第16話 宇宙
玄関を出ると、眩しくて目を細めたくなるほどの陽の光を存分に浴びせられる。
今日の天気は快晴、雲一つない青空が広がっていた。
いつも通り、由美が住んでいるマンションまで歩いていく。少し早足で歩いておよそ五分ほど。待ち合わせ場所であるマンションの前まで辿り着くが、やはりまだその姿はなかった。
私は顔見知りの守衛さんに「おはようございます」と挨拶をしながら一階のフロントに入ると、分厚いガラスの扉の脇に置いてあるインターホンに由美の住んでいる部屋の番号を入力する。
「ごめんね、由美ってばまだパジャマなのよ」
由美のお母さんが申し訳なさそうにそう言ってから、「ほら、由美。ぼさっとしてないでさっさと着替えなさい」と叫ぶのが聞こえてくる。
まだしばらくかかりそうなので、私はエントランスホールにあるソファーに座って待たせてもらう。幼い頃から出入りしているだけあって、ときどき見知った顔の人も通り、そのたびに軽く会釈を交わす。それから、こういった時のためにも常に鞄に入っている本を取り出し、それに目を落とす。今日は海外のSF小説である。舞台はSFというだけあって火星や金星などといった星々となっており、それなりにスケールは大きい。しかし話の内容はといえばいわゆる人情ものに近く、そういった意味では宇宙を舞台にする必要はそれほどなかったのではないかとも思わなくもなかったのだが、登場人物たちの少々皮肉めいた小気味よい会話が私を数行読んだだけで引きこんでいく。
「灯ちゃん」
私は忍び寄ってくる足音に気付かず、顔をあげるとすぐ目の前に由美の姿があったので思わずぎょっとしてしまう。
「趣味が悪いわよ」
「だって全然気づいてくれないんだもん」
由美は私が手にしていた文庫本をつつく。
「それよりも電車の時間は」
「んー、ギリギリだねえ」
「寝坊した人がなんでそんなに呑気なのよ」
「いや、私は普通に走ればたぶん間に合うけど、灯ちゃんは大丈夫じゃないでしょ。だから、今日は諦めるしかないかなって」
「それじゃあ、仕方ないわね。私も本に没頭していたわけだし」
「まったく、遅刻しそうなのに平然としているなんて、灯ちゃんは不良だなあ」
「ホントにどの口が言うのよ」
私は呆れながらも、一方で遅刻することにそれほど抵抗を感じていない自分がいることも自覚していた。よく勘違いされるのだが、私はそれほど真面目な人間ではない。必要のない波風は起こしたくないと思っているから場を弁えた言動に努めるだけであって、他人に迷惑をかけることもないのであれば、それほど気にしない。いや、もしかすると担任の先生には、自分の生徒が遅刻することで多少なりとも注意をしなくてはならないという責務を背負わせることになるのかもしれないが、それは一旦置いておくことにする。
「それにしても今日は本当に良い天気だねー」
「そうね」
私たちはまるで休日の朝に散歩でもしているかのようにのんびりと道を歩いていく。実際、そんな気分ではあった。
「ああ、このまま学校サボりたいなあ」
「ちょっと前に一週間も休んだばかりじゃない」
「そうだったっけ」
「何とぼけてるのよ」
私はため息をつく。
「でもさあ、ホントに今日は良い天気じゃない。空は晴れ渡って、太陽があったかくて、風も軽やかに吹いていて、これはもう日向ぼっこをしなさいとお天道様に言われているんだよ。こんな日に、狭い教室で授業を受けたり、会社に行ってパソコンの前で何時間も座っていたりしたら、罰が当たるってもんだよ。今日は日向ぼっこの日にして休みにするべきだね。ほら、最近は色んな休日があるから一日ぐらい混ぜてもバレないでしょ」
私はそれに対して返事はしなかったが、吹き抜ける風に頬を柔らかく撫でられるのが心地良く、確かに日向ぼっこの日にするのもそれほど悪くないかもしれないと不覚にも思ってしまう。
「なんだい、私の周りには不良しかいないのかね」
