第19話 家庭科室

「というわけで、できあがったら準備室に来てください。はい、じゃあ皆、頑張って。私はちょっと仮眠……じゃなかった。えーとなんだっけ、まあとにかく決して睡眠ではないけどそれらしきものをとってくるんで、よろしく。あーねむい」

 家庭科を担当しているいつも眠そうな顔をしている水橋先生は、そう言うと準備室に引っ込んでしまった。

「いつものことながら適当だな」

「堂々と職務怠慢を口に出来る度胸もすごい。PTAで問題になるどころか、万が一のことがあったらニュースになりそうだ」

「でもうちの学校の先生って皆あんな感じじゃない」

「変な人多いもんね。だから問題になっていないのかも」

 私のすぐそばで薫、一花、恵がこの学校の教師陣のおかしさについて話している。そして私もその話に異論はない。自分たちに割り当てられた調理台に向かいながら話を続ける。

「でも家庭科の授業でクッキーと蒸し饅頭づくりって、正直ちょっと普通すぎるというか拍子抜けだよね。てっきりもっとすごいもの作るのかと思ってたよ。ふかひれスープとかジビエ料理とかさ」

「そんなこと言って、薫って料理出来るの」

 私は思わず尋ねる。

「味見なら任せて」

 薫は得意げに答える。

「灯はこういうの、そつなくこなしそうだよな」

 一花が言う。

「お菓子作りはあんまりやらないけど、料理は昔からお母さんが仕事で帰りが遅くなる日が多かったから自然と覚えたわね」

「由美ちゃんに振舞ってあげているんでしょ。愛妻弁当ならぬ、愛妻ご飯。あなた、お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも……って、きゃー」

「由美も料理はできるわよ。だから二人の時は協力しているし、この前も私が風邪ひいたときにはおかゆやスープを作ってくれたわ」

「そうなのか。まあ由美ちゃんって基本的にハイスペックだもんね。最近まで携帯持っていなかったから機械苦手なのかと思っていたけど、そうでもなかったみたいだし」

「灯が好き過ぎることを除けば、ほぼ完璧に近いからな」

「まあ、そうね」

 一花の言葉に私は一応頷く。

「でも薫が苦手だとしても、他の三人で補えば大丈夫じゃないの」

「あれ、灯知らない? 私たち、同じ班じゃないよ」

「えっ、そうなの」

「先生が決めたんだって。朝、教室の掲示板に張り紙してたけど灯たちは遅刻ギリギリだったから知らなかったか」

 恵が言うように、今朝もいつも通り由美が寝坊したのでそんな感じだ。

「じゃあどこに行けばいいか、先生に訊いた方がいいわね」

「いや、その必要はないよ」

「どうして?」

 一花に尋ねる。

「だって、灯は薫と同じ班だから」

「そう。とぅぎゃざーみー」

 薫がまたしても得意げに親指で自分を指さして言う。

「灯」

 一花はいつになく真面目な顔をしていたので、私は少し驚かされる。

「私と恵は違う班だけど、何かあったら呼んでいいからな。気は強く持つんだぞ」

「何よ、それ。何か冗談?」

 私は笑ってしまうが、一花は少しも笑っておらず、何故かその目には憐憫の色合いすら見受けられた。一花はまだ口を開いて何か言おうとしたようだが、「一花ちゃん、私たちの調理台こっちだよ」と恵に呼ばれてそのまま行ってしまう。

「よろしくね、木下さん」

「よろしくー」

「ああ、うん。よろしく」

 調理台まで来ると先にいた二人に挨拶される。私たちの班は四人組で、薫の他には小園さんと向井さんという、私とはほとんど話したことのない子たちが一緒のようである。

「木下さんってお菓子作りとか得意?」

 さっそく小園さんにそう尋ねられた。

「得意というほどじゃないけど、別に苦手意識もないぐらいかしらね」

 すると二人は顔ほんの少しの目配せをしたかと思うと、「そ、そうなんだ。じゃ、じゃあさ、私たちはこっちで餡子入りの蒸し饅頭作るから、木下さんたちはクッキーの方を作ってもらってもいいかな」と口早に言う。

「別にいいけど、作業工程としてはそっちの方が大変そうじゃないかしら」

「いや、大丈夫。あんこは市販の簡単にできるやつだし。むしろそっちの方が……いや、とにかくこっちは平気だから」

「そう」

 すると二人はそそくさと準備に取り掛かり始める。確かに今日の家庭科の授業は一コマしかなく、それなりにテキパキやらなくては終わらず、だからこそ二人は急いでいるのだろうとこの時は思ったのだが、その真の理由を程なくして分からされることになる。



