第18話 古本屋

「ねえ、灯ちゃん」

「ん?」

「ねえねえ、灯ちゃん」

「んー」

「ねえねえねえ、灯ぽん」

「ん……」

「灯ちゃん灯ちゃん灯ちゃん灯ちゃん灯ちゃん灯ちゃーん」

「ん……」

「全く聞いていないね、これは」

 由美に目の前で手のひらをかざされたことで初めて私は顔をあげる。

「灯ちゃんってやっぱり変わっているよね。大方の女子高生は、お小遣いを小説や映画雑誌に費やしたりはしないし、本の山を前にして目の色を変えたりしないもん」

「それを言うなら、携帯を携帯していない女子高生の方がよほど珍しいと思うけど」

 私はそこでようやく由美に気付き、反応してみせる。

「ふふん」

 由美が得意げに鞄の中からタブレット端末を取り出して、私に見せびらかす。

「あら、いつの間にそんなの持っていたの。でもなんだか画面がやたら大きくないかしら。ポケットに入らないでしょ」

 私は素直に感心するが、一方で指摘する。

「これで良いの。だって」

 由美が電源を入れるとそこには私の顔が大きく映し出されたので、「ちょっと、何よこれ」と声をあげてしまう。

「本屋では静かに。本を読んでいる人に迷惑でしょ」

「本屋は本を読む場所ではないと思うけど、うるさくしてはいけないのはその通りね。いや、そうじゃなくて、何なのよそれ」

「この前の寝顔と違って、昔海辺に行ったときにちゃんと許可をとった上で撮って大事に保存していたやつだからね。いやあ、見てよこの横顔、この可愛さ。こんなのもう人類の宝であり、神の与えし奇跡の産物だよ。灯ちゃんを撮った写真はどれも最高で最強だけど、その中でもお気に入りの一枚だね」

「普段よりも写真写りが悪くはなかった記憶はうっすらあったけど。まさか、そのタブレットで周りに見せびらかしたりなんてしてないでしょうね」

「そんなことしないよ。むしろ私は独り占めしたいんだから、いつも言っているでしょ。でも、灯ちゃんと一緒にいられない授業中に机の上に置いて眺めていたら、先生に没収されそうになったことはあったね。そのときは皆の前で熱弁してどうにか事なきを得たけど」

「少なくとも私にとっては全く事なきは得てないわね」

「まあまあ、それはともかくとしてさ。買うものは決まった?」

「んー、実は目当ての本は無かったのよね。もう出ましょう」

「もういいの」

「あんまり待たせるのも悪いじゃない」

「私は別にいいのに」

 由美はそう言いながらもその声は先ほどより少し華やいでいる。

「あっ、でも私も気になる本があったかも」

「何の漫画かしら」

「灯ちゃん。私が漫画しか読まないと思っているでしょ」

「違うの」

「違わないけど。でも私だって、文字だけで挿絵のついていない本ぐらい読めるよ。例えばほら、この辺にある本だって」

「それ、洋書よ。しかも学術系の」

「ぐう」

 ぐうの音は出せることを示したかったらしい。

「いや、責めているわけではないのよ。実際、文字だけがぎっしり詰まっているものって読みにくいと思うのが普通だと思うし、私だって豆粒みたいな字が改行も行間もほとんどない本を読むときは疲れてしまうわ。昔の文庫本はそういうのわりとあるし」

「いやあ、でもなんかさ、やっぱりこうイメージ的に絵のない本を読んでいる人は皆賢い気がしない? いや、実際私より頭が良いのは間違いないだろうけど」

「でも前に見たどこかのネット記事か何かで、会社の社長さんとかって、すごく読む人もいる一方でほとんど読まない人もいるって書いてあったわよ。仕事ができることと頭が良いことが合致するかは分からないけど、少なくともクレバーという意味では当てはまる気がするわ」