休み時間になると薫がいつものように私たちの席までやってくる。
「誰が不良なのよ」
「だってさ、平然と一限目の途中で教室に入ってくるわ、隣のお方は金髪に染めた上にピアスまであけちゃっていて、机の陰からこっちを見ている王子様はとんだナンパ野郎で、C組のあの子は一見ぽわわん系に見えてバンドなんてやっているんだよ。もう数え役満って感じでしょ」
「色々突っ込みどころはあるけど、バンドをやっているから不良っていうのはさすがに前時代的じゃないの」
「そうですよー」
「葉、いたのね」
当然のように一花の机の陰からこちらを見ている赤沢さんはともかく、薫の背後からぬるっと現れた葉には驚いた。
「恵美さんにCDを貸しにきたんです」
「あっ、わざわざごめんね。昼休みになったら行こうと思っていたんだけど」
最近は休み時間でも私たちと話すことが多い恵美は、自分の席から立ちあがりながら言う。
「いえ、次の授業が移動教室で教室の前を通る予定でしたので」
そう言って、某大手音楽ソフトショップのロゴが記されたオレンジ色の袋を手渡す。
「なになに、誰のCD?」
薫が興味津々に聞いてくる。
「あー、たぶん知らないと思うけどDAZY TO NIGHTって名前のバンドなんだけど」
私を含め他の誰も知らないようで首を傾げた。
「つい最近やっとメジャーデビューしたばかりのバンドなんですけどね、インディーズの頃から凄かったんですよ。それこそ大手レーベルのプロデューサーさんたちが小さなライブハウスにこぞって押し寄せるぐらいで、好みは分かれるかもしれませんが一聴の価値はあると思います。元々はガールズバンドだったんですけど、特にボーカルの方は圧巻の一言ですね。とにかく惹きつけられるのはその切なくて熱っぽい歌声、いえ歌い方といえばいいのでしょうか。まあそこが一番目立つ部分ですが、彼女たちの演奏も本当に隙が無くて……」
突然語り出す葉に皆があっけにとられる。葉はまもなくそれに気が付くと、「す、すみません。取り乱してしまいました」としょんぼりとうなだれてしまう。
「へえ。葉がそれだけ凄いって言うなら、私も聴いてみたいね」
しかし赤沢さんは何事もなかったかのように言う。おそらくそれは、普段マイペースな葉が意外なほどに人の反応を気にすることを分かった上でそうしたのだろう。
「そ、そうですか。それじゃあ、恵美さんの後に貸しましょうか」
「ああ、頼むよ」
赤沢さんはその端正な顔でにこりと微笑んでみせる。私はその顔に思わず見惚れてしまいそうになる。
「そういえば、由美ちゃんは来ないのかな」
薫がそんなことを言う。
「まだ昼休みじゃないんだから来ないでしょうよ」
私は当たり前のことを答える。
「えーでもさ、入学したばかりの頃は休み時間のたびに来ていた気がするじゃない」
「そういえば、そうだったな。入学して間もない頃なんか私は由美も同じクラスなのかと思っていたよ。違うクラスだと分かってからは、もしかして同じクラスに友達がいないのかと心配したけど」
「私が言うのも馬鹿らしいけど、由美はとにかく自分の中の優先順位に従って生きているから、たぶん自分のクラスで友達が出来なかったとしても全く気にしないと思うわ。まあ由美はそういうところは結構上手くやれるから、私はそんなに心配していなかったけど」
「アツアツですなあ」
薫がからかって、私の肩を指で突いてくる。
「アツアツっていうか、なんかそういうのを通り越したような信頼感があるよな、長年連れ添っている熟年夫婦みたいな」
「羨ましいことだね。私も灯ちゃんにとってそんな存在になりたいものだ」
「でも、そう考えると由美も少しは変わってきたのかもしれないわね」
私は今言われたこと以外にもいくつか思い当たるふしがあった。
「寂しい? 寂しいんですな?」
「薫」
私に無視されてますます煽ってくる薫に、一花が白い眼を向ける。
