第24話 化学実験室①
放課後、私たちは化学実験室に向かっていた。それは保険医である芹沢ちゃん、もとい芹沢先生に呼び出されたからである。もちろん学業のことが理由ではない。由美が居合わせたという宴に参加を命じられたのだ。昨日、先生とたまたますれ違った際に、「明日やるから。どうせ暇でしょ?」とだけ言われ、私たちの返事すら聞かずに行ってしまった。いささか荒々しい誘い方だったが、それでもやってきたのはもちろん暇だったからに他ならない。
「たしかに、私たちほど時間があり余っている人たちはそういないかもしれないわね」
「いや、むしろ私は毎日大忙しいだよ。なんたって灯ちゃんと一緒にいないといけないからね、他のことをしている暇なんてないのに、この前は文字通り絡まれてさ。それを断ったら、今度は別の部活の先輩がチャンスがあると思ったのか案の定声をかけられたでしょ」
「そうみたいね」
今日も私の教室に来るのが遅かったので迎えに行ってみると、まさにその現場であったのだ。
「でもカッコ良かったよね、灯ちゃん。『先輩がた、すみませんがずっと前から一緒に帰る約束をしているので』なんて言って、そのまま腕を引っ張って連れ出してくれてさ」
「たまには私が悪役になってもいいでしょう」
「灯ちゃん、やさしっ。さいこー」
「この学校には話しても分からないような人はそういないと思うけれど、どうも陸上部に部活見学に行ったと思われていたみたいだし、その誤解を解くためにいちいち説明するのは面倒ではあるわよね。いっそのこと適当な部活に入ってしまえばいいのかもしれないけど、元からいた人に迷惑をかけてしまいかねないし」
由美は楽しそうに私の腕に頭を擦り付けてくるが、私は真面目に話す。
「まあ、それもそうだけど、灯ちゃんが助けてくれるならもうしばらくはこのままでも悪くないかも」
結局、有効な策は思いつかず、そのまま実験室に行き着き、その話は一旦終わりとなる。
とりあえず扉を軽くノックする。扉には各教室と同じようにガラス窓がついており、中の様子が見えるようになっているのだが、この扉の窓に限っては紫の色紙で塞がられていて見えなくなっていた。
「何かを焼いている匂いとかはしないね。まだ始めてないのかな」
「さすがに換気扇は回しているんじゃないかしら。それで防げるのかは分からないけど」
「はーい」
そこで返事があったが、どうやら先生ではなさそうで、バタついた足音がこちらまで近づいてくると、扉の鍵がガチャリと開く音がした。そこで初めて、扉の鍵が閉まっていたことに気付く。扉が開く。
「何か御用ですかー」
出てきたのは、ところどころシミの付いた白衣を纏った、私たちよりも少し背の低い眼鏡をかけた女子生徒だった。
「ああ、えっと」
私が答えにつまっていると、すかさず横から由美が「芹沢ちゃんに呼ばれたんです。ここで宴を催しているとかなんとかで」と事情を説明する。
「ああ、あれか」
彼女は案の定とでもいうべきか、呆れた様子をみせたが、それでもすぐに教えてくれる。
「でも多分、今日は無いんじゃないかな」
「えっ、どうしてですか」
もちろん由美は理由を尋ねる。
「今さっき教頭先生に呼ばれていたからね。しばらくは戻って来られないだろうな」
教頭先生は、やたらと緩い感じの教員が多いこの学校では珍しく真面目で、何より説教がとても長いことで有名だ。その長さはアマゾン川にも匹敵するとかしないとか。
「しかも呼ばれた理由が化学実験室の無断使用についてだから」
「あらら」
「まあうちの部活としては、邪魔さえされなければ誰が何をしていようが別にいいんだけどね」
「先輩ってもしかして化学部か何かの方なんですか」
由美が先輩と言うので私は思わず上履きを見ると、確かに赤色だった。この学校では学年ごとに、体育館履きや上履きなどの着用する色が指定されており、私たち一年生は青、二年生は緑、三年生は赤となっている。また、学年が上がっても色が変わることはない。入学年度ごとに分かれているといえばいいのだろうか。だから来年入学してきた一年生たちは赤色のものを使うことになるのだ。
ほんのわずかな間だが、先輩は私たちの顔をじっと見て、それから少しだけ目を落として何かを思案しているような顔つきをみせたが、やがて口を開いた。
「そう、私は科学部部長の岸川。せっかくここまで来たわけだし、暇ならお茶でも飲んでいくかい」
「へえ、科学部って先輩しかいないんですか」
