第23話 陸上①

「遅いわね」

 私はとうに教科書をしまい終えていた鞄を載せた机の前で、黒板の上に掛かっている時計を見やる。いつもは放課後を告げるチャイムが鳴るや否や教室に入ってくる由美であったが、今日はまだその姿を見られないでいた。何か用事があるとは聞いていないし、遅れるという連絡も来ていない。

「珍しいな。私は用があるから先に帰るよ」

「うん、また明日」

 一花とそんな挨拶を交わしつつ、私も由美の教室に行ってみようかと思って立ちあがろうとしたが、そこでトイレに行くと言っていた薫がドタバタと音を立てて走ってきた。

「灯はん、灯はんはおるどすえ」

「何よ、騒がしいわね。いえ、騒がしいのはいつもだけど」

「騒がしいのはここじゃないよ。事件は現場で起こっているんだよ」

「意味が分からないわ」

「あなたのフィアンセが取っ組み合いの喧嘩をしているんだよ。掴んで引っ張り合ってくんずほぐれつの最中だよ。灯はんを奪い合っているのかもしらんぞや」

「由美が誰と掴み合っているのよ」

「違うクラスの一年生みたい。私も話したことない子だからよく知らないけど、とにかくついてきなされ。それで止めた方が良い、私を奪い合って争わないでと言いなはれ」

「あなた、明らかに面白がっているわよね」

 はしゃいでいる薫には白い目を向けるが、それはそうと心配だったのですぐに向かう。



 現場は別館に向かう途中にある屋根付きの連絡通路であった。どうやら移動教室だったらしい。ちなみに由美はたとえ六限が移動教室であっても、ほとんど鐘が鳴るのと同時に教室に入ってくる。そのメカニズムは学園の七不思議に申請中だとかなんとか。

