第24話 化学実験室②

 それから私たちは岸川先輩の研究の助手として協力することになった。

 私たちは不意にやってくる来訪者、そのほとんどがだらしない保険医であったが、それを警戒しながら研究を進めた。

 先輩が言っていた通り、その粉は偶然の産物であったので、まず何を使ってそれを精製したのか、その解明に乗り出したのだが、どういうわけかその日の記憶が曖昧、というよりも数日前後の記憶が混濁していると先輩は告白した。またその日、精製に使用したものは先生たちが催していた宴のゴミと一緒に捨てられてしまったという。

「粉自体についても調べているんだけど、顕微鏡でみた結晶の形とかも特にそれっぽいやつが見つからないんだよね」

「やっぱり新発見なんじゃないですか」

「そう決めつけるのはまだ早い。私としてはむしろ疑問なんだよ。そんな私たちの身近にあるようなものをちょっと加熱したり何なりして、多くの人が知らないものができるものなのか」

「思ったんですけど、その材料となったものをもう一回集めて、同じものを作れるようにすればいいんじゃないですか。どのぐらいの分量混ぜたのかは覚えていなくても、何を採ってきたのかは分かるんじゃないですか」

「ああ、それは私も考えていたことだ。だから大体のものは集めてきた」

 そう言った先輩は実験室の隣にある用具室から大きな袋に入った草木や果物の類、さらに砂糖や塩などの調味料なんかも持ってきて、いくつもの黒テーブルに広げた。

「こんなに沢山あるんだ」

 由美も私と同様に想像を超える量だと思ったのだろう。

「ああ。ものによっては鮮度も大事だろうから定期的に中身を入れ替えているんだ」

「それはまた大変そうですね」

「そうでもないさ。ただ、この中から混ぜた組み合わせを探すのは重労働になるだろうね。いつもはそれぞれどのくらいの分量を使ったか、ちゃんと記して整理していたんだけど、どうしてあの日に限ってそうしなかったのか。嘆いても仕方ないけど、こればかりは言わずにはいられないね」

「それって何か理由とかあるんですかね。さっきも記憶が曖昧だーって言ってましたけど」

 由美が尋ねる。

「どうだろうな。確かに前日に夜更かしをしていて、というかほとんど毎日夜更かしをしているんだが、それで眠かったのもあるかもしれない。いつもなら授業中に寝るんだが、その日はなんだか眠れなくてね。午後に体育の授業があって疲れたせいかもしれない。ほら、疲れすぎるとかえって眠れなくなるというだろう」

「なるほど」

「頷いているけど、由美は体育の後は爆睡しているでしょ」

「見てないのに決めつけるように言うのはいけないんだよ」

「違うの」

「違くないね」

 由美は片目を瞑ってウインクしてくる。

「キミたちは違うクラスなのに仲が良いんだな」

「昔からずっと一緒ですから」

 由美は私の腕にくっついてくるので、危うく体勢を崩しかけて黒テーブルの上の草木に突っ込みそうになる。

「危ないでしょ、由美」

「いざというときは私も飛び込むから大丈夫だよ」

「そこはせめて私が抑えるからとか答えなさいよね」

 そんな私たちのやりとりにもまるで反応を示さず、先輩は思い出したように言う。

「でも、やっぱりあの日は妙にふわふわした感じだった気がするんだよな」

「それは、一日中ですか」

「いや、たぶん実験室に来てからだな。特にそんな感覚があったのは。うーん、でもなんかはっきりとしないんだよな」

 先輩は眉間にしわを寄せて少し苛立ちも混ざった様子で悩んでいる。実際、もどかしいのだろう。

 それから私たちはさっそく作業に取り掛かったが、結局調合したりするのは先輩なので私たちは実験室に突然入ってくることのないように見張り番をしているか、先輩の実験内容の結果を記す書記係や道具の準備の手伝いなどをそれぞれ担当した。

 先輩の記憶が不確かなこともあって、この計画は長い時間を要するかと思われたし、そうなれば私たちも放課後にどうしているのかと薫や一花に聞かれるときにごまかす口実を見つけるのに苦労する懸念もあったが、実際はそれは杞憂に終わった。