「どうかしらね。でも多分、そんなに悪いことじゃないと思うわ。由美はもっと他のことに目を向けた方が良いんじゃないかとは昔から思っていたから。由美はやる気さえあれば何でもそれなりにできるわけだし」
「確かに由美さんは何かと器用な上に、身体能力も高いですよねー。中学の時は、一年間だけ陸上部に入っていてかなり速かったと聞きましたよ。胸が小さくて空気抵抗が少ない分有利だからなんて謙遜していましたが」
「そういえば、春先にあった体力測定で総合評価が学年で四番とかだったよね。上位なんて運動部ばっかりだからちょっと話題になってた」
恵美が思い出したように言う。
「そうそう。だから、たまに私が由美を縛り付けているんじゃないかと思うのよね。それを由美に話すと怒られるんだけど」
「由美って灯に怒ることあるんだ」
一花が少し驚いたように言う。
「逆はともかくね」
「それはどういう意味よ」
私は先ほどから調子に乗っている薫を睨みつける。
「ほらほら、そういうとこだって」
「どう考えても薫が悪いだろ」
一花が呆れる。
「でもあれだな。灯は怒りっぽいかどうかはともかく、分かりやすくはあるな」
「そうそう、全部顔に出るもんね。それでいて、由美ちゃんは時々何を考えているのか分からないことがあるから怖いんだよねー」
「大体は灯のことを考えているんだろうけどな。そう考えると十分に分かりやすい方か」
一花もわりと好き放題に私たちのことを言う。
「なんかさっきから私たちのことばかり話していない」
「えーだってさ、なんだかんだ言って、なかなか二人みたいに仲の良い幼馴染なんていないじゃない。絶滅危惧種? 希少価値があるというか、レアメタル的な?」
「何言っているのかさっぱり分からないけど」
「要するに珍しいってこと。ほら、小さい頃に家が近所だったりして一緒に遊んでいたことがあっても、中学生ぐらいになる頃には、全然趣味が違っていたり親の都合で引っ越したりして、疎遠になることが多いでしょ。だから高校生までずっと仲が良いってどんな感じなのか興味があるんだよ。そうこれは、いわば学術的な好奇心とでもいうものなのです。決して面白がっているわけではないのです」
「ああ、そう」
「灯が私に冷たいよお」
「他にどんな反応をすればいいのよ」
私は恵美と葉にわざとらしく泣きつく薫にため息を交えて言う。
「人間関係なんて本当に些細なことがきっかけで、変わってしまうものだからね。だからこそ今ある縁を大切にしなくてはね」
「あなたはいつになく真面目なことを言うのね」
私は赤沢さんの方を見る。
「私はいつだって大真面目さ。見直してくれたかい」
「いえ、別に」
「さっきは私の横顔に見惚れていたのに」
「み、見惚れてないわよ」
私は慌てて否定するが、それがかえって赤沢さんを満足させてしまうことになる。
「へえ、そんな話をしていたんだ」
学校からの帰り道、ちょうど電車が最寄り駅についた頃、今日の午前中にしていた話を由美にした。
「それで思ったけど、確かに私たちって喧嘩とかほとんどしたことないわよね」
「だって無理だもん。灯ちゃんと数日間でも話せなかったら、干乾びて死んじゃうもの。いや、他人のようによそよそしくされただけで泣きわめきながらマンションの屋上からバンジージャンプしちゃうね」
「命綱があるのは良いことね」
「私が変わったって言うけど、灯ちゃんだってこういうこと言っても前ほどは顔を真っ赤にしなくなったよね。今もちょっと赤いけど」
「それはまあ、さすがに慣れてきたというか」
私は指摘されたことをわざわざ自分で言葉にするのが気恥ずかしくて口をもごもごさせる。「やっぱり灯ちゃんは可愛いなあ」と由美は口元を緩める。
「そういえば、中学生の頃、私が由美にろくに口を利かなかったこともあったわよね。でも、あの時の由美はバンジージャンプなんかする気配もなかったみたいだけど」
私は少しばかり仕返しをしてやりたいと思い、ふと思い出したことを口にしてみる。しかしそれが失敗だったことにすぐに悟る。