「ほら、あそこ。うわっ、服がはだけて健康的なお肌が露わになっておられる」

「てっきりあなたの誇張かと思ったけど本当じゃない」

 さほど人通りが多い通路ではないが、それでも通りがかった人たちによって人だかりもできつつあった。

「私には世界で一番心清らかな美しいプリンセスが待っているの。かぼちゃの馬車に乗り遅れちゃうから離して」

 それはすでに結構な声量であったが、それをさらに上回る大きさで返ってくる。

「嫌よ。今日という今日こそ、話を聞いてもらうんだから」

「前にも言ったけど、あなたの頼みを聞く気はないから」

「なくても良いから、とにかく聞いて」

「自分がどんな無茶苦茶なことを言っているか、分からないの」

「無茶苦茶でもなんでもいい。手に入れるためなら、なんだってするわ」

「私と灯ちゃんを引き離さないで」

 由美は掴んでいた少女の頭を押さえつけようとするが、相手の方が長身でしかもよく見れば過不足なく鍛えられた体つきをしており、むしろ由美の身体をさらに強く引き寄せる。

「うわあ、すごいキャットファイト。ほら、灯はん。早く止めに入った方がいいじゃない。私のために争わないでーって」

「楽しそうに言わないで」

 薫に急かされるまでもなく止めるつもりではあったが、その様子を間近に見て、私は少なからず狼狽していた。しかし薫に背中を押され、彼女たちの前に躍り出る。

「二人とも、やめなさい」

「あっ、灯ちゃん」

 私の声に由美はすぐに気付く。そして気付くと、今まで引っ張り合いにおいて劣勢気味であったにも関わらず、剛腕を発揮して引き剥がしながら、私の方に近づいてくる。

「ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって。でも、もう大丈夫だから早く帰ろうね」

「いや、まだ腰にしがみつかれているでしょ。そもそも何なのよ、これは」

「嫌よ。帰さないわ。話を、話を聞いてもらうまでは」

 日焼けした身体をずるずると引きずられながらも、彼女はまるで諦めていない。

「とにかく二人とも一旦落ち着いて」

「私は落ち着いているけど、この人が興奮してやまないの。これ以上絡んでくるなら警察でも呼んでもらおうかな」

「その前に学校の先生だと思うけど」

「んー、なんか騒がしいなあ」

 すると丁度通路を通りかかったのは、保険医の芹沢先生であった。相変わらずどこか気怠そうでその手には書類と共にあたりめの袋が見え隠れしている。

「やばっ」

 騒ぎを起こしていることは自覚していたようで、彼女はそこで初めて慌てた様子を見せる。

「話は改めてするからね。今度こそは逃げようとしないで聞いてよ」

「そんな義理はないって言っているでしょ」

「とにかく、そういうことだから」

 言いたいことを言った彼女は瞬く間に連絡通路から去っていった。嵐のように騒がしかったが、去っていく際の手を大きく振って長い脚を繰り出す颯爽とした走り方は印象的であった。



「結局なんだったのよ、学校でのあれは」

「もう終わった話だからなんでも良いじゃない」

 由美は私の目の前でハンバーガーにかぶりつく。彼女の前のトレーの上にはすでに丸められた包み紙があり、フライドポテトの箱の中身もほとんどなくなっていた。

 すでに日も沈むかという時間帯であったが、追加注文をしていた。由美は決して少食ではないが、夕ご飯が食べられるのかと心配になるほどである。つい先ほどまで薫も一緒にいたが、妹の面倒を見ないといけないからと帰った。もちろん、その間にも何度も聞き出そうとしたが由美は話したがらず、結局雑談に終始していた。

「いや、明らかに終わってなかったわよね。向こうは全く諦めてなかったもの。そりゃあ、もちろん付きまとってしがみつくのがお行儀の良いやり方だとは思わないけど、話ぐらいは聞いてあげても良かったのではないかしら。そっちの方が結果的に面倒にならないかもしれないわけで」

「話なら前にも聞いたし、そのときにちゃんと断ったからね、私」

「だから、それがどんな話なのか薫も私も尋ねていたのだけど」

「もう、これだから嫌だよ。私にしつこく言ってくるだけならまだしも、騒ぎ立ててくれたおかげで灯ちゃんに気にさせちゃったんだから」

 基本的に由美はストレートに感情を出すし、怒るときはしっかり怒ると私は思っているし今日もそうなのだが、十分に迷惑をかけられているわりには嫌悪感を露わにするような言い方はせず、やけ食いでストレスを発散している辺り、多少なりとも考慮しうる事情があるのだと思われる。

「もしかして他人には気軽に言えないような話だったの」

「ほら、そうやってまた余計なことを考えさせちゃう。うがー」

「じゃあ、いい加減話してよ。あの様子だと、そのうち私も知ることになるわよ」

「あっ。灯ちゃん、後ろの窓の方を見て」

「話を逸らそうとしても無駄よ」

「いや、そうじゃなくて本当にいるんだって」

「いるって何がよ」

 そう言いながらも、どことなく周囲の席の人たちから視線を感じ、私はそのまま振り返る。すると、目の前の窓ガラスに人が張り付いており、私は思わず小さな悲鳴をあげてしまう。



「どうもー、奇遇ですねえ」

 ギターケースを上手いこと椅子とテーブルの間に立てかけて、私の斜め前の席に座ったのは牧野葉であった。

「まさか窓に顔をくっつけているとは思わなかったわよ」

「近くを歩いていたら、あの赤い看板の上にしがみついている顔がハンバーガーのマスコット、ハンバガ君の姿が目に入ってきましてね。おヒゲもきっちり整えていて精悍な顔つきなのに、可愛らしいつぶらな瞳で、この道を通ると大体いつも見てしまうんですよね。それで、ハンバガ君がいつか落っこちてしまったらどうしようかと思って、看板下の地面に目を向けたんです。そうしたら店内にお二人の姿が見えた次第ですよ。手を振ってみたんですけどさすがに気付かれなくて、どんどん近づいていったという経緯であります」

