2ー(1)獅子座の流星群


 中学二年生の春だったか、航海中で不在の父の部屋に入ってみたことがある。窓からの光が埃っぽい室内を照らす先、机の上に、小口が黄色く変色した薄い文庫本があった。手に取ってタイトルを読んだ。

 ――『獅子座の流星群』? ――

 著者はロマン・ロランとある。戯曲作品だった。

 題名に引かれて開いてみたが、フランス革命が題材だとかで、難しい。読み通すことはじきに放棄してしまった。題名の意味を知ろうとページを繰っていくと、終幕近くで若い男女が、ヨーロッパからアメリカへ旅立つ決意を述べる場面にたどり着いた。そこで登場人物たちの上に、「束になってひろがる流星の雨」が降るのだ。ヒロインの「火の雨が降る!」という叫びに、その恋人の父親で、革命に追われスイスに亡命した公爵の台詞が続く。


公爵: 獅子座の流星群だ! ……十一月という天の花火師が、天にいっぱいきん穀粒つぶをつかんで夜の中へ投げる……そうだ、あれは一星座の破片だ。破壊された一世界――獅子座の勇ましい塵だ。


 普段の父は、仕事以外で難しいことは何も考えていないように見えた。その父が、こんな本を読んでいたのかと思うと不思議だった。自分の知らない父が――歴史への関心か、あるいは降る星への憧れによってか――この机の前に座ることがあるなんて。

 父への見方が変わるとともに、本そのものも記憶に刻まれた。獅子座の流星群、十一月、星座、という言葉が、遠い浜辺の美しい貝殻のように、胸の底で長く、ひそやかな光を放っていたのだった。



 電話の声の主は、原島なおみ、と名乗った。

「天文部一年生の連絡網で、わたしが須崎くんの前なの」

 渋谷にあるプラネタリウムを、一年生の有志で見学に行く企画の連絡だった。企画の趣旨は大学祭の参考のためだが、単に観てみたいというだけでの参加でもいいという。日時と集合場所を伝えた後、彼女は言った。

「須崎くんって、釧路出身なんだって? わたし、旭川」

「え、そうなの?」

 思わず明るい声が出る。

「大学で北海道の人、誰も会ってないんだよ」

「わたしもそう。良かったあ、会うの楽しみにしてるね」

 プラネタリウムに行くとも行かないとも答えてないのに、はずんだ声を残して電話は切れた。

 四月下旬に天文部に入って、一か月近く経っている。大型連休を挟んだこともあり、まだ数えるほどしか部室を訪れていなかった。顔と名前の一致する部員も多くはない。

 雨の日に傘を渡した、時岡沙枝という女子学生の姿は四月の部会以来見ていない。

 ――行けば、彼女に会えるかもしれない。――

 カレンダーに予定を書き込んだ。



 目指す天文博物館五島プラネタリウムは、東急文化会館という建物の最上階だった。見学会当日の渋谷駅前には、曇り空の下、湿気とアスファルト、車の排気ガスの匂いがよどんでいた。待ち合わせ場所の正面玄関に近づくと、二人の女の子が目に入った。どちらも知らない顔だが、今日の参加者だろう。

「あ、天文部の人?」

 背の小さい、短い髪がくるくると巻いている女の子が呼びかけてきた。夏用のハンチング帽、膝までの半ズボンにサスペンダーといういでたちで、女性らしい体形がなければ少年そのものだ。うなずいて、こんにちはと挨拶する。もう一人の方が、

「須崎くん?」

 と確かめた。

「電話かけたの、わたし。よろしく……」

 原島なおみはいかにも嬉しいというように白い歯を見せた。ジーンズにワークシャツを羽織った細い身体の子で、肩を過ぎるほどの髪を無造作に垂らしている。鼻から頬にかけてそばかすが散っていた。

「今日の企画は、聡美ちゃんが立ててくれたの」

「工藤聡美です。初めましてー」

 ハンチング帽の女子学生は言った。二人と話すうち、工藤さんは女子大の数学科の所属だと知った。天文部には自前の天文サークルを持たない他大学の学生も所属していて、工藤さんはその一人なのだった。ぼくを見上げて訊く。

「須崎くんは、高校も天文部?」

「いや、陸上部。うちは天文部なんてなかったよ」

「うちの高校もなかったけど、科学部でプラネタリウムを作ってたの。教室の中で投影する小さいやつね。でも、大学のはドームがあって、六十人も入れるっていうでしょ。聞いた時は興奮して、これは入部するしかないって思ったの」

 原島さんが口を挟んだ。

「須崎くんは、プラネタリウムはどこかで観たことあるの?」

「釧路でだけ。原島さんは?」

「旭川の科学館で小学生の時に見たけど、よく憶えてないの。札幌のは旭川のより大きくて、良かったと思う」

 工藤さんが横から言った。

「なおみちゃん、旭川に帰ったら、ぜひもう一回そっちのプラネを見て。旭川には五島と同じ、ツァイスの投影機が入っているから」

「ツァイスって何?」

「ドイツの光学機器メーカーで、プラネタリウムを発明したところ。戦争が終わった時に会社も東西ドイツで分かれたから、五島と旭川は機種が違うけど。旭川が東独の方ね」

 工藤さんの蘊蓄うんちくを聞くうち、新たに近づく人の姿が視野の端に入った。目を向けてどきりとする。

 時岡沙枝だった。紺色のワンピースの裾が、急ぎ足の彼女の動きに従ってふくらむ。その横に微妙な間隔を空けて、背の高い長髪の男――高仲渉の姿があった。二人が揃うと否応なしに視線を引きつけられる。一瞬、きょうだいと見紛みまごうような似通った雰囲気が彼らにはあった。

 時岡さんは淡く紅を差した唇を尖らせている。恋人同士なら、喧嘩した直後の表情だ。

「あ、沙枝」

 原島さんが声を上げ、手を取らんばかりに彼女を迎えた。原島さんはぼくに、

「沙枝は、同じクラスなの」

 と言った。時岡さんは顔をこちらに向けて微笑んだが、目元に機嫌の悪さが残っている。

 女性三人がおしゃべりを始めた横で、高仲と取り残された。

 ――参ったな。男はこいつと俺だけか。佐久間を誘えば良かった。――

 相手の様子をうかがうと、視線が合った。高仲はぼくの言葉を待つように目を細め、首を傾けた。頬の半ばまで届く髪がさらりと動いた時、例の銀色の光が見えた。思い切って確かめる。

「それ、ピアスだよね」

 高仲は、ああ、と言って笑い、そのダイヤ型のモチーフに触れた。

「大学に入って、うるさく言われなくなったからね。イギリスのミュージシャンがしてて、いいと思ったから」

 全く大したことではないという口ぶりだった。都会はこうなのかと思いつつ訊いてみる。

「時岡さんと、どこから一緒に来たの」

「吉祥寺。近所だから偶然、駅で会ったんだけど、彼女は気に入らないみたいね」

 時岡さんはちらっと高仲を振り返り、片眉を持ち上げて怖い顔をした。

「おしゃべりが過ぎるってさ」

 高仲は目くばせした後、

「プラネタリウム、好きなの」

 と訊いてきた。

「ほとんど観たことないから、どんなものかと思って。高仲はここ、来たことあるの」

「子どもの頃から何度も来てるよ。今日は久しぶりだけどね」

 自分との差を感じ、口をつぐんだ。へこんでいるところに、工藤さんが呼びかけてきた。

「時間だから、そろそろ並びましょうか」

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