「でもさ、どちらかといえば社長さんより秘書の人や副社長みたいな実務に関わることの多い人が賢いんじゃないの。ほら、こう参謀役というか。眼鏡をスチャってしてそうな」

 由美は右手の人差し指を鼻の付け根辺りで上げてみせる。

「言われてみればそうかもしれないわね」

「そうだよ、きっとそう。ほら、眼鏡かけているイメージがあるのは本を読みすぎていると思われているからでしょ」

「昔の洋画に出てくるステレオタイプの日本人みたいな」

「ああ、あの人たちなんでか分からないけど大抵カメラぶら下げてるよね。シャツもパンツにインしていたり」

「あれはあまり良くない流れから来ているかもしれないけど、実際そういうイメージをされがちなことはあるわよね。黒人は皆ラップかゴスペルを歌っていて、すごくノリが良いとか」

「確かに大人しくて部屋に引きこもりがちの黒人さんはあんまり見ないかも。実際にはいるのかもしれないけど」

「それで、由美の気になってた本は?」

「えっと、なんだったっけ」

「忘れたの?」

「まあそういうときもあるでしょ」

「それにしても、立て続けに本屋が二軒も無くなってしまったのが残念よね」

「去年までは、駅前に来ると灯ちゃんは本屋をハシゴしていたもんね」

 本屋を出た私たちは下の階に降りていくエスカレーターに乗りながら話す。ここは駅ビルの上階に入っている本屋であり、広さもそこそこで品ぞろえも悪くはないが、私は人があまり来なさそうな店内が少し暗くて隠れ家のような雰囲気が好きなので、その点で言えば去年まであったところは二軒ともおそらく個人経営で店舗は狭くともそちらの方がよく行っていたが、おそらく人があまり来なさそうな隠れ家だったからこそ潰れてしまったのだろうことは容易に想像できる。

「この辺りの再開発も順調に進んでいるみたいだし、諸行無常の沙羅双樹ですな。最近は本を読んでいる人もめっきり見かけなくなったよね。ほら、電車内とかでも新聞や本を開いている人なんていないでしょ」

「少し前は活字離れだなんだと言われていたみたいだけど、今ではそれが当たり前になっているわね。携帯端末の方が軽くて見やすいし、動画やらゲームやらの方が少なくとも視覚的な情報は圧倒的に多いわけで、特に活字に固執する必要は全くないとも思うけどね」

「でも、灯ちゃんとしてはちょっと寂しいんじゃないの」

「まあ、あれよね。単純に本が読まれなければ、出版社なんかは商売にならなくて、どんどん販売部数の減少や業界全体が衰退していくでしょうから、そうなれば私も新刊を読めなくなる」

「なるほど。大人の事情ってやつだ」

「ただ、私はどちらかといえば少し昔の本を探す方が好きなのよね。時を経てもなお細々とでも読み継がれているものは大抵面白いもの。だから、私としては本屋が無くなってしまうのもそうだけど、古本屋がこの辺りにないことの方が残念なのよね。隣駅にはあるけど」

 今どきはわざわざ出向かずとも通販で買おうと思えばいくらでも買えるが、あの独特の空気感や知らなかった本との偶然の出会いといったものが、私にとっては重要なのだ。

「あれ、でもさ」

 そこで由美がふと思い出したように言う。

「私、ちょっと前に駅のそばで古本屋見たような気がするよ」

「えっ、ホント? いつの話? どこの話? 駅って私たちの最寄り駅だよね?」

「待って待って、順番に答えるから落ち着いて。灯ちゃん」

「ああ、ごめん。つい前のめりになってしまったわ」

「まあいいけど。何ならもっと前のめりになってそのまま私に抱き着いてくれてもいいのに」

「それでその古本屋はどこにあるの」

「私の話、全く聞いてないね」

 由美はため息交じりにそう言うが、それはお互い様だろう。

「場所だけど、えーと、どこだったかなあ」

「じらさないで」

「いつになく灯ちゃんが迫真の顔でちょっと怖いんだけど」

「いいから」

「いや、ホントにうろ覚えなんだよ。でも、ここからそう遠く離れてなかったと思う。確か、お母さんがフライトから帰ってくる日に夕ご飯を外食で済ませようとして、灯ちゃんと遊んだ後に一旦家に帰ってからまた出かけたんだけど」

