第20話 劇場
「休憩時間まで、ほとんど息をつく暇もなかったね」
「そうね。最初の商人と王様のやり取りのシーンからもうずっと引き込まれっぱなしだったわ」
「いやあ、後半も楽しみだねえ」
私たちはふかふかの真っ赤な座席に座りながら口々に感想を言い合っていた。
「二人はお手洗いとか行く?」
由美の隣で腕を伸ばしながら立ち上がった姉の愛がそう訊いてくる。
「あっ、私行きたい」
「灯は?」
「それじゃあ、私も行こうかしら。休憩はこの一度きりみたいだし、姉さんも行くんでしょ」
私は由美に続いて席を立つことにする。
「んー、私も一旦出るけどお手洗いは始まる直前でいいかな。どうせ今は混んでいるだろうし。それよりパンフレット買ってこようと思っているんだけど、由美ちゃんも欲しい?」
「あっ、いりますいります」
「じゃあお姉さんが買ってきてあげましょう。もちろんお代はいらないわよ」
「やったー。さすが愛ちゃん、太っ腹―」
「可愛い妹に奢るために、モデル業やっていると言っても過言じゃないからね。まあ、そういうわけで私は売店の方に行ってくるから、適当な時間に戻ってきておいてね。フードスペースもあったから、そこで何か食べていてもいいけどさ」
「でも、またあとでパエリアが美味しいスペイン料理店に連れて行ってくれるんでしょ。だったらお腹空かせておくよ」
「まあ、そうね。せっかく予約も取れたわけだし、楽しみにしていてちょうだい。ふん、我ながら完璧なデートプランね。じゃあ灯、由美ちゃんのボディーガードよろしく頼むわよ」
「扱いの差を感じるわね」
私が言い返すも、愛はさっさと行ってしまった。
愛の言っていた通り、お手洗いは外にまで続くほどの長蛇の列が形成されていた。
「気長に待つしかないわね」
「私の膀胱が持つかな」
「えっ」
「冗談だよ、冗談」
由美が白い歯を見せて笑う。
「変なこと言わないでちょうだい」
「それよりもさ、さっきの劇なんだけどあの後どうなると思う?」
由美は無邪気な様子で尋ねてくるが、それに対して私は少しばかり訝しんでしまう。
「それは分かっていて言っているの」
「分かるって何をさ」
「もしかして、由美は原作を知らないのかしら」
「原作って元になったお話のことだよね」
「そうよ」
舞台は中世から近代にかけてのとある小国。主人公の少女は城で使用人として働いており、その可愛らしい外見から周りにやっかまれてしまい虐げられていた。しかしある時自分に懐いてきた黒猫に餌をあげていたところ、家庭教師の授業をサボって庭で休んでいた王子と出会い、二人が同年代であることや、少女自身も元々は傍流の没落貴族の血を引いていることもあって気品に溢れた礼儀正しい所作を身につけていることに王子が気付いたことがきっかけで関心を持たれることになり、秘密の交流を重ねていくうちに互いに心惹かれ合っていった。しかし王子にはすでに許嫁がいることやそもそもの身分の違いなど二人の間を阻む障壁が当然たくさんあり、それでも二人はときに真剣に、ときに面白おかしく、それらを乗り越えていく。そんな中で少女は王子に相応しい相手になれるようにと努力を重ねていったことで、少女を虐めていた他の使用人をはじめ周囲の人々からも少しずつ認められるようになっていった。ここまでは良かったのだが、日を追うごとにますます彼女の美しさに磨きがかかり魅力的になっていったことで、他国の王子やさらには王子の父、つまり国王にまで惚れられてしまう。第一幕はそこで終わっている。
「えっ、じゃああの後どうなるのか灯ちゃんは知っているんだ」
「大まかにはね。昔からある有名なお話だし、たぶんこのミュージカルを観に来ている人のほとんどが知っていると思うわよ」
私たちは電車に一時間以上かけて、ミュージカル専用の劇場にやって来ていた。千はゆうに越えるほどの人が収容でき、三階まではある半円形の客席の二階席の真ん中というなかなか悪くない席で観覧していた。
そもそもこうして観劇することが決まったのは、ほんの数日前であった。チケットは母が仕事の関係でもらったもので、記事を書く取材もかねての観覧を同僚とする予定だったそうだが、向こう方の都合やらで延期になってしまったらしい。しかも母は案の定とでも言うべく別の仕事が立て込んでいて今日も泊まり込みであり、とても演劇を観に行く時間などなく、対照的に毎日部活やサークルにも入らずに暇を持て余している私たちに回ってきたというわけだ。