「ああ、そうだったね。でもそれを灯ちゃんから言い出すとは思わなかったなあ。あれは喧嘩じゃなくて灯ちゃんの言ったことがあまりにキザで、それを私が大笑いしちゃったのが原因じゃなかったっけ。えーと、何て言ったんだけ。ああ、確か……」
気付けば私は地面を蹴って全力で駆けだしていた。
「えっ、あっ、ちょっと灯ちゃん?」
身体能力的には由美の方がずっと上だが、突然のことに戸惑ったのか出足が遅れ、そのまま私が入り組んだ裏路地に逃げたのもあって、由美を撒いたのだった。
家に帰ってきた私が自分の部屋で着替えている途中で、チャイムが鳴った。私はてっきり由美が来たとばかり思い、無視しようとしたがインターホンのボタンが壊れるほど連打されるので、不審に思ってインターホンの画面を覗く。
「いるなら早く開けてよ。鍵忘れたの」
「なんで姉さんがこんな時間に」
私が玄関の扉を開けてから言う。
「授業がさ」
「休講になったのね」
「自主的にね」
「そう」
私は大学生というものがどれほど真面目に講義に出席するものなのか分からないので、それ以上は何も言えなかった。
「今日は仕事もないし、明るいうちからお酒飲めるじゃない。この絶好機を逃すわけにはいかないでしょ」
そう言って手には輸入品専門店で買ったと思われる、それなりに値の張りそうなワインのボトルを袋に提げているのを私に見せてくる。
「ところで何かあったの」
「別に、何もないわよ」
「アンタはホントに分かりやすいよね」
愛は玄関で靴を脱ぎ散らかして家に上がってくる。
「まさか由美ちゃんと喧嘩したとか。ああ、当たりか」
愛は私の顔を見ながら頷く。
「人の顔をじろじろ見ないでよ」
「まあ何でもいいけどさ、あとで由美ちゃんに謝りなさいよ」
「なんで私が悪いことしたみたいな言い方するのよ」
私はムッとする。しかし愛は特に気にすることもなく、むしろハッキリと言う。
「だって由美ちゃんがアンタに対して酷いことをするわけがないでしょ。私が口を挟むようなことでもないかもしれないけど、あんまり甘えすぎて愛想尽かれないようにしなさいよ。あんなに良い子、なかなかいないんだから」
愛はそのまま私の横を通りながら、鼻歌交じりにワイン瓶を袋の中でゆるやかに跳ねさせながら、リビングの方へ歩いて行く。
私は今日二度目に訪れたことになる由美のマンションでインターホンを鳴らす。
しかし何度鳴らしても返答はない。由美のお母さんは午後から友達とお茶をしに行くと言っていたので、いないのは分かっている。
もしあのまま帰ったのであれば、さすがにもう家に着いているはずだ。あいにく由美は携帯を携帯しない女子高生という世にも珍しい生き物であり、一応はここに来る途中も何度か電話してみたのだが出なかった。まさかまだ私を探しているのだろうか。そもそもさっきだっていわば私が勝手に自爆してしただけで、由美は全く悪くないのだ。むしろそんな私の言動にうんざりしていてもおかしくない。
愛想尽かれないようにしなさいよ、という愛の言葉を思い出す。
さっきも話していた通り、由美だって以前と比べたら変わってきている。家に皆を招待することもなかったし、私のところに来る頻度もほんの少しではあるが減った。それはつまり私から離れていく兆しなのではないだろうか。由美のことだから露骨に示さないだけで、内心ではもしかすると本当に私に対して愛想を尽きかけているのかもしれない。私は考えていることがすぐに顔に出るが、由美は違う。これまで由美のことを疑うことなどまるでなかったが、何を考えているのか計り知れないことはそれほど珍しくもなかった。だから今回もそうなのかもしれない。私はこの身体を重く押しつぶすようないつになく大きな不安に襲われる。
「さすがに大げさよ」
私は声に出してそれを打ち消そうとする。
「由美はきっとそんなことは思っていないわ」
その言葉とは裏腹に、どういうわけか目頭は熱くなり、様々な考えが頭の中で行ったり来たりして、その場で立ち竦んでしまう。