「ああ、そういえば先週あたりそんなこと言っていたわね」

「お母さんが思ったよりも遅くなって、その間暇だったから駅の周りをあてもなくぶらぶらしていた時に見かけたんだよね」

「じゃあ行ってみれば思い出せるんじゃないの」

「その可能性はあるね」

「行きましょう」

「今?」

「今」

「分かったけど、見つからなくても文句言わないでよね」

「それで、どの辺りの道なの? ああ、そもそも駅のどちらの改札かしら」

「ホントに人が変わったように積極的になるよね、こういうときの灯ちゃんは」

 由美は呆れた様子で肩をすくめてみせる。



「確かこの辺りだったと思うんだけどなー。この辺は道が入り組んでいて、よく分からないんだよねえ」

 私たちは駅前の繁華街から伸びている横道にいた。先ほどから何本もある細道に入っては行き止まりや別の大きな道に行き着いては戻ったりの繰り返しであった。

「由美、その時のことを鮮明に思い出すのよ。例えば、その時に何を考えていたとか、なんでその路地に入ろうと思ったのかとか、なんだったら聞き込み調査をしてもいいわね」

「今の灯ちゃんには迂闊なこと言えないなあ」

 すでにそれなりに歩いていることもあって、珍しく由美がげんなりした顔をしている。

「ああ、そういえばちょっと思い出したけど、その道に建っている家とか建物はなんか全体的に古びた感じだった気がする。この繁華街自体、わりと昔からあるからそういう建造物があっても珍しくはないんだけどさ」

「そうね、そのヒントだけではちょっと弱いかしら。もう一声欲しいわね」

「うーん、そうだなあ。頭でも叩けば思い出すかな」

「分かったわ」

 私は持っていた鞄を振り子のように揺らしながら振りかぶる。

「いや、待ってよ。冗談だって、冗談」

「なんだ、冗談ね」

「冗談が通じない灯ちゃんは、ちょっとめんどくさいよー」

「悪かったわね。でも私は、見つけるためにはどんな手段も辞さない覚悟よ」

「古本屋を見つけるのにそんな覚悟いらないでしょ、どう考えても」

「今のはさすがに冗談だけど、暗くなってきたから出来れば早く見つけたいわね。個人経営のお店であれば閉まってしまう可能性もなくはないし」

「でもそう考えると今日やっていないことだってありえるよね」

「さあ、さっさと行くわよ」

「もちろん灯ちゃんと一緒なら地平性の果てまでだって行くつもりだけどさ」

 由美がそう言って、また新たな細い路地に入ろうと足を踏みいれる。すると由美が「おっ」と声をあげる。

「なんかここ、通った覚えがある気がする」

「ホント?」

 私は思わず声を弾ませた。

「多分だけど。ほら、そこの青い瓦屋根の家とか古い感じあるでしょ」

「なるほど。これは期待できるわね」

「それに、通りからそんなに遠くは無かった気がするからもう少し行けば」

 由美はそう言いながら、少し早足で右に緩く曲がる細道を歩いていくので、私も遅れずについていく。なんだから入り込んでいくにつれて、確かに黒ずんだブロック塀やベニヤ板の壁、端の破れたポスターの張られた掲示板などが見受けられ、どこかノスタルジックな気持ちにさせられる。