「悲しいことにね」
岸川先輩は至って明るく言う。
「ほら、世間ではリケジョだなんだって言うけど、やっぱり科学とかに興味を持っている子なんて思っている以上に少ないんじゃないかな。だからこそ、ああやって話題になるわけで」
確かに先輩の言うように、そもそも珍しいものでなければ話題になることもないだろう。
「まあ私としては全く困ってないどころか、部費を独り占めできるからむしろ有難いとさえ思っているんだけど」
「あれ。でも部活って最低四人いないと休部、もしくは廃部になるんじゃないんですか」
ソフトボール部の話をしていたときに薫も言っていたことだ。
「ああ、あれは主に運動部に対して適用されるものなんだよ」
「そうなんですか」
「ほら、運動部は練習場所を確保しないといけないだろ。でもうちはグラウンドや体育館が決して広いわけじゃないからな。だからといって、文化部だって基本的には部員を増やさないと活動できないし、少なくとも予算をもらったり部屋を確保できないけどね」
「じゃあ先輩には何か特別な事情があるんですか」
由美は赤い急須に入っているお茶を自分で注ぎながら訊く。
「そう。うちの部は毎年コンクールに参加していて、わりと良いところまで行っているんだよね。それが評価されて、部員が少なくてもやっていけているんだ。それに私が入ったときはまだ当時三年生の先輩もいて、その人がいくつも賞を獲っていたからな」
「へえ。それはすごいですね」
私は素直に感心するが、「いや、そんなことはどうでもいいんだ」と即座に言う。
「どうでもいいんですか」
「大事なのはね、実験や発明に必要なものを買うお金があるということなんだよ。お金というのは素晴らしいものだよね。お金で買えないものはほとんどない。愛でさえ、お金がなくてはとどめておけないことも多々あるだろう」
「はあ」
私はどう答えて良いのか分からず、曖昧に返事をする。
「つまりきっしー先輩は発明するのが好きなんですね」
由美はいつの間に勝手にあだ名をつけていた。しかし岸川先輩はそれを気にすることもなく、むしろ実験室の黒いテーブルから身を乗り出し、「まさにその通りなんだよ」と答える。
「例えば、キミが今お茶を注いだ急須。何の変哲もない漆塗りの急須に見えるかもしれないが、実は多少の細工を施している」
「どんなですか」
由美は小気味よく尋ねる。
「例えば、この急須は倒れても中身が零れることはない」
岸川先輩はおもむろに急須を手で倒す。私は思わず抑えようと手が出そうになるが、確かに全くこぼれ出ることはない。
「真上からの方向に引っ張らないと蓋が開かないようになっていて、また急須が傾くことで内側に付いている弁が作用して蓋が外れないようになり、同じように口の方も塞がる。なんなら、こうやって振り回しても問題ない」
今度は急須を持ってその腕をぐるんぐるん回すが、蓋が飛んでいくこともなければ、中身の液体が一滴も垂れてくるようなこともない。
「もっとも電気ケトルとか蓋や口をロック出来るものはそれほど珍しくもないが、急須というところがポイントなんだ。ほら、時としてその場の雰囲気に相応しいアイテムが必要な場面、ようは風情が求められることがあるだろう。和菓子とともに緑茶を用意するのであれば、やはり急須で淹れるのが望ましいとされるようにね。あとは、雑誌のスナップ写真や映画の撮影などでも使えるはずだ。中身を入れておく必要があったとしても、うっかり零して衣装や床を濡らさなくて済む」
「なるほど」
その用途には私も納得する。
「だが、そんなことはどうでもいい」
そしてわずか一秒後にそれを否定される。
「これはむしろ余興といってもいいだろう」
先輩は拳を自分の胸に当て、なにやら先ほどよりもさらに張り切った様子をみせる。
「二人とも注いだお茶は飲んだかな」
「いえ、まだです」
由美が私の湯吞みに注いでくれたのはほんのさっきだ。
「じゃあ飲んで」
「えっ、今すぐですか」
「そう。今すぐ」
「私はもう飲み干しましたよ」
由美が言う。
「ほう、なかなか優秀じゃないか。キミももう少し頑張りなさい」
ただ由美は喉が渇いていただけだろうにと思いながらも、私も飲み干す。湯吞みはわりと大きかったので、一杯飲んだだけでかなりお腹に溜まった。
「はい、じゃあ湯吞みを出して」
私はてっきり返さなくてはいけないのかと思って渡そうとしたが、先輩は私の持っていた湯吞みに急須を近づける。