ただそれでも、まだいくらか冷静な判断を下せた。こんなところでいつまでも突っ立っていたら邪魔になるし、何より一旦家に帰って気持ちを落ち着かせた方が良いだろう。だからそうしようと思い、くるりと反転してフロントから出ようとした。しかしそこで丁度フロントの自動ドアが開く。私が動いたせいではないことがすぐに分かった。
「あれ、灯ちゃん」
そこにいたのは由美であった。
「ゆ、由美」
「どうしたの、その顔」
由美は驚きながら近寄ってくる。
「ま、待って」
私は手の平を由美に向けて制する。
「えっ」
「頼むから」
「そこまで言うなら待つけど」
由美はその場で立ち止まってくれる。私は一呼吸してから口を開く。
「えーと、その、さっきはごめんなさい。勝手にどこかに行ってしまって」
「いや、あれは私が悪かったよ。灯ちゃんがあまりに可愛いから、ちょっとからかいすぎちゃった」
由美はわざとらしく舌を出して自分の頭をコツンと叩いてみせる。それを見て、「だから、そういうところよ」と思わず声を大きくして言ってしまう。
「えっ、何。どういうところ?」
由美は自分の身体を触って確かめようとするそぶりをみせる。
「いつもそうやって由美は私を庇う」
「いや、庇うっていうか本当にそう思っているだけなんだけど」
そこでようやく由美は身体を触るのをやめて、こちらを見る。
「由美は私に優しすぎるのよ。そうやって、いつもいつも私のことを一番に考えてくれて」
「どうして泣いているの、灯ちゃん」
「そんなの、分からないわよ」
私は袖口でさりげなく、しかしおそらく全く隠せてない仕草で涙を拭こうとするが、いつの間にかそばに寄ってきていた由美がハンカチを手渡してくれる。私はそれを受け取らず断ろうとも思ったが、それこそ由美に甘えることになると思い、素直に使わせてもらう。
「ときにはさ、色々考えすぎて頭の中がごちゃごちゃになって、どうしようもなく不安になることだってあるよね」
由美はまるで私の考えていることが分かっているかのように言う。
「由美もそういうこと、あるの?」
私はすっかり鼻声になりながらも尋ねる。
「しょっちゅうあるよ。灯ちゃんがいつか私のそばから離れて行っちゃうんじゃないかとか、灯ちゃんが他の女の子と仲良くなって私のこと忘れちゃうんじゃないかとか、灯ちゃんがしつこいぐらいに私が付きまとってくるからうんざりしているんじゃないかとか、それから灯ちゃんが」
「もういいから」
私は泣いていることも忘れて、苦笑いを浮かべてしまう。
「えー、良くないよ。私は灯ちゃんと自分のことに関してはもうありとあらゆることを心配しているんだってことを知ってほしいもの」
「もう十分分かったって意味よ」
「ホントに? それならもう泣かなくても大丈夫だよね」
由美は歯を見せて笑いかけてくる。
「まあ、そうかもしれないわね」
「かもしれないじゃ困るんですけど」
「そう言われても」
「それなら」
すると由美は私にゆっくりと、そしてしっかりと両腕を私の背中に回して抱きしめた。
「灯ちゃんの涙が止まるまでこうしておくよ。そうすれば私にも見られないで済むでしょ。それに人肌ってなんだか安心しない?」
「……する」
私は短く答えた。
それからどれくらい経っただろうか。有難いことに通りかかる人もおらず、守衛さんに気づかれることも無かったので、そう長くはなかったのだろう。
「もう大丈夫だから。ありがとう、由美」
「私はずっとこうしていてもいいんだけど」
由美は少し残念そうに離れながら言う。
「そういえば灯ちゃんの胸、ちょっと大きくなった?」
「突然何を言い出すのよ」
「いや、ほら抱きしめたときに当たった感触からして中学生の頃よりちょっと成長しているかなって、うへへっ」
「その下品な笑みといい言動といい、まるで赤沢さんみたいよ」
「うっ、あんなろくでもない女と一緒にされたくはなかった」