「こんな道、あったのね」

 今まで少なからず冷静さを欠いていた私だったが、その雰囲気によってはやる気持ちが抑えられ、落ち着きを取り戻してきていた。

「でしょ。ずっと住んでいたのに全然知らなかったからちょっと驚きだよね」

「あとで家に帰ったらお母さんに聞いてみようかしら」

「灯ちゃんの家は昔からずっとここらに住んでいるもんね」

 二人で話しながら歩いていると、ほどなくして由美が何かに気付いて指を差した。

「あっ、あそこかな」

 由美が指を差す先に建っていたのは、二階建てのさほど大きくもない建物だった。正直に言えば、そこは店をやっているような趣はあまりなく、どちらかといえば何かの作業場やガレージのような感じである。しかし硝子戸の向こうには本棚が何列も連なっているのが見えるし、入口の文字が書かれているよろよろになった張り紙もある。

「これ、本当に入っていいのかしら」

「いいんじゃないの、たぶん」

 由美はあっけらかんと答える。

「まあ別に私は入らなくてもいいけどね。灯ちゃん次第だよ」

「そうね。入るわ」

 私は緊張しつつも、由美にたきつけられたこともあって奮起して硝子戸を引いた。立て付けがよくないのか少し詰まって力を入れなければいけなかったが、それでも開いた。

 二人しておずおずと店内に足を踏み入れる。

「それにしても、本が沢山詰まっているね」

「そうね」

 外からでも分かってはいたが改めてじっくり見てみると、床からわずか数センチのところから天井までびっしり蔵書が所狭しに並べられており、天井の方はどう考えても台が無ければ届かない。しかもそれが薄暗い店内の奥まで続いているのだから物言わぬ圧迫感があり、また古書店特有のあの本の匂いが私たちを包み込む。

「まるで本がこの建物を支えているみたいね。本棚を抜けば家が崩れ落ちてくるかもしれない」

「詩人ですなあ」

 冷やかす由美だが、すでに私はこの本の家に虜にされつつあったので気に留めなかった。

 実際、蔵書はかなり私好みで、すでに絶版になっていてもおかしくないものも多く、細かな字でびっしりと埋められた、しかもとこどころ掠れたり茶味がかり、ページとページがくっついているほどに古びているので、興奮を抑えながら慎重に触れなくてはならない。

「それにしても、なんか人の気配がしないね。お客さんも私たち以外いないみたいだし」

 私が夢中になって数十年前に一世を風靡した海外作家の本が並べられている棚を漁っていると、由美が声をかけてくる。

「それほど珍しいことでもないでしょう」

「でもレジと思われるカウンターにも誰もいなかったよ」

 いつの間にか由美は店の奥まで行って戻ってきたらしい。

「じゃあ二階かどこかにいるんじゃないの。一人で切り盛りしているとしたら席を外すこともあるでしょう」

「まあそれはそうなんだけどさ」

「そんなことよりもこれを見てよ、由美。確かこの本の初版って、少し前にネットオークションに出品されてちょっと話題になったはずよ。こんなところにあるなんてちょっと信じがたいわ」

「へえ」

 由美は全く興味のなさそうに返事をする。私はいささか不満ではあったが、それでも由美が付き合ってくれていることを思い出し、むくれる気持ちを引っ込める。それに何より、目の前の宝の山に意識がすぐに戻った。

「でもそう考えると値段が怖いわね。値札がついていないもの多いし」

 先程由美に見せたような特に古いものと思われる本にこそ値段がついていないようなので、いくら棚に置かれているといえど傷でもつけたらまずいように思う。

 それでも私はその後、数十分、もしくは一時間ほども経ったかもしれないがとにかくそれなりに長い時間、由美を待たせながらもどうにかお財布の中身と相談した上で、十冊程度買う本を絞ってからレジに向かった。

「いないわね」

「私なんかもう何十周も店内を回っているけど、誰も見かけなかったよ」

 由美が疲れた顔で言うので、今更ながら申し訳なく思う気持ちが出てくる。

「さっきも言ったけど、全く人の気配がしないんだよね」

「じゃあ呼んでみるわ」

 私は少しだけ声を大きくして、「すいませーん」とレジの奥の方に届くように言ってみる。しかし返事はない。試しに何度か同じように声を出すが、やはり何も返ってこない。しまいには由美も合わせてかなり大きくなってしまったが、それでも音沙汰がなかった。

