第23話 陸上②
「この間、グラウンドを使わせてもらったときも陸上部の姿はなかったけれど、この森林公園で練習していることが多いみたいね。小さいながらも陸上用のトラックもあるし、去年完成されたばかりで広い上に綺麗だし、緑も多くて良い場所ね」
「そんな良い場所でこそこそと茂みに潜んでいるわけだ」
「仕方ないでしょ。ひらけていて身を隠せる場所が他にないし、由美は見つかるのが嫌なんでしょ」
「嫌だね。できることならすぐにでも帰りたい」
そんなこんな言っているうちに探していた陸上部員たちの姿が目に入ってくる。
彼女たちは陸上部らしく短パンにシャツというラフな格好をしており、たった今までトラックを走っていただけに息を切らし、水分補給をしている。そこには合計四人いるが、その中でも彼女は険しい表情をしていた。
「ほら、水飲みな。水分補給大事よ」
そのうちの一人、私よりも少し背が高いぐらいで髪を後ろにくくった人が、置いてあったペットボトルを彼女の頬に当てるというベタな行動をしてみせる。しかし、彼女はほとんど反応を示さず、「ありがとうございます」と言って受け取るだけであった。
彼女に話しかけた方の人は少しだけ困ったような顔を見せるが、あくまでも柔らかな笑みを浮かべながら声をかける。
「誰にだって調子が悪いときはあるよ」
「でも、大会が近いです」
「そうだっけ」
「そうだっけって、部長たちは皆最後の大会じゃないですか。覚えてないわけないでしょう」
「んー、いつあるの。明日? 明後日?」
そこでまた別の先輩らしき人もわざとらしく首を傾げてみせる。
「もうちょい先だとは思うけど」
「もしかして昨日だったりして」
さらにもう一人の先輩も軽い調子で話に加わる。
「だとしたら、ウチら引退していることになるじゃん。やだよ、勉強したくないから真面目に部活やっているフリしているのに」
「揃いも揃って、適当なこと言わないでください。勉強が大事なのも分かっていますけど、今年こそはみんなで全国も狙えるかもしれないんですから。去年だってすごく惜しいところだったじゃないですか」
「まあ、思ったより良い感じではあったよね。一個上の先輩もいたし。でも、今年はめーちゃんが加わってまた別のチームだからね。今回限りという意味では、今回の大会もまたプレシャスなメモリーになるわけだけどさ」
「そそ、ウチらでめーちゃんの高校の思い出の一ページとして載ると思うと、感慨深いものがありますなあ。よくもまあこんなに大きくなっちゃって」
「中学生の時から練習に参加していたもんね。ウチの学校、ごく普通の進学校なのに」
二人は少しふざけながら楽しそうに話す。
「それを言うなら逆ですよね。私が先輩たちの最後の大会に花を添えられるかどうか」
「そういえば、全国大会ってどこでやるんだろ。私、バカンスできる場所がいいな、バリ島とか行ってみたい」
「私は近場でいいや。移動面倒だし」
「ええ、なるべく遠くに逃げないと参考書の群れが追いかけてきちゃうでしょ」
「どこであっても、それは自分が持っていくかいかないかの匙加減じゃない。というか、もう塾の時間だよ、ウチら」
「いーやーだー」
「高三にもなって地面に寝そべって駄々こねないの。まあそういうわけだから、私たちは切り上げちゃうけど、めーちゃんはどうする」
「私はもう少し走ります」
「今日は先生もいないんだし、一緒に切り上げたら」
「いえ、もう少しだけやらせてください」
「ふん、可愛い後輩ちゃんを置いていくぐらいなら、私は残るよ。ここは私に任せて二人は先に行って」
「隙あらばサボる口実を見つけようとするな」
「そうね。一人で残すのはちょっと心配ではあるけれど」
そこまで口にした部長は、急に真っ直ぐに自分たちの方に目を向ける。おかげでバッチリと目が合い、私は固まってしまう。すぐに由美が私の頭を下げさせたがすでに遅かっただろう。しかし、彼女は何もなかったかのように向き直った。
「多分大丈夫かな」
「いいの、部長がそんな適当なこと言って」
「これまで散々適当なこと言っていたけどね、私たちも」
結局、先輩たちはそのまま学校に戻って行ってしまった。そして部長については去り際にも、明らかにこちらに目線を送ってきていた。
「どうしましょう」
先輩たちの姿が見えなくなるとすぐに私は尋ねた。しかし由美は私が言うよりも先に起き上がり、「はあ、面倒だなあ」と言いながら茂みから出ていく。そして私がその予想外の早さに驚いていると、久瀬さんも同様にこちらに気付いて驚きをみせる。
「なんでそんなところに。あっ、もしかして話を聞いてくれる気に」