 お店で売られているようなものと同じくらいに美味しく作るのは難しいだろうが、クッキー作りの手順自体はさほど複雑でもなく、むしろかなり単純な部類だろう。だから私も楽観的に考えていたのだが、それはチョコクッキーよりも遥かに甘い考えであった。

「塩と砂糖を間違えるなんて、ありがち過ぎて逆にあり得ないわよ」

 それが何度目の注意だったか、私にはもう分からない。

「いやあ、うっかりしてさ。でも意外とありじゃないの。私、塩の入ったクッキー食べたことあるよ」

「レシピがあるんだから、その通りにやってほしいんだけど」

「でも、ときにはアドリブってやつも大事じゃない? この前、葉ちゃんが教えてくれたけど、どこかの凄いジャズミュージシャンも言ってたらしいよ。人生なんて演奏と一緒で即興でやってのけるぐらいがちょうど良いんだって」

「生き方の話はともかく、お菓子作りにアドリブはいらないのよ。大抵は失敗するのは目に見えているし、こういうレシピはそれ相応の理由があってテンプレートになっているの。ボウルに入れる前に気付いて良かったわ」

 私が息をつく間もなく、今度は匙を均すことなくその砂糖を入れようとするので慌てて止める。

「えっ、これ砂糖だよ?」

「そうじゃなくて、何のために分量スプーンを使っていると思っているのよ。すべての物事の結果には全てそれ相応の原因があるように、材料の分量によってほとんど全てが決まってしまうのよ」

「ええ、でもさ。砂糖とか沢山入れた方が甘くて美味しそうじゃない」

「いや、入れすぎると焦げるから。というかこんなこと小学生でも知っているでしょ。ねえ、二人とも」

 私は薫を止めるべく、思わず小園さんたちに同意を求めるが、二人は離れたところで楽しくお喋りをしている。ひょっとすると、いや、ひょっとしなくてもおそらく私に薫を任せるつもりだったことを悟った。

「さすが灯。まさに夜の海における灯台のような存在だね」

「なんか微妙に悪意ない? そのたとえ」

「ないですないです」

「ならいいけど。じゃあこのボウル泡立て器で混ぜてくれるかしら」

「合点承知の助」

 そう言うと薫は混ぜ始めるが、明らかに力の入れすぎで勢いづき「もうちょっと慎重にね」と私が言ったときには、「あっ」という声と共に生地が調理台やエプロンに飛んでいた。

「いやあ、ごめんごめん。次は気を付けるからさ」

 そこで再びボウルを手に取ろうとしたが、手を滑らせてボウルが転がり調理台から落ちそうになったところをどうにかお腹で食い止める。

「セーフセーフ」

 薫は両手を平行に振る仕草をする。私はその様子を見て、ほんの少しだけ唖然としてからそれでも口を開く。

「薫って思った以上にポンコツなのね」

「ほんのちょっと苦手なだけだって」

 薫は明るくそう言うが、さすがに少しは申し訳なく思ったのか、先ほどより元気がなかった。私はそこで自然と息をつくと、手を叩いた。

「まあできないものは仕方ないわ。いい、私がやるのをちゃんと見てて。こうやってボウルをしっかり掴んで、もしくは抱えるようにするのよ」

 そう言うと私は左脇辺りにボウルを抱え、泡だて器を持つ。

「おお、できる人っぽいね」

「それであまり泡立てすぎないように、でもちゃんと混ざるようにまんべんなくかき混ぜる。まあそれなりの時間やればそんなに意識しなくても大丈夫だと思うけど。はい、やってみて」

「えっ、まだ私やっていいの?」

「当たり前じゃない。一人でサボろうとしたってそうはいかないわよ」

「いや、別にサボろうとはしていないよ。ただ、ちょっとお茶を飲みながら目を閉じようとしていただけで」

「はいはい。いいから、やってみなさい」

「どうしても?」

「どうしてもよ。私はミントと板チョコを刻まないといけないわけだし」

「えっ、ミントなんか入れるの。ただの草じゃん草」

「わざわざ家庭菜園で採れたやつの中から厳選して持ってきたのよ。ただの草じゃないわ。ハーブでもいいかもしれないと思っていたんだけど、やっぱりチョコを入れるからにはミントが無いと始まらないでしょ」