「じゃあ試しに周りの人に聞いてみようかな」
「やめておきなさいよ」
「でもそっか。そんな有名だったんだ、この話。主人公の女の子がひたすらモテまくるだけなのに、よく昔から語り継がれているね」
「身も蓋もないことを言うわね。でもまあ人は昔から単純に欲望に忠実で都合の良い話を好んでやまないということかもしれないわね」
「気持ちはよく分かるよ。私ももう少し灯ちゃんが私に甘えてくれてもいいのにって常日頃思うのは少し贅沢な考えだと思っているし、こういうのを見ると私はまだまだ謙虚な方だと思わされるね」
「でもひょっとしたら、人の願いに大小はないのかもしれないわね。ほら、劇中でも王子が言ってたじゃない。『誰もが自分の思うような世界であってほしいと願うのに、誰もが完璧に満たされることがない。しかしそのことこそが真に均衡が保たれたこの世界の理を示すものなのではないか。またそういった意味で、この世界に生きる人間は皆、常に平等である』」
「おお、すごい。よく覚えているねえ。身振り手振りもバッチリだし」
「いや、これはちょっと興が乗ってしまっただけよ」
いつの間にか自分がその口ぶりだけでなく身振りも再現していたことに気付き、赤面する。周りからも、ほんのわずかだが視線を感じた。
「まあ、それを王子が言うことで、恵まれた自身の境遇を理解していないという意味で世間知らずなところが見受けられ、後半ではそういうことをおいそれと口にしないようになり、つまりは彼の内面の変化、もしくは成長も分かるわけだけど」
私は早口でまくし立てるが、「へえ、そうなんだ」という由美の気の抜けた返事を聞き、うっかりまだやっていない後半部分の話を口にしてしまったことに気付き、口をつぐむ。いくら有名なお話といえども、マナーとしてはあまり褒められたものではないだろう。
「でもあの演じている役者さんたちってホントに凄いね。ただ台詞を言うんじゃなくて、歌いながら踊りながらやっているのに息一つ乱さないでしょ。あと、着替えもすごく早いよね。次のシーンに移るときに一度舞台袖に戻ったと思いきや、また別の衣装で出てきたときには感動したよ。私もあれくらい早く着替えられたら朝、学校に遅刻しないで済むかもしれない」
「また妙なところに感動したのね。きっとああいうのも手順があって舞台袖で何人も手伝って早着替えするのでしょうけど、そういうところもみっちり打合せして練習しているのでしょうね。何事も入念な準備が大事ということに他ならない。例えば夜寝る前に、明日の着替えを出しておくといいんじゃないの。もしくは目覚まし時計をもっと沢山用意しておくとか、そもそも早く寝るようにするとか」
「それはちょっと難しい相談だねえ」
「そう言うとは思っていたけど」
「なんか目覚ましの音で起こされるのって私苦手なんだよね。その点、あの人たちは目覚まし鳴らさずにちゃんと起きられてすごいね」
「それは劇だからでしょ」
私は的外れな発言にため息をつく。
それぞれお手洗いを済ませてから、私は由美に尋ねる。
「まだ再開するまで時間あるけど、どうしようかしら。このまま席に戻ってもいいとは思うけど」
「んー、そうだなあ。せっかくだしちょっと散策しよっか。着いたときは開園まであまり時間がなかったから見られてないし」
そう言うと二人で歩き始める。
私たちが今いるのは一階のロビーであり、ガラス張りの壁には上映中の劇のポスターが一面に貼られている。タイトルロゴの少し上に、周りが暗い中で主役の女性だけがスポットライトを浴びており、薄汚れた使用人専用の服を着た彼女は儚げに空を仰ぎ、その真っ暗な空に目鼻のくっきり立った王子の横顔が映っている。
近くには私たちは何も預けていないが扉のすぐそばに受付とクロークがあり、さらにその横には開園祝いのスタンド花が飾られている。また、クロークのすぐ脇ではブランケットを貸し出していることが案内板に記載されていることなど、新たな発見もあった。