「なってないに決まっているでしょ。お人よしの灯ちゃんがどうしてもと言うからちょっと見に来てみただけ」
「見てたなら分かったでしょ、事情は」
彼女は切実な表情で言う。
「頼めるのは細貝さんぐらいしかいないの。今回だけで全然良いから」
「割り込んで悪いのだけど、もしかして話というのは陸上部に入って欲しいだけではないのかしら」
そこで初めて私の存在に気付いたように、彼女はこちらに向く。
「うん、そうだよ。いや、もちろん入ってからも続けてくれるなら嬉しいけど、それは嫌なのは聞いてるから」
「入部するだけでも嫌だって言っているつもりなんだけど」
由美は毅然として言う。
「もう大体分かったと思うけど、この人は私に大会に出てほしいんだって。それも具体的に言えば、400メートルリレーに」
「さっきまで居た先輩たちは皆速くて、良い記録も持っているの。それこそ予選会を抜けられるぐらいに」
「さっきの先輩たちやあなた以外に部員はいないのかしら」
「本当は他にもいるよ。でも単純に部活への熱量が違くて、大会にもとりあえず参加するぐらいの感覚でさ。ほら、うちの学校は普通の進学校で、運動部に力を入れているわけではないでしょ。そしてだからこそ、こうやって速い人たちが集まるのは貴重なんだよ」
「なるほど。きっとその他の陸上部の方よりも由美の方が速いぐらいなのね」
「そう。身体測定でも学年では私の次ぐらいに良かったらしくて、それで聞けば、中学のときは陸上部に入っていて評価も高かったって」
「それはもう三年前の話だし、最近の記録にしてもあなたの方がずっと速かったんでしょ」
「逆に言えば、ずっと陸上部だった私と比べられるほどだってことだよ。ポテンシャルがあるのは間違いないんだし、今から練習すれば今の私なんかよりは絶対にいい走りができるって」
「あなたの気持ちは分かったわ。先輩たちを思ってのことなのね」
そしてこれまでの彼女の言動も納得できた。ただ、だからこそ言わずにはいられない。
「でも、それは」
しかし私がそこまで言いかけたところで、由美が私を手で抑え、自ら口を開く。
「誰も望んでないでしょ、そんなこと」
「かもしれないけど」
そこで彼女はさらに続ける。
「先輩たち、本当に頑張っていたから。昨年も一個上に速い先輩がいて、十分に狙えるぐらいだったのだけど、あとほんのわずかのところで負けちゃって。私、たまたまそれを見に行っていたのだけど、先輩たちも泣いていて。もちろん、私だって分かっているつもりだよ。その涙はその先輩と勝ちたかったという思いであって、私が代わりになれるわけじゃない。でもさっきも言ったように先輩たちは今回で最後だし、適当なことを言っているけど、なんだかんだ勉強と両立してちゃんと練習している。今日だって自主練の日だったんだけど、一緒に走っていたでしょ」
「いや、だからそれは」
「はあー」
そこで由美はこれ見よがしに大きなため息をつく。
「私からしたらさ、何を言っているのって話なんだけど」
「何を言っているって、言っていることは分かるでしょ。人の気持ちを考えてないと言われても、仕方ないところはあるかもしれないけど」
「本当それだね。考えてないね。でもそれは私の気持ちじゃないけどね。いや、もちろん私の気持ちも考えてほしいけどね」
「じゃあどうしたらいいの」
「さあね」
「ええ、そんな投げやりな言い方」
さすがに私も可哀想に思って口を挟むが、由美は肩をすくめる。
「だって、私は専門家でもなんでもないし、調子が悪いのをどうにかする方法なんて知らないもの。そもそも、絶対に調子を取り戻せる方法なんて知っている人いるの? そんな魔法みたいなメソッドを確立していたら、今頃ノーベル賞でも取っていると思う」
「それはそうかもしれないけど」
「だから、結局は自分でどうにかするしかないってこと。たとえば私だって、灯ちゃんの隣に居られるためであればどうにだってしようとするよ。灯ちゃんの隣に相応しいだけの人間でありたいと思うし、灯ちゃんに悪影響を及ぼす悪い輩や邪魔者がいたらどんな手を使ってでも排除したいと思うよ、私は」
「いや、急に怖いこと言わないでちょうだい」
「そりゃあ、もちろん私みたいな小娘一人にできることなんてたかが知れているのは分かっている。そうじゃなくても、私がどう思っていようが、基本的に灯ちゃんのことは灯ちゃんが決めるわけだし、一緒にいたい気持ちと同じくらい灯ちゃんの想いに背くようなことはしたくない」
「気持ちは嬉しいけど、それを人前で言うのは」