「えっ」
するとやはり湯吞みに新たに注がれていく。
「はい、飲んで」
「いや、ちょっと今は」
「えっ、何。私の注いだものが飲めないって言うのか」
「そう言われましても」
「旦那、最近ちょっと付き合い悪いんじゃないんですか。なんだかんだいってもやっぱり仕事っていうのは、人と人とのコミュニケーションってやつが大事だったりするんですぜ」
何故か由美まで同調する。
「分かったわよ」
前時代的とも言えるやりとりはともかく、私は湯吞みを口元に持っていき、一思いに飲み干そうとした。しかし口に含んだ瞬間、強烈な異変に気付いてむせるのと同時に吐き出しそうになった。それでもどうにかこらえて含んだ分だけは飲んでから湯吞みを勢いよくテーブルに置いた。
「こ、これ。お茶じゃないですよね」
まだ呼吸が整わずにむせこんでいたが、私は訴える。
「どういうこと」
由美が聞いてくる。
「何を飲んだと思った?」
しかし先輩は質問には答えず、むしろ真剣な顔で質問してくる。私はその気迫に気圧されて、「は、ハチミツレモンですよね」と答える。
「キミは今、ハチミツレモンが飲みたいと思っていたのか?」
そもそも水分を摂取するのはもう十分だと思っていたのだが、どうせ飲むのであれば味が違うもの、例えば甘かったり少しすっぱかったり、そういったものを飲みたいと考えていた。
「たぶんそうですね」
「やはりそうか」
テーブルに置いてあった私の湯吞みを手に取ると、自分で飲み干す。すると由美は「あっ、ずるいですよ。私も」と言うが、先輩は全部飲み干してしまう。そして落ち込んでいる由美に「そんなに飲みたかったらまだあるが?」と急須を指すが、由美は「そういうことじゃないんです」と首を横に振っていた。
「それで、これって何なんですか。いつすり替えたんですか」
「でも、すり替える時間なんてなかったような」
由美の言う通り、急須はずっと私たちの目の届くところにあった。
「実は、この急須にはまた別の機能も施してあってね。さっき急須を振り回したけど、ああすることであらかじめ中に入れてあった粉が液体と混ざり合うんだ。これ自体はあくまでもドッキリのためのチープなパーティーグッズの延長に過ぎないな」
下らなそうにそんなことを言うわりには、黙って飲ませて驚かせる気満々だったのではないかと思うのだが、私は黙っておく。
「だがそんなことはどうでもいい。さっきから言っているが、私は発明がしたいのであって、主婦が考案したようなちょっと便利なアイデアグッズや明らかにそれ以外の用途で使い道のないパーティーグッズを作りたいわけじゃない。私はいつだって浪漫を求めている。そう、すなわち私の主な研究はばけがくの方の化学、しかもビーカーやフラスコやらすり鉢やらを使った類のものだ」
途中、話の繋がりがよく分からないところがあった気もしたが、彼女の中ではそれは十分成立しているようだ。
「今の世界に足りないのは、浪漫や冒険、つまるところ程よい、いや、少しクレイジーなぐらいのファンタジーなんだ。もしかしたら科学と対極にある言葉に聞こえるかもしれないが、むしろ地に足の付いた現実を折り合わせつつ夢想家であることが私のポリシーなのだ」
「なんだかすごいですねえ」
由美はハチミツレモンと化したお茶を飲もうとしたのだが、少し口に含んだだけで由美は飲むのをやめて、「あれ?」と首を傾げる。
「どうしたのよ、由美」
「これ、ハチミツレモンじゃないよ」
「えっ」
その言葉に私は驚かされる。しかし先輩は全く驚くことなく私にしたのと同じように、「何を飲んだと思った?」と訊く。
「リンゴジュース。それもすごく爽やかなやつです」
「なるほど。これはもう確信できるな」
岸川先輩は満足そうに言う。
「これは一体どういう手品なんですか」
「手品じゃないさ。さっきも言ったけど、その秘密は私が混ぜた粉にあるのさ」
「もしかしてその粉が先輩の発明品なんですか」
「イエスッ!」
気のせいではなく、徐々に彼女のテンションは上がっており、その勢いは衰える様子を見せない。
「キミもなかなか優秀じゃないか。私のパシ……部下にしてあげよう」
「今、パシリって言おうとしてませんでしたか」
「そんなに気になるなら、この粉について教えてあげなくもない」
「そっちのことはまだ何も言ってませんけど」
