2-(2)五島プラネタリウムの星空

 彼女の引率で建物に入りかけると、

「おおい、待った」

 と叫ぶ声が耳に届いた。少しばかり横幅の大きい男が、歩道を小走りでやって来る。

「すまんな。遅れてしもたか」

 彼は息を切らせながら皆に加わった。刈り上げたこめかみに、びっしりと玉の汗が浮いている。

「大丈夫。今から入るところだから」

 工藤さんが答えた。

 文化会館の中を移動しつつ、最後に来た男はぼくをじろじろ見た。

「君、いっぺん部室でうたな。なんちゅう名前やった」

「須崎海広……。話すの、今が初めてだよ」

「おお、そうやったか。俺は竹沢きよ。以後よろしゅう」

 早口に言い、竹沢と名乗った男はズボンのポケットから懐中時計を取り出した。

「ちょっと、腕時計、見せてんか」

「珍しいもの、使ってるね」

 ぼくの言葉に、竹沢はまんざらでもない顔をした。

「これ、じいさんのコレクションからの放出品や。気に入ってんねんけど、ちょっと精度がな……」

 言いながら、竹沢はぼくの腕時計と自分の時計の時刻を見比べ、手早く懐中時計のリューズを回した。

 八階のプラネタリウムへ入場を待つ人の列は四階まで延びていた。行列の動きに従い階段を上る間に、竹沢に訊いた。

「今日来たのは、大学祭の参考のため?」

「いや、そんなんとちゃう。大阪に電気科学館ちゅう施設があって、そこのプラネタリウムは、今残っとるものでは日本一古いんや。ただ、来年の閉館が決まっとる。ここの五島はその次に古いから、いっぺん観とこうかというだけや」

 工藤さんが話に入ってきた。

「閉館したら、プラネタリウムはどうなるの。あそこもツァイスの投影機だったよね」

「新しい科学館ができる予定やけど、今の投影機は引退するんやて。国内メーカーのに変えるんやろな」

 八階に着き、昔風の小さなチケット売り場で入館料を払って、「五月のプラネタリウム」とこれも古めかしい字体で刷った二つ折りのパンフレットを受け取った。展示物の並ぶフロアを通り過ぎ、ドームの入口をくぐる。


 光が変わった。


 柔らかな薄明りが空間に満ちていた。淡い影を抱いた無色の空が天頂から広がる。本物の空ではない証拠に、放射状に素材を張り合わせた継ぎ目が、薄い線として見えている。しかし、入った瞬間の感覚はまぎれもなく、広く高い空の下に出た時のそれだった。椅子に体重を預けると、背もたれが後ろに傾いた。埃っぽい匂いが漂う。

 目の前に投影機があった。両端の金属球には一面にレンズが埋め込まれ、何かの生き物の複眼にも見える。そびえ立つ投影機は、未来世界から来た鋼鉄の昆虫さながらだ。その一方で、黒光りする金属の質感と球体の重量感は、どこか蒸気機関車と共通する時代色を帯びていた。過去と未来が、一つに溶け合った姿だった。

 解説台に女性の解説員が入り、投影開始を告げた。東西南北の確認と投影機の説明の後、照明が絞られた。西側の空がオレンジ色に染まる。太陽を表すまるい光がゆっくりと下降し、街のシルエットにかかって日没となった。

「本日の日没は、午後六時五十分です……」

 夕焼けが宵闇の色に溶解していき、ドーム内が徐々に暗くなる。ぽつぽつと星の光が点灯し始めた。東京でも観察できる明るい星々の説明の後、解説員の声が言った。

「それでは、もっとたくさんの星を見るために、東京を離れ、空の暗い場所へと移動しましょう」

 短いを置いて、周囲の座席と観客の頭の影が消えた。頭上の闇が濃くなる。その中から、ふわりと星々が現れ出た。

 歓声と嘆息が観客席から湧いた。同時に、身体が浮かぶ感覚に包まれた。腰かけた椅子が夜空と一体となり、星以外は周りに何もなくなった。自分が地上から空へと持ち上がり、ただ星空とのみ対峙たいじしている。さまざまな明るさの星々が、奥行きのある空に輝いている。銀河は、逆巻く波と深い淀みを擁した光の大河そのものだ。

 投影機のシルエットが視界の一部をさえぎっている。しかし、それが頭上の星空を一層神秘的なものに感じさせている。動作音とともに投影機が回り、レンズの奥に電球色の光芒がひらめくと、星は一斉に天球上を滑っていく。

 解説者が五月に見える星座の解説に入っていた。けれども、その声はどこか遠いところを通り過ぎていくかのようだった。ぼくはただ、光の微粒子が降り注ぐのを全身で受け止めていた。



 センター街の喫茶店に場所を移した後も、プラネタリウムの星空は頭を離れなかった。

 あれは確かに空だった。閉じられたドームの中なのに、頭上は無限に広がる空間へ開放されたようにしか感じられなかった。星々の日周運動とともに時刻が進み、薄明の水色が東側のドーム壁を染める頃、早朝の涼やかな空気の中に薄れゆく星影の表現と、おはようございます、という解説者の声。星空の下にくつろいで目を閉じていた人々が一夜を過ごし、朝になって目覚めるのを促すように。

 あれほどの空を、大学祭でも作れるのだろうか。

 横で、原島さんが興奮気味にしゃべっている。

「投影も良かったけど、展示も感動した。じりほうえいの本と天文図があって、抱影先生が本当にここにいたんだなって」

「誰、それ」

 ぼくは訊いた。原島さんはため息交じりに答えた。

「やっぱり知らないかー。同世代で知ってる人、少ないんだよね。わたし、高校の図書館で野尻抱影の全集を読んで、それから星に興味を持ったの」

 時岡さんが言った。

「星の本をたくさん書いた人で、神話と星座とか、文学の中の星とかのテーマが多いのよ。五島では開館からずっと役員を務めて、講義もしてたんだって。中学の頃に、天文同好会の人から教えてもらった」

「……ああ、一年生の時ね。思い出した」

 言葉を挟んだ高仲を、彼女が嫌そうに見る。

「渉。余計なこと言わないで」

「なあに? 聞いたら駄目なの」

 原島さんが言うと、彼女はねた顔で答えない。高仲は話を続けた。

「沙枝とは、同じ天文同好会にいたんだよ。そこの大人の引率で、五島に連れてきてもらったんだ」

「何や、そんな付き合いがあったんか。隠すことないやないか」

 竹沢が言った。

「隠してなんかいないわ。渉が偉そうなのが気にさわるの」

「まあまあ」

 工藤さんがなだめに入った。

「それより、今日の企画はどう思ったの。気に入ってもらえたなら、また何か考えるけど。五島、良かったでしょ」

「そうやな。観る価値はあったけどな」

 竹沢はコーラの氷をストローでつつきながら論評した。

「しょせん作り物や。本物の空にはかなわへん。うちの天文部はえらくプラネタリウムに熱心みたいやけど、やっぱり天文活動の基本は、天然の星空を見ることや」

 原島さんが反論する。

「でも、今日みたいな天気だったら星、見えないでしょう。プラネタリウムなら、いつでも見られるじゃない」

「代用品見て、どないするっちゅうねんと思うわ、俺は」

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