第28話 夜食
夜更け。時計を見ると、すでに零時を回っている。まもなく中間試験が迫っているために、授業が終わると寄り道もせずに真っ直ぐ家に帰ると、夕食をとる以外の時間はずっと勉強していた。
「ふう」
私は大きめの息を吐く。しかし区切りが付いたわけではなく、もう少しやらなくてはならない。そう思っているのだが、集中力が切れかけているのもまた事実であった。夕ご飯の前までは由美も家に来ていて一緒に勉強していたが、一緒にご飯を食べると「邪魔したらいけないから」と言って帰っていた。
特に何かが迫っていなければ、私が別のことをしていてもちょっかいをかけてきたりするが、本当に集中したいとこちらが思っているときは声をかけてくることはない。例えば試験範囲を確認するだけのことであっても、私が丁度区切りが良いところまで待ってから訊いてきたぐらいである。
受験だった頃は私に勉強について訊いてくることは多かったが、その時も私の勉強の邪魔にならないようと気を遣ってくれてはいた。しかし当時は、若気の至りとでもいうべきなのか、由美は勉強をサボっていた時期があったために、かなりの詰め込みが強いられており、あまり余裕はなかったと思われる。そんなところを反省してか、高校に入ってからは課題もそれなりにやっているし、試験前の今も真面目に勉強している様子である。そもそもの話ではあるが、私たちの通う高校は自主性を重んじた自由な校風であると謳われがちだが、時折片手間では終わらないほどの量の宿題を出してくることは聞いていたし、入学してから改めて知ることとなった。
それでも先ほどまで由美とビデオ通話で互いの顔を見ながら和気藹々と、暗記系科目の問題を出し合うなどしていたが、やがて由美はうつらうつらと舟を漕ぎだし、私が静かに教科書を読んでいたらいよいよ本格的に寝始めたので、声を掛けてベッドで寝るように促して通話を終えた。
「もう少し、頑張らないと」
自分を奮い立たせるようにそう言って再び参考書と向き合うのだが、一分と経たないうちに顔をあげる。
「うーん」
私は思わずうなり声をあげてしまう。
「これは難しいわね。ええ、難しいわ」
そしてそんな独り言を口にすれば、もう椅子から立ち上がっていた。どうすべきか、ほんのわずかに悩んではいた。決して嘘ではない。毎回悩みはするのだ。しかし、ここ数日同じように夜遅くまで試験勉強をしていて、その度に同じことが起きているのであるから、無駄に時間を費やさないためにも迅速な決断をしているだけである。もはやそれがルーティーンとなっている。いっとき、モーニングルーティーンを挙げる風習が流行ったりもしたが、これもナイトルーティーンの一環といえるかもしれない。ともかく、私は自室を出て階段を降りていく。
すでに家族が寝静まっている家の中で、私の足音だけが鳴り響く。その足取りに今さら逡巡はない。後ろめたさや罪悪感を感じる必要もない。私は何も恐れることなく堂々と居間に向かい、さらにその先にある目的地へあっという間に辿り着いた。
「さて、今日は何にしましょうか」
深夜零時すぎ、夕食を食べてから早数時間。普段なら眠りにつく時間帯である。しかし今日はまだあと一、二時間ほどは起きているつもりであり、そのような人たちに訪れる厄介なものというのは、なにも瞼を重くしてくる睡魔だけではない。
ぐうう。
お腹が鳴ったが、今の私はそれを恥ずかしがりはせず、むしろ勉強した分だけカロリーを消費しているのだということにちょっとした誇りさえ感じていた。そもそも、大半の人間がそうであるように食後というのは、血糖値の上昇や胃壁の拡張などからどうしたって満腹中枢が働き、集中力が切れてしまい、それはもちろん私も例外ではないので、ゆえに食後すぐに勉強を再開できるようにと夕ご飯は軽めに済ませていたのである。つまりこの夜食は決して堕落やだらしなさからくるものではない。断じて、違うのだ。
