」
彼女に
「わたしたちって、何だよ」
背後で抗議めいた声が聞こえたが、振り向かなかった。
学生会館の扉で外界の音が遮断されると、彼女は手を放した。
「ごめんね」
ぼくは首を振った。
階段の方へ歩きかけたが、彼女は動かない。自分だけ行くのも気が引け、少し座ろうかと提案した。ロビーの古いソファセットへ移動する。
「さっきの人、ずいぶん派手な眼鏡をかけてたね。誰?」
「
時岡さんは緊張が解けたふうに息をついた。
「映文研って?」
「映像文化研究会。天文部と掛け持ちしてるの」
「何をするサークルなの」
「映像関係いろいろ。映画を撮りたい人もいるし、テレビCMの研究をしている人もいる。現代美術系の映像作品を作っている人もいるし、映像と関係があれば何でもいいのよ」
「へえ……。なんか、都会っぽいね。あの先輩、テレビ局とか言ってたけど、何の話だったの」
「うん……」
その二年生は、短編映画コンテストに出す作品を準備中だった。そこに出演して欲しいと言ってきたのを、彼女は断った。演じたくないような内容だからかと思ったが、脚本が問題ではないという。
「女子は出演要員にされたら、男子と立場が違っちゃうのよ。わたしは作品を作る方になりたいから、断ってるの」
「両方はできないの」
「男子は、どっちもしてるんだけど……。女子は出演が多くなると、この人は作る方じゃないと見なされて、そういう扱いしかされなくなるって、女の先輩たちから聞いた」
「こないだ宮地さんと話していたのも、そのこと?」
「そう」
「味方がいないって言ってたのは、どうして」
時岡さんはためらう表情を見せた。
「あのね、自慢だと思わないで欲しいんだけど。わたしに、自分の作品に出て欲しいって言う男の先輩が何人も出てきて、女子の間で気まずくなってるの。宮地さんは仲間を見つければって言うけど、他の女子に声をかけても取り合ってもらえそうにないし、言ったらもっと立場が悪くなりそうで」
「ふうん。……でも、時岡さんに出て欲しがる人の気持ちはわかるな。出ないなんて、もったいないよ」
時岡さんが呆れ気味にこちらを見た。
「須崎くんって、思ったことをそのまま言う人?」
「おかしい?」
「普通、もっと話の流れを読むものじゃない?」
年下の人間に言い聞かせるような口ぶりで言い、目を細めて付け足す。
「嬉しくないってこともないけどね」
ささやき声にどぎまぎして、思わず口走った。
「高仲が心配してた。時岡さんのこと」
彼女の笑みが消える。
「何て言ってたの」
「自分はお目付け役だって」
時岡さんは視線を逸らして、しきりに髪をかき上げた。
「あいつ、昔からお節介なのよ。……もう大学生なんだから、放っといてって言ったの」
行きましょう、と話を打ち切り、彼女は立ち上がった。後を追って階段へ向かう。
「あのね、須崎くん」
時岡さんは振り返った。
「渉は彼氏でも何でもないから。誤解しないでね」
そう言って、彼女はたったっと足音が聞こえるくらい速く、階段を上っていった。
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