そこから奥にある階段を上がると二階のロビーに行き着く。先ほど化粧室に向かう際にもちらっと見えたが、グッズ等が置かれた売店とプログラム専用売り場がある。グッズとプログラムが別の場所で売られている理由は知らないが、それほど珍しいわけでもないようだ。今は観劇の小休憩中ではあるが、それなりに人だかりがあり、レジにはちょっとした行列が出来ている。おそらく帰り際が最も混むし、売り切れてしまう可能性もあるので先に買おうという人がいるのだろう。映画の上映前に限定グッズを買ってしまうことも多々ある私にはかなり共感できる話だ。
するとそこでグッズ売り場に愛の姿を見つける。
「愛ちゃん」
由美が声をかけると、愛もこちらに気付いた。
「あれ、二人とも来てたんだ」
「ちょっとお散歩してたの。何か買うの?」
「んー、何となく見てただけ。プログラムはもう買えたし」
愛が手提げ袋を軽く持ち上げてみせる。
「灯はまた例によって会場限定グッズでも買い漁るつもりなの?」
「まるで私が節操のない人みたいな言い方しないでよ。たまたま欲しいものが限定なことが多いだけで、限定だから買っているわけじゃないの」
「似たようなものじゃない」
愛が鼻で笑う。
「まあそれはそれとしてさ、灯ちゃんは何か買いたいものとかある?」
「うーん。そうねえ、今日はあんまりお金持っていないし、よっぽど心惹かれない限りは買わないでしょう……ね?」
「灯ちゃん?」
由美は私が言い淀んだことを不思議に思ったのだろう。
「いえ、何でもないわ」
だから私はとっさに誤魔化した。
「いやあ、凄かったねえ」
私たちは客席から立ちあがり、まだ興奮の冷めない様子の人々が流れる通路に入るのを待っていた。
「そうね。まさか王子と二人で駆け落ちすることになるなんて。元の話と違うのはさることながら、それがむしろ正史だったかのような熱い展開だったわ。国王様は、世間体的に二人の結婚を許すわけにはいかず、そして本心は主人公のことを諦めきれていないんだけど、それでもその気持ちを押し殺して黙認したところは本当にグッときたわね」
そういう私もまた同様に熱弁する。
「そうそう。あの物悲しそうながらも痛々しく笑顔を浮かべる演技は、こっちまで辛い気分にさせられたもんね。私なら間違いなく王子をぶん殴って牢獄にぶち込んでおくなあって思っていたけど、あれを見てちょっと考えを変えさせられたよ」
「まあ国王様も途中まではあからさまに息子に対して嫌がらせをしていたものね」
「そうそう。主人公に嫌わせるために、プレゼントのために用意していた真珠のネックレスをいかにも安っぽそうな紛いものとすり替えていたのにはちょっと笑っちゃったけど。わざわざ家来の人たちにいかにも安そうなのを買わせて、どれが一番がっかりするか選手権まで始めるぐらい散々悩んで決めたのに、主人公の子はむしろ自分には不相応なぐらいだって喜んじゃっていたし」
「王子様も困惑していたけど、喜んでくれたからまあいいかって笑ってたものね。国王様に限らず登場人物たち皆が人間らしさというかどこか可笑しみがあるから憎めないし、心を動かされるのかもしれないわね」
「二人とも行くよ」
愛は観終わったばかりだというのに、普段と変わらずむしろわずかに気怠そうにさえ見えるのだが、別につまらないと思ったからというわけではなく、大体いつもこんな感じである。
「愛ちゃんはどこが面白いと思ったところあった?」
灯が尋ねる。
「うーん、面白いっていうか気になったのはあれかな。やっぱり王様とかの衣装ってかさばるし重そうだし暑そうだし、あの格好で歌って踊るのって相当体力要るだろうなあって」
「劇の感想で、それが初めに出てくるってどうなのかしら」
私はこういった劇や映画なんかを鑑賞する際はその話に熱中して入り込むが、愛はその真逆とまではいかなくても熱くなったりすることはほとんどない。ただ、だからといって楽しめないわけではなく、むしろ家では私が借りてきた映画などを観ているときに、気付けばソファーや床に寝転がってアイスを食べながらもしくはファッション雑誌をめくりながら観ていることはよくあり、適当に流し見しているのかと思いきや意外と内容までしっかり把握していたりする。楽しみ方は人それぞれということなのだろう。
そんなこんなで私たちは客席を出て、ロビーを歩いていく。
「灯ちゃん、大丈夫?」
由美がそう言う理由は、もちろんこの溢れんばかりの人混みのことだ。
「ええ、平気よ。ここを出るまでだし」
「灯のそれ、ホント昔から変わらないわね」
「これでも少しずつ克服しているのよ、たぶん」