「それに私はこう見えて、日頃からそれなりに健康的な食生活を心がけているのよ」
やはり誰に言うでもないのだが声に出してそう言いながら、キッチンの棚や冷蔵庫を漁っていく。
それなりに健康的と口にしたが、おそらくそうであるのは姉と母の影響が大きい。
姉の愛はバイト代わりにファッションモデルをやっている。本人はなんちゃってモデルと自称していて、実際そこまで厳しい節制を己に課しているわけではないことはその常軌を逸した飲酒量が示しているが、一方でジムに通うなど体型の維持のための努力を全くしていないわけではなく、それは愛が普段買ってくる食べ物にも表れている。
冷蔵庫の中身を覗くと、そこには豆腐やサラダチキン、ゆで卵などといったタンパク質の食品がまとめ買いされており、白いボウルには葉物野菜や人参などを使った酢漬けのサラダ、野菜室に入れてある果物をスムージーにする他には朝食用のプレーンのヨーグルトが大きめの容器に入っているし、デザート系統としては寒天ゼリーやプロテインバーなど、カロリーのそれほど高くない健康的な食品で満たされている。これらはもちろん愛一人で食べるのではなく、いつも忙しくしている母親も毎朝そこから適当に取って鞄に放り込み会社に向かう。父親も同様に夜が遅かったり泊まりがけも少なくないのでそれに倣っており、たまにジャンキーなものを食べることもあるが、それでも数ヶ月前に買ったいくつかのカップ麺がまだ台所の棚の奥に収納されているぐらいである。
また、今でこそ朝食などは全く用意しなくなった母ではあるが、私たちが小学生の頃などはちゃんと朝晩作ってくれていたし、やはり栄養のことはそれなりに考えてくれていたので、私たち姉妹も特に何も言われずとも意識するようになったのだろう。
そんな母は今日は珍しく私が学校から帰ってくるのとほとんど同じぐらいに帰ってきていたが、仕事がひと段落したようで、逆に言えばそれまで張り詰めていたために、シャワーだけ浴びるとそのまま倒れるように寝てしまった。これまでの傾向からいって、おそらく明日の朝、もしくは昼近くまで起きない。そして姉も明日は仕事で朝が早いからと眠りにつき、父は泊まりで家におらず、すなわち誰の目も気にする必要はない。
あまり食べることに時間を費やすつもりはなく、むしろ勉強しながらつまむということも考慮して選んでいく。まずは豆腐。冷奴として鰹節と醤油を垂らして食べるシンプルなもの。普段であれば何か別のトッピングを考えたかもしれないが、今は包丁などを持つつもりもないのでこれで済ます。ただ、先に電子レンジで少しだけ温めるのは忘れない。夜なので、あまり身体を冷やさないようにしたい。
次に手にしたのは、春雨とワカメスープの素。これは両方ともお湯で戻せるし、ワカメスープはいわゆるインスタント食品ではあるが、塩分が控えめのものなので安心して食べられる。愛などは朝ごはんをこれとヨーグルトだけで済ませることが多々ある。
そして最後に寒天ゼリー。デサート代わりであり、やはり勉強しているとどうしても糖分が欲しくなり甘味は欠かせない。とは言え、これも冷蔵庫に入れていない常温保存なので身体を冷やすことはない。野菜室にはバナナとりんごもあったが、それは明日の朝にでもいただこう。
これでも人によっては、品目が多いと思われるかもしれない。しかし先ほども述べた通り、今日は夕飯を軽く済ませているのでカロリー摂取量としては問題ないし、どれも数口程度で食べられる分しかない。これは言い訳などではなく公正な審判と言えるだろう。一応冷凍庫も覗いた際に見つけた冷凍のチャーハンなどを手に取らないのも当然のことわりである。
それらをお盆に載せて、自分の部屋まで持っていく。スープは冷めないうちに飲んでおくべきだろうと思い、ゆっくりと一口目をいただく。今日は特に寒かったわけでもなく、むしろ日々夏に向けて順調に気温が上がってきているが、それでも疲れた身体に染み渡ると身体がぽかぽかしてホッとさせられる。そうして気を緩められて、まさにひと息ついた。