「もしかすると今日は営業していなかったのかしら」

「その可能性はあるね。鍵を閉め忘れただけとか」

「うーん、仕方ないわね。今日は帰りましょうか」

「いいの?」

「残念ではあるけど、場所が分かっただけでも良かったわ。分かれば、また今度出直せばいいから」

「まあそれはそうだけどさ。ここまで来たら、もう逆に灯ちゃんには戦利品を持ち帰ってほしい気持ちもある」

 そうはいっても、外はもう日が落ちかけているし、もしかしたら何十分も待つことになってしまうかもしれないと考え、私は持っていた本をそれぞれ元々あった書棚に戻して店を出ることにした。



 翌日、放課後になると私たちはまたその古本屋に向かう。

「びっくりしたよ。いつもは私が迎えに行くのに、灯ちゃんの方から来るなんてさ」

 私ははやる気持ちが抑えられず、いつになく授業に身が入らなかった。なんとしても今日こそはあの宝の山を頂戴したい。

「ごめんなさいね、連日付き合わせてしまって」

「ううん、全然。むしろ灯ちゃんから来てくれて嬉しい」

 由美がまるで邪気のない笑顔で言う。

「それに今日はそんなに時間もかからないでしょ。私、今すごくパフェ食べたい気分なんだよねー。ファミレスとかでもいいからさー」

 それから変わり身早く、私にねだるように上目遣いで見てくる。

「もちろん今日は奢ってあげるわよ。古本屋教えてくれたお礼も兼ねてね」

「わーい、やったー」

 由美の嬉しそうな顔を見て、私も思わず笑みをこぼしてしまう。いつも明るくて無邪気な由美は私にとってはまさに灯りみたいな存在であり、それがなんだか今日は無性に愛らしく感じられるのは何故だろうか。

「じゃあ行きましょうか」

「うん」

 それから私たちは真っすぐ学校から駅に向かい、電車に乗って最寄り駅に降り立つと繁華街へ歩き出す。

「今日は昨日と比べるとなんだか人が多いね」

 私たちは昨日と同じように繁華街の大通りを歩いていたが、確かに夕方ということもあって人通りがあった。

「いえ、むしろ昨日が空きすぎているぐらい人がいなかった気がするわね」

「言われてみれば、灯ちゃんが人酔いする心配もなかったもんね」

「さすがに地元の繁華街ぐらいの交通量なら大丈夫よ」

「お祭りのときは酔っていたよね」

「それはそうだけど」

 毎年夏にやっている地域のお祭りは、近くの神社からお神輿が出たりするなどそれなりの盛り上がりを見せているが、私はその盛り上がりに乗れたことはない。小さい頃に何度か行った時も、すぐにへばって人の来ない路地で休んでいた。

 最初に異変に気付いたのは、私だった。

「あら?」

「どうかしたの」

 通りがかる途中にあったコロッケ屋さんの匂いに引き寄せられていた由美は、後方から話しかけられてくる。

「いや、この道だったはずなんだけど」

 記憶違いでなければここを入って行けばいいはずだ。しかしなんとなく違和感があった。由美もこちらにやってくると眉をひそめる。

「あれ、こんな道だったっけ」

 真新しい黒のコンクリートで打たれた道路に漂白されたような道路標識が描かれているし、両脇に建っているビルや住宅も同様に建てられてからまだそれほど経っていないようにしか見えない。