「だから、なんでもやってみるしかないんじゃないの。走り方やフォーム、呼吸法なんかの見直しはもちろんのこと、食事、生活習慣、睡眠の質、他にも瞑想を取り入れるとかなんかよく分からないけどそういった競技とは直接関係のないことも含めてさ。あっ、でもそのなんでもの中に私を巻き込むようなことは入れないでね」
突き放すようなことも言うが、一方的に絡まれた相手に対してと考えれば、いつになく優しく励ましているといえるだろう。実際、由美の言葉に対して、久瀬さんも頷いていた。
「うん、言うとおりだと思う。とことん向き合ってあがいて見せろってことだよね。調子を取り戻して良い結果を出すために、もっと限界まで自分を追い込んで頑張らないと」
「それなんだけど、頑張らないという選択肢はないのかしら」
「えっ」
以前として深刻な顔をしていた彼女であったが、そこで初めて顔を上げた。
「あるとは思う」
由美も私の言葉に多少の含みを持たせながらも賛同する。
「たまには走るのを休んでリフレッシュしてみたらとは、部長にも言われたけど」
「もちろんそれはそれですればいいと思うけど、私が言っているのはそういうことではなくてね。なんというか、最終的にはなるようにしかならないものでもあるじゃない。だから一旦上手くいくかどうかということを置いてみる、いえ、むしろ上手くいかなくてもやるだけやろうと思えるかどうかじゃないかしら。どんなにすごい人だって、いつでも調子良く完全な結果を出せた人なんて多分どこにもいないじゃない」
「上手くいかなくても、やる」
彼女は反芻するように口にする。
「それにほら、結果のためだけの努力って、やっぱり辛いじゃない。大会で結果を出せるかどうか以外にも、頑張ることのできる動機があれば、少しは気が楽になるのではないかと思うのだけど」
「とはいえ、私はそれがどんな茨の道であっても、灯ちゃんのそばにいることを諦めないけどね」
由美は付け加えるように言う。
「そういう気持ちも分かるけどね」
「私なら誰に何を言われようと今の自分の立場を手放すつもりはないから、だったらいっそのこと何があっても自分が先輩たちを勝たせてやるぐらいの気概でやればいいんじゃないの、知らないけど。というか、逆に先輩たちからしたらなんだこの後輩って思っているかもよ。だってリレーって一人で走るわけじゃないんでしょ。先輩たちがそれだけちゃんと練習しているなら、本番であなたが多少のヘマをやらかしたところで、先輩たちが良い走りをして勝たせてくれるかもしれないわけで」
「私は運動音痴なだけにあまり適当なことは言えないけど、たとえば本番前までどんなに調子が良くて良い記録を出していたとしても、本番で上手く走れるとは限らないのであれば、それと同じように本番前までどんなに不調に悩まされていても、本番で突然上手く走れることだってない話ではないと思うわ。大事なのは、最後まで自分を信じることではないかしら。なんだか色々言った割に、最終的に月並みな言葉しか掛けられないけど」
「そんなものじゃない。魔法のメソッドなんてどこにもないんだから」
由美は相変わらずの態度で言うのだった。
「そうだね。ちょっと焦ってパニックになっていたのかも。もう一度自分を信じて、でも少し落ち着いて頑張ってみるよ。どうもありがとう。それから、しつこく付きまとってごめんね」
元々良い子であろうことは分かっていたし、素直に謝り、ひたむきに頑張ろうとするその姿を見れば、やはりなんとか上手くいってほしいものだと思わされる。
「でも、正直もどかしい思いだなあ。一体どうしたら良いんだろう」
そこで私はふと思い出す。
「そうよね。まあ、実際調子が悪い以上はそこになんらかの原因があるのもまた間違いないわけで。さっき走っているのを見たときは、なんだか足の運びが少しぎこちないようにも見えたけど、昨日の放課後、先生に見つかって走り去っていったときなんかは、とても良い走りっぷりに見えたわ。葉なんかは走っているときの足音がどうとか言っていたけど、やっぱり外と室内では勝手が違うのかしら。あっ、葉っていうのはあなたと同じクラスの牧野さんのことなんだけど」
「ああ、あの面白い子ね。そんなこと言っていたんだ、音か。なんだろ、足、足音、靴とかかな」
そう言って、彼女はその場で靴を脱ぎ、じっと眺める。
「最近、走ることに気を取られていたからメンテナンスしてなかったな。あっ、中敷きと靴底の隙間に石がある。いつ入ったんだろ、ポイ」
そう言って彼女は取り出した小石を投げ捨て、「よいしょ」と履き直す。
「おっ、なんかちょっと感触戻ったかも」
「えっ」
その流れるような展開と軽い口調に私は驚き以上に戸惑う。そのまま彼女は走り出すと、軽やかにぐんぐんと加速していき、あっという間に離れていく。