次の瞬間、すべての食べ物が消え失せていた。否、本当に消えてなくなったわけではないし、次の瞬間というには間隔はあいていた。しかしまさに気付けばという感覚であった。スープは冷めないうちに飲んでしまうとしても、他のものはちびちびつまみながら、暗記作業でもするつもりであった。いや、本当のことを言えば、それがあまり現実的ではないことは薄々感じていた。夜食というのは当たり前ながらお腹を満たすためのものである。だから小腹を満たすことができるまで食べるというのは何らおかしいことではないはずだが、問題は私の今の空腹具合が小腹を満たす程度では満たされないことにあった。豆腐に春雨スープ、それからゼリー。ゼリーなんてほとんど一口で食べ終えるものであり、これら三品で足りるはずがないと分かっていたのだ。
しかしそれでもまだ私は冷静さを保っていた。少なくとも自分ではそう思っていた。いつもより夕ご飯が少なかった。これに尽きる。
今日の夕食はサラダとパックご飯にレトルトのカレーだったのだが、白飯はパックの半分ちょっとぐらいにした。あとは明日以降に食べようと思ったが、由美が欲しがったので残りはあげた。ちなみに由美はその後にもデザートのアイスにも舌鼓を打っており、私は二口だけもらった。アイスを食べている時も由美は「それで足りるの? あとでお腹減っちゃわない?」と心配していたが、私は今のようなメニューをつまむかもしれないが大丈夫だと跳ねのけた。
だから、ここまでは完全に予定通り、完璧なプランであろう。思ったよりもずっと早く食べてしまったが、それでも想定通り。私のカロリー計算に狂いはない。手元にある数学の計算問題は間違っていたが。そもそも計画や予定と呼べるものはきっちりかっちり細かく決めてしまうのではなく、ある程度の想定外や余白も含めておくことが大切なはずだ。耐震性に優れている建物は、あえて隙間を作ることで揺れを吸収させるらしいがそれと同じである。たとえ空腹という自然の摂理がいつ襲ってこようが、予めそれを想定して考慮しておけば乗り越えられるということが証明された。だから、私はまだあと少しだけ、食べなかったアイスの分だけは余分に食べても大丈夫なのである。
私は圧倒的な勝利を手にして、アイスに手を伸ばす。
身体を冷やしてはいけない?
それも見越してすでに温かいスープを飲んでおいたことでプラマイゼロとなり、何の問題もない。完璧な理論。
まあ、実際、大袈裟な話にせずとも食後のデザートにアイスを食べるぐらい誰だってするだろうし、それが余程の量でもなければ咎められることもないはずだ。
そんなわけでアイスをじっくりと時間をかけて食す。先ほど、二口だけで我慢していたことに加え、丁度今それなりに食べたので一層美味しく感じられたし、今度は味わって食べることもできた。まろやかでもさっぱりしていて食べやすく、胃がもたれるようなこともないので、始めから終わりまで爽やかで清涼感に満ち満ちていた。
満足とはこの事であろう。家に帰ってからずっと集中して勉強できたし、夜食も想定の範囲内に収めた。お腹に納めた。今の私であれば、なんだって出来るのではないか。そんな万能感や全能感が溢れ出てくる。勉強だろうが、食欲だろうが、私はもう何も怖くない。打ち勝って見せよう。私は勝利を確信し、勉強に戻った。
それから二時間近く、集中して勉強することができた。
いつも以上に集中できたと思えたが、それは完璧なタイミングと量で栄養補給が出来たおかげと言っても過言ではないだろう。私は特に勉強が好きというわけではないし、大多数の学生と同様に試験は嫌だが、こうやって自分の管理のもとに勉強を捗らせることができると気持ちが良い。パズルのピースを上手く嵌め込めたときのような感覚とでも言えばいいのだろうか。