「間違えているのかしら」

「そうかも」

 試しにもう前後の路地も見てみるがやはりそれらは通った覚えのない道であった。

「どういうことなの」

 私は本格的に頭を悩ませ始める。まさか昨日の今日で、道も建物も全てが一新されたなんてことはあるまい。だとすると一体どういうことだろうか。

「とりあえず入ってみようよ」

「そうね」

 立ち止まっていても仕方がないので、小道に足を踏み入れる。

「覚えではそんなに歩かずとも見えたはずだけど」

「あっ、あれ見て」

 由美が指差している方を私も見る。

「掲示板ね」

「昨日見たときとは全然違うよ」

 由美の言う通りだった。昨日見たときはやはり街並みと同様に古めかしいものであったが、今私たちが目の当たりにしているのは明らかに最近作られたもので、銀色のフレームはまだ輝きを放っており、張り紙も色褪せてもおらず、つい数日前に貼られたばかりと思われる。

「ということは」

 その掲示板のすぐ先にあったガレージのような建物を探して目を遣る。するとそこにあったのは、

「車」

「カー」

「なんで英語にしたの?」

「ツーでしょ、そこは」

「はい」

 由美との珍問答はともかく、そこにあったのは二台の車が入った車庫だった。ガレージのような建物は本当にガレージとして使われている、と思ったのだが昨日見た時と比べると壁の色や材質も新しく見える。また硝子戸は無くて鉄のシャッターが上にあげられている。

「もしかして車の中に古本が売っているかもよ」

「そんなわけないでしょ」

 そう言いながらもつい覗き込んでしまう私もちょっとどうかしている。

「あのう、ウチの車に何か?」

 突然声をかけられたので、びくりと肩を振るわせてしまう。ガレージの奥から背の高い黒いシャツにジーンズ姿の女性が現れた。

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。ちょっと車体の美しさに見惚れちゃって」

 由美の方がすぐに反応する。実際、ガレージに置かれている二台の車は普通の乗用車とは違って、少々凝った塗装が施されているように見えた。

「ああ、これは夫の趣味でね。私には何が良いのかさっぱり分からないんだけど。なあに、それとも今どきの女の子はこういうのが好きなの?」

「いえ、別に」

 反射的に私はそう答えてしまうが、それではせっかく由美が誤魔化してくれたのに話のつじつまが合わなくなってしまう。

「エンジンや排ガスにまみれるくらいなら、まだかび臭い紙束に包まれていた方がマシだったかもね」

「かび臭い紙束?」

「ええ、私のお爺ちゃんが昔古本を集めていてね。いえ、一応売ってもいたみたいだけど。もうそれがこのガレージ、一杯に所狭しに敷き詰められていてすごかったのよ。家の中も浸食してきて書斎はもちろん廊下にまで溢れていたから、邪魔で仕方なかったわ」

「じゃあ、その本は」

「業者に買い取ってもらったそうよ。でも中には珍しいものもあって、思ったよりもまとまったお金になったってお父さんたちは喜んでいたわ。お父さんたちは蔵書が増えていくばかりなのをあまり良く思っていなかったから」

「そうですか」

 私は依然として困惑していながらも、なんとなく状況を把握し始めていただけに、がっかりしてしまう。それはきっと仕方のないことだろうが、そのお爺さんにとっては凄く大切なものだったはずなのに、それをあっさり売り払われてしまい、いわば邪険に扱われていたことを知るのは少し辛い気持ちになる。

「でも、このガレージってお爺さんの代からあったんですよね」

 明るくそう言ったのは由美だった。それにはその女性も驚いたらしく、「なんで知っているの」と聞き返す。

「私のお母さんが昔ここに古書店があったと話していて、そのときにそんな感じのことを聞いたんです」

 顔色一つ変えずにすらすらと作り話が出てくるところには素直に感心させられる。すると女性は苦笑いを浮かべた。

「ええ、そうよ。実は、お父さんたちは建物ごと建て替えようとしたんだけど、私の我儘で残したの。本は全く好きじゃなかったけど、子どもの頃にお爺ちゃんがいつもこのガレージで楽しそうに本のことを話していたのが印象的でね。お爺ちゃんもこの穴蔵みたいな場所がすごく気に入っていたみたいだから、壊してしまうのはちょっと可哀そうかなって子供心に思ってしまったのよ。とはいえ、そのおかげで今では夫の車を弄るための恰好の作業場になってしまったから後悔しているわ。まあでも、夫の生き生きした顔を見ているとたまに思い出すこともあったり……って、ごめんなさいね、こんな話をしてもつまらないわよね」