「灯ってたまに変なところにこだわりがあるよね」

 薫が笑いながら言う。

「だって先生も好みで入れていいって言ってたじゃない」

「まあいいや。じゃあそっちやっててよ。私もほんの少しだけ頑張るからさ」



 それからしばらくすると、同じ班の二人が心なしかおずおずと様子を見に来た。

「そっちはどんな感じ?」

「私たちはもう蒸すだけだから手伝えることあるかなって」

「いえ、大丈夫よ。私たちもあと焼くだけだし」

「えっ、ホントに」

 小園さんたちは妙に驚いている。

「灯、このミントの葉っぱを生地の上に載せればいいんだよね」

 そこに薫がやってきて尋ねてくる。

「ええ、そうよ。ミントにはうっすらと余っている卵白をヘラか何かで塗るんだけどできるかしら」

「やってみる」

 そう言うと薫はすぐに戻っていった。

「木下さん、すごいね」

「えっ、何が?」

 私は本気で言葉の意図が分からずに聞き返す。

「前田さんを手懐けられるとは思わなかったもの」

「手懐けるって、薫は騒がしくても猛獣ではないと思うけど」

「いや、私たち前田さんと同じ中学だったんだけど、家庭科の授業でその、なんていうかまあ色々あってさ。仲良いみたいだし、料理できるって言ってたから木下さんに任せちゃったんだけど、ちゃんとやれててびっくりしたよ」

「そうそう。一体、どうやったのさ」

 そこで初めて、一花が何かあったら呼んでと言っていた理由も分かった。

「そんなに不思議がられても私は特に何もしてないわよ。強いて言えば、本人が頑張ったんじゃないかしら」

 私は真面目な顔つきをしている薫の方を見やってそう言った。



「よし、これで出来上がりね」

 私たちだけでなく他の班のクッキーも一緒に並べられたオーブンの扉が開くと、香ばしい匂いが漂ってくる。それらをキッチンシートに載せて自分たちの調理台まで運ぶ。

「ミントにレモン、あとチョコの香ばしい匂い。美味しそうだねえ」

「そうね」

 それほど数が多いわけではないが、チョコミント、ミントレモン、チョコレモンの計三種類を作った。それをいくつか取り分けてさらに他の二人が作った蒸し饅頭と合わせて先生に提出しに行くことになっており、つまり余った分は自分たちで食べて良い。

「じゃあ、さっそく」

「さすがにまだ熱いでしょうに」

「あちゃ」

 さっそく薫は熱がる。それと同時にキッチンシートも滑るが、私が手で抑えられた。

「言わんこっちゃない。ほら、冷やして」

 私は薫の手を引いて水道のそばに連れていく。

「いやあ、思いのほか良さげでテンション上がっちゃってさ」

 薫がはにかみながら言う。

「私さ、中学の家庭科の授業で、色々やらかしちゃったことがあってさ。その時は周りに散々迷惑をかけたあげくに、最後は作ったもの全部ひっくり返しちゃってさ」

「それは、大変だったわね」

「だから今回は良かったよ。灯ちゃんが押さえてくれたし」

「別に押さえなくても落としはしなかったと思うけど」

「まあそうかもしれないけど、だからさ、その……ありがとね」

 薫は照れ臭そうに言う。

「何よ、大げさね」

 いつにない薫の様子に、何故か私も少し照れてしまう。

「ほら、作っているときもめげずに色々教えてくれたでしょ。あれ、結構嬉しかったからさ」

「そ、そう。それならまあ良かったわ」

 私は言葉に詰まりながらよく分からない返答をしてしまう。そんな私を見て、薫は気の抜けたように笑った。

「由美ちゃんが灯のこと可愛いって言っているのもちょっと分かる気がする。すぐ赤くなるし、分かりやすくて安心するぐらい」

「わ、私、レポートまとめてくるわ。忘れないうちに書いておいた方が良いし」

 そう言って私はその場を逃げ出そうとした。

「あー、じゃあ私の分も書いといて」

「自分でやりなさいよ。せっかく頑張ったんだから」

 薫はほんの少しだけ動きを止めて考えこむように仕草をみせてから、やがて口を開いた。

「まあ、それもそっか。待ってよ、私も一緒に戻るから」

 そう言って薫は蛇口を閉めて手を拭きながら、こっちに駆けてくる。

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