私は周囲の人いきれにあてられ、思わず眉をひそめてしまう。
「まあまあ無理しないで、灯ちゃん。私の手でも握ったら? それとも腕に掴まってもいいよ。何なら私が王子様みたいにお姫様抱っこで連れてってあげようか」
私は何も返事をしないでおく。今は感情を上下させることなくただ歩くことにだけ意識を向けたいという気持ちもあった。
「うわっ、売店も混んでいるね」
「そうね。やっぱり帰り際はかき入れ時なんでしょうね。観終わった直後でまだ興奮の冷めていない人も多いわけで」
「確かに良い話だったりすると、何かその作品にちなんだものが欲しくなったりするよね。マグカップだったりキーホルダーだったりパンフレットだったり……あっ、そういえばさ」
そこで由美が何かを思い出したように私の方に振り向く。
「何?」
「劇の合間にあった休憩中に売店行ったでしょ。あのとき、話していた途中で何かに気を取られていたように見えたけど、もしかして何か欲しいものでもあったの?」
「えっ、何のことだっけ」
私は今までずっととにかく早く外に出たいとしか思っていなかったが、そこで先ほどのことを思い出す。
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
「ふふん、これは嘘をついている顔ですねえ」
由美がにやけながら言う。
「嘘じゃないわよ」
実際、嘘ではなかった。
「ホントに? 素直になったほうが良いんじゃないの。それともさっき愛ちゃんに言われたこと気にしているの。散財しがちだっていう」
「いや、本当に違うから。それよりも後ろも詰まっているから早く出たいんだけど」
「ああ、そうだよね。ごめんごめん」
由美は私の顔色からも相変わらずあまり気分がよろしくないことを察して謝ってくる。
「いえ、私の方こそごめんなさい」
私も気分が良くないせいでつい冷たい反応をしてしまったことを詫びつつ、そのまま売店を素通りして階段へ向かった。
私と愛は劇場の出口を出てすぐのところに立っていた。由美は出る直前、お手洗いに行きたいと言ったので、とりあえず先に外に出ていたのだ。
「あー、お腹減ったなあ。何より喉もかわいたし、早く飲みたいわ」
「姉さんはもうそっちに気を取られているのね」
「まあね。今日行くところスペイン本場から取り寄せているお酒があるって聞いているし、私は銘柄とか全然詳しくないけどシェリー酒なんかは有名よね、あとはワインも。リオハとかリベラ……名前は忘れたけどその辺は世界でも有数のワインの銘醸地で、特に赤ワインは香り高いエレガントな舌触りなんだとか。さすがにあんまりお高いものには手が出せないけど、それでも一度飲んでみたかったのよね」
愛は急に饒舌に語り出す。
「結局、今日はそれが一番の目的だったわけだ」
まさに花より団子、というより花より酒を地で行く反応である。今日もさしずめそちらの方がよほど楽しみだったのだろう。
「料理も美味しいって評判だから安心して。スペインの肉料理なら子羊のグリルとか塩胡椒とハーブで風味のついたラムチョップなんかもいいわね。ああ、楽しみねえ」
「私はお酒との相性なんてどうでもいいんだけど。とにかく、飲み過ぎないようにしてよ。どうせ大丈夫なんでしょうけど」
ときに例外もあるが、一晩中飲み続けても平気な愛がたった数時間で酔うはずがないことは周知の事実だ。
「それにしても遅いわね、由美。やっぱり混んでいるのかしら」
私は腕時計を確認しながらそうつぶやく。
「まさかアンタ、気付いていないの」
すると先ほどからお酒に思いを馳せていた愛が、意外そうに言う。
「えっ、何をよ」
「いや、だから由美ちゃんがお手洗いって言ったのは一人で戻るための口実だってことよ」
「なんでそんな口実が必要なのよ」
「アンタのそういうところ、ホント変わらないよね。目的は私も分からないけど、たぶんアンタが人混みにいると気分が悪くなるからって気を遣って一人で行ったんじゃないの」
「それならそう言えばいいのに」
「お手洗いに行ったついでにちょっと道草した、っていう体にするつもりなんでしょ。そうすればアンタが申し訳なく思うこともないし。そこまで含めての気遣いなのよ。普段本を読んでいるならそれぐらい考えられるでしょ」
本を読んでいれば云々はともかく、愛の言うことは当たっているのだろう。