「由美が気付いていたのだから、張り付く必要はなかったでしょうに。いえ、気付かずともそうする必要はないのだけど」

「お買い物してたの」

 由美は葉が手に持っていた黄色の買い物袋を指さしながら聞く。

「ええ。いつものように家に帰ってから練習をしていたのですが、途中で弦が切れてしまいまして。一応予備は家にあったのですが、今日は夜に合同練習があるので、どうせなら買い物してから行こうかという考えに至ったのです」

「近いうちにライブがあるんだっけ」

「そうですね。ライブ自体は頻繁にやっているのですが、最近はメンバーの方々がそれぞれお仕事などで忙しかったこともあって活動頻度も控えめで、でもそういうのが皆さんひと段落ついたみたいで。それに、久しぶりにオリジナル曲が数曲ほどできあがって、その練習をしているところですね」

「相変わらずすごいわね、葉は」

「いえ、私はまだまだですよ。皆さんに追いつくので精一杯です。練習はずっと楽しいですけどね。一人でも良いですが、合わせて形になっていくのは、やはり代え難い愉快さがあります」

 彼女は本当に楽しそうであり、何よりであった。

「今度ライブ行くからね」

「ええ、ぜひぜひ。あっ、そうだ。私も注文してきて良いですか。お二方ともそろそろ食べ終わりそうなタイミングで申し訳ないのですが、小腹が空いてきてしまいまして。夕ご飯は練習終わりなのでだいぶ遅くなるんです」

「もちろん良いわよ。なんなら、由美はまだやけ食いの続きでまた追加注文するかもしれないし」

「しないし、やけ食いでもなんでもないから。いつもよりお腹空いていただけ。そんなこと言っていると、灯ちゃんの二の腕に噛み付くよ」

「では私は反対の手を」

 すると葉も私の手を掴み、口を開けて本当に食べようとしてみせる。

「えへへ、冗談ですよ」

 葉は再度周囲からの視線を浴びせられていることも気付かず、照れくさそうにしている。ただ、そんな無邪気な様子も微笑ましく思えた。



 葉が来たこともあって一旦は追及するのをやめていたのだが、注文を終えて持ってきたトレーに敷かれていた紙に描かれている得意げな顔をしたハンバガ君のイラストをひとしきり褒め称えたのち、葉は「そういえば、由美さんが沢山食べられているのにどんな理由があったのですか」と切り出した。

「学校で何かあったみたいですけど、私はすぐに帰宅していたので」

「話を聞いていたの」

「ええ、窓の向こうから少々ですが」

 機嫌の戻りつつあった由美であったが、また渋い顔をする。そこで私はすかさず学校であったことを説明する。

「ああ、それはひょっとして久瀬さんのことではないですか」

 すると、葉はあっさり言い当ててみせる。

「葉ちゃん」

「恨めしそうに言っても仕方ないでしょ。いずれ分かったことよ」

「あれ、もしかして言ってはまずかったのですか」

「もういいよ」

 由美は新しく頼んだバニラシェイクのストローに口をつける。

「久瀬さんというのは知り合いなの」

「ええ、私と同じクラスの方です。背は高めで日焼けしていてとても健康的なお身体をされていますよね。またいつも明るくて楽しい方で、一番前の席でも堂々と寝られるだけの胆力の持ち主でもあります」

「なんとなく人となりが分かった気がするわ」

「あいにく普段あまり話すことはないのですが、科学の授業で一緒の班になったときはお喋りできて楽しかったですよ。お喋りに加えて、混ぜるものを間違えて試験管が七色に光り出したり、ビーカーが宙に浮かびあがったりもしてましたね」

「それは取ってつけるような内容の話じゃないわね」

 私は冷静さをもって言う。

「その時にお聞きしましたが、どうやら陸上を頑張っているみたいです。あっ、陸上で頑張っているではありませんよ。それだと陸にあがった魚の話になってしまいます」

「そういうことね」

 そこで私はこれまでの経緯を理解し、それから由美の方を見ると、全く美味しくなさそうにシェイクをすすりながらこちらをじっと見ていた。

「ええ、そういうことなんです。生き物は環境に適応し、進化を遂げていくものですからね、魚はやがて足を生やし、やがて翼を羽ばたかせて空へ飛び立つ。そう考えるといずれは大気圏を越えて宇宙に出ていくのも必然なのかもしれません。実は最近書き上げられた新曲も少なからずそのようなテーマが根底にありまして」