 その日も私は書記を、由美は外で見張り番をしていた。ちなみに見張り番は怪しまれないようにと由美がジャージ姿で縄跳びをやっており、二重飛びを繰りかえしているときが誰かが来ているという合図だ。運動部のカモフラージュ、由美が言うにはボクシング部と言っているが、うちの学校にボクシング部がない以上かえって怪しまれるのではないかと思うのだが、特に問題はなかったようだった。

 それまで調合してきたものは、びっくりするほど例の粉とは似ても似つかないものばかりだったというのに、それは一目で、というか匂いで分かった。

「なんと上品で甘やかな匂いなんだ」

 先輩は蒸留皿の上で水分を飛ばしており、そこにはあの少しばかり煌びやかな白い粒が誕生しつつあった。袋に入っている残り僅かな粉と比べても遜色はない。

「ええ、これは間違いないですね」

 私はなんだか身体が軽くなって、ぽわぽわと浮遊するような感覚を味わっていた。

「灯くん。由美くんを呼んできてくれ。彼女もこの成功に立ち会う権利がある。何より、これは皆で味わうべきものだ」

「はい、分かりました」

 私は廊下で縄跳びをしている由美を呼ぶ。

「灯ちゃん、すごい顔しているね」

 由美は私を見るや否や驚いていたが、調合に成功したのだと話すとついてくる。

「うわっ。何、この匂い」

「我々の実験は成功したのだよ、由美くん。さあ、一緒に乾杯といこうじゃないか。こんな日ぐらい私がこっそり仕込んでおいた勝利の美酒に酔いしれてもいいだろう」

「もしかしてそれって密造……」

「細かいことは良いじゃないか。私たちは偉業を成し遂げたんだ。きっと化学史に名前が残るに違いない。ああ、なんて素晴らしいことだろうか」

 湯吞みを片手に落ち着きなく首を揺らしながら機嫌良く話している先輩とそれに対してまだ戸惑っている様子の由美の姿を私は後ろから見ていたのだか、急に視界がぼやけてまぶたが降りてくるのを感じた。この甘ったるい匂いのせいか、妙に眠くて仕方ないのだ。私はすぐそばにあった丸椅子に腰を下ろし、そのまま少しずつ前のめりな体勢になり、まもなく黒テーブルに突っ伏し、意識が朦朧としていく。

 鉛のように重い身体は、全く動かせず、ただ沈んでいく感覚だけがある。全てが暗闇に包まれている。先ほどまで、すごくハッピーで心が満ち足りていたような覚えがあり、その残滓が心の底にまだあって、だからなのかその暗闇を特別に恐ろしいものとは思わなかった。しかしその間にも少しずつ身体から熱が失われていく。ゆっくり、しかし確実に。まもなくつま先から冷たさを覚え始め、程なくして寒気をともなった。そこからはどこまでも続いていくような、しかしここから変化が起こることはもう二度とない終着点にたどり着いてしまったような、そして満ち足りていたものだけでなく、それを感じていた感覚自体が、そしてそれを認知することさえもできなくなって全てが消えていく。恐怖を感じることもなく、ただ薄らいでいって……。



「……りちゃん。灯ちゃん」

 私はその声が誰のものかはもちろん分かったが、すぐには起きられなかった。

「大丈夫?」

 それでもその心配そうな声を聞いて起きなくてはと思い、ゆっくりと目を開けて何故か妙に気怠さを感じる身体を起こす。そこは夕日の差し込む教室の自分の席であった。

「灯ちゃん、大丈夫?」

 由美が誰もいない教室で一人、私の顔を覗いている。

「あれ、私。さっきまで違う場所にいたような……」

「ひょっとして悪い夢でも見てたの? なんだかうなされていたみたいだけど」

 それを聞いて由美が心配していた理由が判明する。

「ねえ、由美。変なことを聞くけど、私っていつからここで寝ていた?」

「ん?」

 由美は少し眉をあげる。

「もしかして何も覚えていないの」

「ええ、なんだか少し記憶が曖昧というか漠然としていて」

 実は今日が何月何日であるのかさえも、すっぽりと頭から抜け落ちていたことに気付いていたのだが、さすがにそれを言えば由美に寝ぼけていることを馬鹿にされるだろうと考え、自然と思い出すのに委ねる。