「由美ちゃんが日頃からアンタに苦労するのが良く分かるわね。なんかこんなことちょっと前にも言わなかったっけ」
「言われたわね」
私も認めざるをなかった。由美も以前より少しずつ変わりつつあるだけに、私自身成長しないといけないとは思っているが相変わらずの鈍感さであり、さっきから情けない姿を見せてしまったことも相まって気落ちしてしまう。
「まあ、でもそんなに落ち込む必要もないんじゃないの」
しかしそこで愛は軽い調子で言う。
「友達なんてそんなもんでしょ。友達に限らず大切な人には、なるべくハッピーでいてもらいたいから、ときには気を遣うことだってあるわけで。ほら、今日の劇でもあったじゃない。王様は主人公の幸せを願って、自分の心を押し殺した。それに、あとで分かったけど主人公が王子様からもらったすり替えられたネックレスを喜んでいたのも王子様に気を遣ってのことだったでしょ」
「いつものことだけど、姉さんって見てないようで割とちゃんと見ているのよね」
「まあね」
愛は得意げに胸を張る。
「でも、もしかしたらそういったことはむしろアンタたちから教えてもらっているのかもしれない」
いつになく真面目なことを言うので、私は思わず愛の顔をうかがってしまう。すると愛は私の頭に手を載せて、ほんの少しだけ口角をあげて笑う。
「おーい。灯ちゃん、愛ちゃん」
すると出口から出てきた由美がこちらに手を振りながら戻ってくる。そしてもう片方の手には、今日観劇したミュージカルのタイトルのロゴが入った紫色の買い物袋を持っている。
「えへへ、ちょっと寄り道しちゃったよ。ごめんね」
やはり愛の言う通りであった。
「あれ、なんで愛ちゃん、灯ちゃん撫でているの」
「ん? ああ、そうね」
そう言うと愛は鞄を肩に掛けて、由美の頭の上にも手を置く。
「ええ、なになに? どういうこと?」
「私のひねくれた方の妹が、今日は少しばかり可愛いかもしれないと思っただけよ」
「えへへ、そっか。なるほどねえ」
何一つ具体的な答えが返ってこなかったにもかかわらず、由美は嬉しそうであった。
「よーし。今日はお姉ちゃんの奢りだから何でも頼んでいいわよ。私のおススメの銘柄はね」
未成年にお酒を勧めてくるダメな姉をあしらいながら、私たちは店の方に向かって歩いていく。
「そうそう、灯ちゃん」
そんな中、由美が私に話しかけてくる。
「これ、灯ちゃんに」
がさごそと買い物袋を漁ってから取り出したのは、箱詰めされたマグカップだった。
「ほら、灯ちゃんが気にしていたでしょ。柄も可愛かったし私もお揃いの買っちゃった」
由美は先ほどの愛と同じように得意げな顔で私を見てくる。私は一瞬だけ戸惑ったが、笑顔を浮かべる。
「ありがとう、由美。あとでお金は出すわ。由美の分も一緒にね」
「えっ、良いの」
「買って来てくれたお礼にね。あと、さっきは余裕がなかったとはいえ、あんまり良くない反応しちゃったし」
「そんなの気にしなくて良いのに。それに何より、灯ちゃんの望みを叶えるのが私の務めだからね。隠し事をしようったって、全てお見通しなわけよ」
「そうね。由美にはかなわないわ」
私はそう言いながら、有難くそのマグカップを受け取る。由美は上機嫌で愛に話しかけに行く。
私は受け取ったマグカップを眺める。
これはこれで可愛いと思うが、実は私はこれを欲しがっていたわけではなかった。
あのとき見ていたのは、このマグカップの隣にあった白いお皿だ。主人公の女の子が自分に懐いてくれるからとなけなしの自分の食べ物の中から餌としてあげていた黒猫が描かれていたものなのだが、その猫の顔がなんだか由美に似ていると思い、もっと言えば、餌を無邪気に美味しそうに食べている姿が妙に由美と重なって見えてしまってなんだか可笑しく思えてきてしまっていたのだ。しかしそれを由美に言うわけにもいかず、誤魔化したのだ。
少し違うかもしれないが、これは気遣いのお返しになっているのだろうかと私は考える。もちろんこれを恩着せがましく考えるのはどうだろうかと思うし、それに何より、由美からもらったものがたとえ何であれ、嬉しくないはずがない。それは劇で、主人公の女の子が言っていたようにだ。
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