「まさかとは思うけど、それが理由だったの」
「おお、なんか走りが戻った気がするー」
向こうからそんな声が聞こえてくる。
「ええ。挟まっていた小石を取り除くだけで、そんなに変わるものなの」
「たとえ気の持ちようだとしても、良くなったのであればそれで良いんじゃない」
由美も由美でまた大して驚きもせず、つまらなさそうに言う。
「戻ったというのであればもちろん喜ばしいことなのだけど、さっきまで色々と言葉をひねり出して励ましていたのは一体なんだったのかしら」
「そんなものじゃない。思いもよらないところから、あっさり解決することは往々にしてあることでしょ」
「魔法のメソッドはやっぱりあったということなの、これは」
「でもこれでもうあの人も思い悩んだからといって、どうにかなるものじゃないって分かったんじゃない」
先ほどと同一人物とは思えないほどに軽快に走っている久瀬さんの姿を尻目に、由美はあくび交じりに言うのであった。
そんなわけで一件落着となり、のちに行われた予選会も無事に突破したという報告を受けることになるのだが、この話には少しだけ続きがある。
「この間はどうもありがとう。おかげでまた明るく元気いっぱいに頑張ってくれているわ」
ある日の昼休みに私たちの教室までやってきたのは、陸上部の部長であった。
「まさか原因が靴だったとは思わなかったけどね。由美ちゃんが気づいてくれたの」
「いや、私じゃなくて、あの人と同じクラスの子の言っていたことを灯ちゃんが思い出したのがきっかけで」
由美は端的に説明するが、私は二人の間柄に少なからず驚かされていた。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、これ、お礼ね。美味しいフィナンシェが入っているから二人で食べて」
「別にお礼なんて無くても良かったんですけど。まあ、持ってきてくれたのであればありがたくいただきますけど」
由美は小さな紙の手提げ袋を受け取る。
「この人、私たちと同じ中学だったの。一年生のときに、三年生で」
「あっ、それじゃあもしかして由美が陸上部に在籍していたときは」
「そう、その時も部長だった」
由美が頷く。
「面識があったのね。ああ、それじゃあ、茂みから見ていたときにこちらに目を向けたのも、私だけでなく由美のことも気付いていたということ」
「私が部活を辞めようとしていたとき、顧問の先生にしつこく止められた話はしたっけ。もちろん、私は最悪不登校になってでも辞めてやるつもりだったのだけど、その時この人が口添えをしてくれてあっさりと辞めることができたんだよね。正直、必要はなかったと思うけど、まあ貸しではあったから」
「今回、突然茂みから出て行って話す気になったのは、部長さんのことを見て借りを返そうと思ったから」
「貸しを作ったつもりではなかったのだけどね。円満に解決できるならそれに越したことはないじゃない。なんであれ、助かったわ。今回の場合、私たちよりも同級生の言葉の方が響くかなと思ったのよね。まさかあんなにすぐに解決しちゃうとは思わなかったけど。これからも頼っちゃおうかしら」
「頼られても困りますよ。それに先輩は三年生で、これから受験やらで忙しくて私たちに構う暇なんて無いでしょう」
「でもまだ一年は同じ学校に通うじゃない。ふふ、楽しみなことが増えちゃったわ」
嬉しそうにしている部長とは裏腹に、由美の表情はひどく複雑なものであった。以前助けられただけに無下にもしづらいということなのだろう。
「もしかして、由美は部長さんのことも知っていて、こういう展開になることまで見えていたから、ずっと不貞腐れていたの」
私はそこでようやく由美の今回の一連の出来事に関する態度の真意に達した。
「だって、この人勧誘にこそ来なかったけど、私が久瀬さんにしつこく付きまとわれていたことは絶対知っていたはずだもの」
「ええ、渡り廊下でしがみつかれていたことなんて全く知らなかったわよ」
彼女は明らかに面白がって言う。
「良いじゃない、あなたのことだから部活にも入らず、先輩の知り合いなんていないでしょ。定期試験の傾向とか役立つことを色々教えてあげるわよ。それじゃあ、私は部活のミーティングがあるから失礼するわね。またね、お二人さん」
そう言うと、部長はスキップで去っていく。
「はあ、結局面倒なことになったなあ」
彼女の後ろ姿を見送る私の横で、由美は渋い顔をしているのであった。
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