「いえ、そっちのことではなくてね。でも、それもちょっと気になるから後で聞かせて」

 私は脱線しかけても話を続けさせてもらうことにする。

「葉のおかげで話が一気に見えたわ。久瀬さんは陸上部に所属していて、勧誘のために由美にしがみついていたのね」

「由美さん、運動神経抜群ですもんね」

「そんな大したことないよ」

「いえ、私も薫さんが言っていたのを聞きましたよ。なんでも入学して間もない頃にあった体力測定では軒並み好成績を叩きだし、運動部の方々さえも凌駕するほどであったとか、つい先日もソフト部のエースとして頂上決戦を行ったばかりなんだともお話しされていました」

「薫ちゃんは大袈裟だから」

「でも実際、中学の頃も似たような感じだったわよね。しばらくは陸上部に入っていたわけだし」

「一年生は強制的に部活に入らされたからね。あの時は本当に辛かったな。私の人生でも最も辛かった時期といっても過言じゃないね。平日はもちろん休日も朝から晩まで部活動で、灯ちゃんと全然会えなかったんだもん。灯ちゃん成分が枯渇してもうどうにかなりそうだったよ」

「あの頃の由美はいつになくエキセントリックだったわね。夜寝る直前に窓から入ってこられた時は、驚きを通り越して心配になったわ」

「あれは緊急事態だったね。クラスも違ったし、朝練で一緒に登校することもできなかった。あれでもう部活はこりごりだって思ったよ」

「だから高校ではすでにお断り済みというわけね」

「そうだよ。そんな話、いちいち灯ちゃんの耳に入れるまでもないでしょ。私と灯ちゃんを引き離すものは徹底的に排除しないと」

 当時のことを思い出したのか、由美の目はいつになく本気であった。

「部活に入るかどうかは本人の自由だし、自分で決めれば良いと思うけど。それにしても、どうして今さらまた勧誘してきたのかしらね。入学してからはそれなりの時間が経っているでしょ」

「知らないし、果てしなくどうでも良い」

「由美は本当にどうでも良いと思っていることに関してはほとんど反応を示さないけれど、そうじゃないことには普段より強い物言いをしがちなのよね。しがみつかれていたときも嫌がる様子は見せていたけど冷たい拒絶ではなかったし、本当にどうでも良いと思っているならやけ食いもしない」

「灯ちゃんって、普段はにぶちんなのにそういうところは頭が回るよね」

 由美は口を尖らせて言う。

「おお、なんだかすごく幼馴染同士の会話って感じですね。さすがです」

 そしてその隣に座る葉は目を輝かせて感銘を受けた様子であった。

「私は何も言わないよ。関係ない話だし、どうやったって私が部活に入ることはないもの」

「意地っ張りね」

「そういえば、久瀬さんに関しては最近ちょっと気になったことはありますね」

 葉は小動物のようにもぐもぐとポテトを食べながら、神妙な顔で言う。

「どんなことでも良いから教えてくれると助かるわ」

「先ほども言ったように普段お話しすることはほとんどないので、あまり自信はないのですが、前と比べて元気がないような気がします。基本的には明るくて授業中も普段通りよく寝ているのですが、少し寝つきが悪くてうなされている表情も見られました」

「それはたまたま悪い夢を見ていたとかではなくて」

「そうかもしれませんが、偶然部活中に走っているのを見かけた際、リズムが違っていた気がして」

「リズム?」

「ええ、呼吸もそうですが、あとは足音ですかね。それがちょっと不自然なのかなと。ごめんなさい、感覚的で分かりにくいですよね」

「いえ、そんなことはない、すごく助かったわ。ほら、由美の仏頂面を見れば合っていることが良く分かるでしょ」

「灯ちゃんって、ときどき無遠慮だよね」

 由美が音を立ててすすっているバニラシェイクはほとんど空になっていた。

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