由美は露骨に落ち込むが、すぐに気を取り直して「そうだ」と言う。
「これ、プラネタリウムのチケットなんだけど、一緒に観に行かない?」
由美が地面に置いていた鞄の中から取り出したのは、二枚の細長い紙切れだった。隣駅のすぐそばに小さいながらも立派な球状の灰色をした建物があった。
「ほら。中学生のとき、灯ちゃんがせっかく誘ってくれたのに行けなかったでしょ」
あの時も今回と同じように由美の前から逃げ出し、その後も機嫌を損ねていたため、結局行けなかったのだ。今日の自分の行動を振り返ってみても、あれから全く成長していない気がしてならない。
「それ、予約券?」
「いや、当日券」
「えっ、でも当日券なんていつ取りに行っていたのよ」
「今さっきだね。丁度自転車でひとっ走りして帰ってきたところに、灯ちゃんと遭遇したわけだよ。ほら、さっきはからかいすぎちゃったからそのお詫びに、一面の星空を買ってきたんだよ。あっ、えーと、今のは別にからかっているわけじゃなくて」
由美はハッとして口に手を当てる。一面の星空を買ってきたなどと最初に口にしたのは中学生の私に他ならない。
「中学生の時は、そもそも私が宇宙の隅っこにある小さくて静かな星を買ってそこに二人で住めたらいいのにとかなんとか言ったのを聞いて、そのすぐ次の日にプラネタリウムのチケットを灯ちゃんが取ってきてくれたんだよね。あのときは、本当に嬉しかったんだよ。言ったことを憶えていてくれたのはもちろん、灯ちゃんなりに私のためにしてくれたことがさ。だから今回はあのときのリベンジ、というか埋め合わせをしたいと思ったの。だから、一緒に行ってくれませんか?」
「埋め合わせも何も、私が変なことを言ったり逃げ出したりしたのが悪かっただけじゃない」
「いや、灯ちゃんは悪くないって」
「いえ、私が」
「いや、私が」
お互い一歩も譲らずに言い合うが、やがて私は肩の力を抜いて、「不毛ね」と呟く。
「羽毛寝袋?」
「その聞き間違いはちょっと無理があるんじゃないかしら。袋はどこから来たのよ。あと、さすがに羽毛はもう暑いと思うわよ」
「うん、うちは先週しまった」
私たちの声は徐々に小さくなり、周りには誰もいないのに関わらず、内緒話をするかのように、囁くように喋る。
「夜といえば、プラネタリウムの上映は何時からの回にしたの」
「二十一時、一番遅い時間だね。さすがに十八時は取れなかったよ。というか、丁度私が買った分で当日券が売り切れたんだよね」
「へえ、それはラッキーだったわね」
「ラッキーラッキーだよ。今なら宝くじ買っても一等当たっちゃうかも。いや、本当はもうとっくに当たっているんだけどね」
由美はそこで昔から変わらないイタズラっぽい笑みを浮かべて言う。
「だって、灯ちゃんはずっと私のそばで輝き続けてくれる一等星でしょ」
「私が言うのもなんだけど、その言葉の方がよっぽどキザで恥ずかしくないかしら」
思ったことを率直に伝えるが、由美の自信満々な様子が変わることはなさそうであった。
「まあ、いいけど。それはそうとまだ時間はあるし、どうしようかしらね。きっと向かうのは夕ご飯をうちで食べてからになるでしょう」
「じゃあ、フツーに灯ちゃんの家でいいんじゃない。今からどこか違う場所に行くのも微妙な時間だし」
「ああ、そういえば今ウチには授業をサボってお酒を呑んでる人もいたわ」
「えっ、愛ちゃんいるの。それなら私もお父さんの秘蔵コレクションを何本か差し入れしてあげようかな」
「それは由美のお父さんがかわいそうだからやめてあげなさい」
眩しい斜陽が差し込む中、私たちはいつものように二人で並んで歩いていく。そしてそれはきっと明日も明後日も変わらない。少なくとも私はそう思っているし、由美も同じように思ってくれているはずで、それさえ分かっていればもう十分だった。
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