 ほんの少しだけ目を細めて遠くに想いを馳せるような表情をみせたが、それもすぐに引っ込めた。

「いえ、そんなことは無いですよ。それに私たちの方こそお邪魔してしまってすみませんでした。車で出かけるところだったんですよね」



 由美がパフェを頬張りながら言う。

「もしかしたら私たちは過去に迷い込んでしまっていたのかもしれないね。なんだかミステリー小説を読んだ時みたいな気分になってさ。ほら、本を一冊読み終わったときってお腹減ってくることない?」

「その感覚が全く分からないでもないところが、微妙な気分にさせられるわね。それにしてもちょっと食べすぎじゃないかしら」

「いやあ、人のお金で食べるものってなんでこんな美味しいんだろうね」

「奢るとは言ったけど、限度ってものがあるでしょ」

 先ほども繁華街でコロッケやら今川焼やらを奢らされており、すでに私の財布の中身はかなり寂しくなっている。

「別に私は半分ぐらい分けてもいいんだよ。あっ、そうだ。せっかくならあーんしてあげよっか」

 そう言ってスプーンにチョコアイスとフレークをよそって、こちらに差し出してくる。

「食べるなら自分で頼むわ」

「せっかく不思議な体験をさせてあげたのに」

「結局本は買えなかったし、何より古本屋はなかった」

「それは残念だっただろうけどさ」

 由美はスプーンを自分の口に持っていき、それをパクっと食べると、幸せそうな顔をする。

「でもタイムスリップは御免かな。未来ならともかく過去に行くのは」

「美味しいものが食べられないから?」

「そういうことだね。でもそう考えると、未来に行けばもっと美味しいものが沢山食べられるかもね。科学の発展やら何やらで」

「そうね。未来に行けば、きっと今実現していないものもきっと実現されて、もっともっと豊かな世界になっているでしょうね」

「そう言いながらも、あまり乗り気じゃなさそうだね」

「私だってずっと未来の世界を見てみたいとは思うわ。でも私にとっては今が一番丁度いいのかもしれないとも思ってね」

「丁度いい? いや、私だって今がずっと続けばいいと思ってはいるよ。可愛い可愛い灯ちゃんが目の前にいることだし」

「そう言ってくるとは思っていたけど、そうじゃなくて」

「あれ、違うの」

「全く違うわけでもないけど。ただ、なんていうか由美も含めて私を取り囲む人やモノ全てが、そこにあるのは何かそうなるべくしてなっているというか……あんまりうまく言葉にできないけど」

「詩人あかりん再びだね」

「今のは自覚あるけど」

「でも灯ちゃんの言う通りだよ。未来でも過去でもない今しか私たちにはないわけで、今だけが私にとっては全てだから。灯ちゃんだってそう思うでしょ」

「まあ、そうね」

 私も頷いて見せるが、一方ではもしかすると私たちは今を生きていると言うけれど、その今というものは実はそれほど確固たるものではなく、過去や未来が混在して入り交じっているものなのかもしれないと、そんなSFチックなことを考えていた。

「じゃあ、はい。あーん」

 気づくと由美が再び私の口元にスプーンを持ってきていた。私は危うく反射的にそれ迎えかけたが、あえてしかめ面を浮かべて少し遠ざける。

「じゃあって何よ、じゃあって」

「ノリでいけるかと思って」

 由美が悪戯っぽく笑うが、手はそのままでメニュー表を眺めながら、「うーん、次はティラミスでも頼もうかな」などと思案し始める。私はまだ食べるのかと呆れながらも、どうせなら私も食べないともったいないと思い直し、由美がメニュー表に気を取られている隙に、そのスプーンにパクついた。

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