「なにしろこれは私の発明の中でも一、二を争うほどのものだ。まだ研究段階だし、誰かにばらされても困るからあまり細かいことまで話すわけにはいかない。だが、せっかく被検体に志願してくれたからには、私も無下にはできない。説明責任というものもあるだろう」
もちろん志願した覚えはないが、それを言っても無視されることはなんとなく予想がついたので黙っておく。
「簡単に言ってしまえば、この粉は入れた飲み物の味がその人の飲みたいものに変えることができるのだ。元々がいかなる味であろうとも、例えば激辛の唐辛子茶であろうと美味しくグビグビいけてしまう」
「えー、すごくないですか。それ」
由美はわりと呑気な様子で言うが、本当ならスゴイどころじゃないだろう。
「だから言っているだろう。これは私の発明でも一、二を争うものだと。しかも効果はその飲み物を飲んだ後もしばらく続く」
「あれですね、ミラクルフルーツみたいですね」
「ほう、物知りじゃないか。確かにあれと原理は近い。ミラクルベリーとも呼ばれる果物で、あの果実自体は甘くないがミラクリンという糖タンパク質が私たちの舌に一万個ほどある味蕾という味を感じる器官にくっつくことで、次に食べた苦みや酸味の混じったものを甘く感じさせる。しかし、あれは食べ物によって感じる甘味が変わるだろう。こちらは違う。もっと絶対的な強度を誇るのさ」
「そんなもの、一体どうやって」
さっきは無理に一気飲みをしようとしていたので気付かなかったが、仄かに匂いもある。由美も横で湯吞みの液体に鼻を近づけて嗅いでいる。
「それはまあ秘密さ。それに、実のところこれはつい先日、色んな薬草やら果物やらから抽出された液体を混ぜてからそれを火に当てる遊びをしていたとき、偶然抽出されたものでね。サンプルもこれきりだ」
先輩は実験室の備え付けの鍵の付いた棚を開けて、透明な小袋に入った白い粉を取り出す。
「てっきり発明と言うので、もっと論理立てて作製されたものだと思っていました」
「偉大な発明だってひょんなことがきっかけだったりするものだ」
岸川先輩は胸を張って言う。
「でもそんな少量なのに、私たちに飲ませて良かったんですか」
由美の疑問はもっともだったが、「私の味覚が変だっただけという可能性を排除しなくてはならなかったんだ」と答える。
「だから、これで私の勘違いや夢想的な思い込みでないことが分かったわけだ。キミたちには感謝するよ。しかし結局のところ、どういう成分によってどんな作用を引き起こした結果そうなっているのかは未だ解明できていない」
「さすがに高校生がそれをするのは、かなり大変なことのような気がしますものね」
「もちろんそれもあるんだが、どうも人目を気にしてしまうんだよな。もしかすれば第一発見者として化学史に名を刻むことになるかもしれない。まあそれはいささか大げさかもしれないが、そういう状況でこんなセキュリティーどころか校内風紀も適当そうな学校の実験室で研究を進めることに苦労しているのさ。特に学校に働きに来ているのか飲み食いしに来ているのかも分からない輩が、いつ出入りするかも分からないだろう」
それが誰なのかはもちろん言うまでもないだろう。
「だから今さっきまで久しぶりに色々試してみようと思って、鍵を閉めて作業していたんだが、キミたちが来たのですぐに隠して中断した」
「それはなんだか申し訳なかったですね」
実際、私たちは暇人でただ美味しいものを食べにきただけなので、先生と何も変わりは無い。
「でもキミたちの顔を見て、ふと思いついてね。私の主観に基づかない人選の被検体がわざわざ向こうからやってきてくれたわけだし、これは良い機会だと。それにおそらく私にも誰かに喋ってしまいたい気持ちがあったのだろう。秘密を抱えるというのは意外にも気力を消耗するものらしい」
岸川先輩は肩をほぐすような仕草をしてみせた。
「だからできれば、このことについては口をつぐんでおいてくれると私としては有難い。まあそれは難しいことなのかもしれないけど」
「もちろん黙っていますよ」
由美が明るくそう答える。
「ええ、そうね」
私も頷く。自然と二人で目を合わせてから笑い合う。
「だってこんな面白いこと、誰かに話したらもったいないじゃないですか」
由美の言葉を聞いて、岸川先輩の目が見開かれる。そしてそのまま口角をあげると「そうか」とだけ言った。
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