「放課後、私たち二人で図書室に行ってたんだよ。ほら、試験も近くなってきているでしょ。でも私がすぐに飽きちゃって、結局やめようってことになって帰る前に一旦教室に戻ってきたんだよ。それでダラダラと喋っていたら灯ちゃんが急に眠いって言いだしてそのまま寝ちゃって」

「そうだったの。それは申し訳なかったわね」

 私は時計を見る。もう午後五時を過ぎている。部活にも入っていない私たちがこんな時間まで学校に残っていることはめったにない。

「別にいいよ。きっと日頃の疲れがたまっていたんだよ」

「由美も、疲れているの?」

 私はなんとなく由美の顔を見て言う。

「もしかして疲れて見えた?」

「まあ少し。あと、制服もしわが寄っているし」

 由美は私に言われて気付き、裾を伸ばす。

「まああれだね。灯ちゃんが寝ている間、窓辺で風に吹かれながらたそがれていたんだよ。それでちょっとふけこんじゃったのかも」

 由美ははにかんで見せる。

「ということで、灯ちゃん。お詫びとして帰りにアイス奢ってね」

「えっ」

「いいでしょいいでしょ。私、ちゃんと灯ちゃんが起きるまで待っていたんだから。ほら、待てを覚えた犬だってご褒美をもらえるでしょ」

「犬と同じ扱いで良いの」

「美味しい餌にありつけるならね。ううー、わうー」

 全く似ていない犬の鳴きまねをしているいつも通りの由美を見て、私はなんだかほっとした。やはり何か悪い夢でも見ていたのかもしれない。

「でもきっと帰ったらわりとすぐに夕ご飯になるだろうから、買うなら夕食後用のアイスね」

 私からはそう提案しておく。

「そうだ。今日も灯ちゃん家で一緒に食べるんだった。これはお腹を減らしておかないと。じゃあ走って帰ろうか」

「それはさすがに勘弁して」

 足踏みをして今にも走り出しそうなそぶりをみせる由美に、私はまだ気怠さの残る身体をどうにか奮い立たせて歩き出す。

「そういえば、対策についてなんだけどちょっと思いついたよ」

「対策ってなんだっけ」

「ん、あっ」

 そこで由美は珍しく言葉を詰まらせたが、私はほとんど無意識に「ああ、部活の話ね」と口にする。

「う、うん。そうだね」

 由美は自分から切り出したのにも関わらず、何故か驚いているように見えた。

「いや、部活に勧誘されるなら適当な部活に入ってしまえば良いんじゃないかみたいなことを言っていたじゃない。ならいっそ新しい部活を作ってしまえば、元々居た人も居ないわけで、誰にも迷惑をかけないで自由にできるかなって思ったんだよね」

「なるほど。それは面白い発想ね。でも、なんの部活にするのかしら」

「それなんだよねえ、問題は」

 由美は肩をすくめる。

「特にやりたいこともないし、今のままでいいからなあ。何度も言っているように灯ちゃんと一緒にいることだけで大忙しなわけで、部活に入ったらそれこそ色々と面倒なことも増えかねない。そもそも言っていたように、ちゃんと断っていけばそのうち勘違いも解消されて来なくなるだろうし」

「まあ、無理に作るほどではないかもしれないけど、せっかく高校生になったのだから、何かやってみたいことを思いつけば、少し考えてみるのも悪くはないかもね」

「そうだねえ。じゃあ灯ちゃん部はどうかな。灯ちゃんについて今以上に深く交流していくための部活」

「そんな部を認めてくれる学校があるとしたら、見てみたいものね」

「よし、今からさっそく職員室に行って、部活申請の紙をもらってこよう」

「冗談に聞こえないのだけど、それ」

 それから私はどうにか由美を説得し、帰りに買うアイスの話で気を逸らせることで、また新たな恥ずかしい逸話を生み出さずに済んだのであった。

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