ともかく勉強を終えた今、すぐ眠らなくてはいけない。多少の寝不足は仕方ないにしても、翌日に差し障りがあってはいけない。明日のことまでしっかりと考慮してこそ、このパズルは完璧であるといえるはずだ。
部屋の電気を消して布団に入り込み、目を閉じる。
まもなく呼吸はゆっくりと深くなっていく。そうしていくうちに意識も徐々に薄れていって、そのまま……食べたい。
「えっ?」
自分でも唐突に湧き上がってきたその欲求に驚いてしまう。
しかも、これはただお腹が減ったからそれを満たしたいというだけのものではない。肉や油、炭水化物の入った、たとえば中華料理などといった、とにかくがっつりしたものが食べたいのだ。ダイエットなどでよくありがちな我慢の反動であろう。普段から意識的に節制しているだけに、疲れていたり気が緩められると抑えが効かなくなっていくのかもしれない。普段は滅多にしない夜食をとってしまったことで、頭のそういったところを司る部分やお腹が刺激されて動いてしまっているのだ。
それでも最初は無視して眠りに就こうと努めた。それはそうだ。すでに一日の活動はすべて終了しており、もはや寝転がるまでもなくただ意識を手放すだけなのだ。明日の朝になってしまえば、また全てがリセットされて、それなりに食べても大丈夫なはずだ。もちろん遅刻しない程度にということではあるが。
ところが寝ようと思えば思うほど、頭は冴え渡るばかり。決して眠くないわけではないのだが、猛烈に食への欲求が高まり続け、眠気よりも食い気が頭の中を占めている。
思わず上体を起こした私は、すんでのところで叫ぶのを止めた。
どうしたらこのまま寝られるのか。もうすでに十分なほど切羽詰まっていたが、それでもまだ少しばかり残っている理性で考える。その結果、身体を動かして、軽いストレッチをすることにした。疲労感を覚えさせ、また血の巡りを良くすることでどうにか上手い感じに行ってくれという思いである。そう、上手い感じ、美味い感じ、旨い感じに。いや、違う。
正しいストレッチのやり方や手順などはよく知らないが、姉の愛がたまにリビングでもやっているので、それをうろ覚えでやってみる。長く息を吐き出しながら、身体の随所を少しずつ伸ばしたり曲げたりしていく。すると呼吸が整って、落ち着きを取り戻していく。徐々に雑念も消え、だいぶスッキリしてきたし、同時に再び眠気が戻ってきた。予想以上の効果に、今度ちゃんと愛にやり方を聞いてみるのも良いかもしれない。
「ひいっ」
しかしそこで伸ばしていた足に猛烈に痛みが走り、私はひどく情けない声をあげてしまう。
「痛い痛い」
そこからどうにかしようと動かすが、すると完全に足をつってしまった。
それからひとしきり床の上を転がりながら悶絶し、ようやく痛みが引いてきた頃には呼吸は乱れ、汗もかいており、やってきた眠気などはもうすっかり吹っ飛んでいた。
ぐうううう。
部屋中に響き渡るほどのその音が合図となり、私は部屋を出る。
火に薪がくべられてしまった。もはや私を止められるものは何もない。まだ残る足の痛みも知ったことはないと言わんばかりに、猛然と階段を降りてリビングのさらに奥のキッチンに入ると冷蔵庫を開けていく。
そこには冷凍のチャーハンの袋があり、それをレンジにぶち込んで温め、さらに温まるのを待っている間に、父親がだいぶ前に買っていたカップ麺の蓋を開けて、先ほど春雨を戻すときに沸かしたお湯の残りを魔法瓶から注ぎこみ、ついでに冷蔵庫の野菜室に入っていたバナナの皮をむいて頬張る。
かくして夜の宴は勢いよく、盛大に行われた。炒飯をかきこみ、豚骨ラーメンをすすり、バナナ丸齧りしていたりんごを飲み込む。それから速やかに口ゆすぎ歯を磨き、洗い物もしてゴミも全て分別し、一切の痕跡を残さずに部屋に戻ると明かりを消して布団に潜り込んだ。そして一分と経たないうちに朝までぐっすり眠ったのであった。めでたしめでたし、おしまい。
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